第22話:悪貨
王宮の正面玄関である。石造りの重厚な両開き扉が、護衛の手によって開かれた。
ジュネーヴァがボリスを伴い、大理石の床へ足を踏み入れる。
彼女の右腕には、分厚い革張りの帳簿が抱えられていた。
帳簿の下には、数冊の歴史書の写しが重ねられている。
案内役の兵士が前を歩く。二人は高い天井の廊下を抜け、謁見の間へ向かった。
広い謁見の間である。壁際の大窓から光が入り、赤い絨毯の敷かれた床を照らしている。
部屋の奥の基壇の上に、木彫りの装飾が施された玉座が置かれていた。
ナルキスが玉座に腰を下ろしている。彼は右の肘掛けに腕を置き、手で顎を支えていた。
彼の右側には、オクタヴィウス、ファビウス、シルウィウスの三名が並んで立つ。
彼らはジュネーヴァの姿を視界に収め、目を細めた。一人が隣の男へ顔を寄せ、耳元で言葉を交わす。
彼の左側には、財務大臣テソリと文官マルクスが控えている。
テソリは目を床に落としている。マルクスは両手を体の横で真っ直ぐに伸ばし、拳を固く握っている。
ジュネーヴァは基壇の手前で足を止める。右腕に抱えた帳簿と歴史書を、左腕へ持ち替えた。
彼女は背筋を伸ばし、静かに一礼する。
ナルキスが顎から右手を離す。彼は玉座の背もたれに体を預け、ジュネーヴァを見下ろした。
「ジュネーヴァ嬢。改鋳令の件か」
ジュネーヴァはゆっくりと顔を上げる。彼女は表情を崩さず、真っ直ぐに視線を返した。
「殿下、改鋳令の発令、お見直しを伺いに参りました」
ナルキスは口角を上げる。彼は右手を軽く前へ出し、空間を叩く仕草をした。
「貴殿の借金も実勢で十分の一だ。喜びたまえ」
右側に立つ三名の男たちが、一斉に口元を歪める。
テソリは目を閉じ、マルクスの握られた拳はさらに力を増した。
ジュネーヴァは持参した分厚い書面を、基壇の前の机の上に静かに置いた。
「殿下、ご一読のほどを」
彼女の声は、広い謁見の間に平坦に響いた。
◇ ◇ ◇
ジュネーヴァは持参した歴史書の最初の頁を開いた。
「先々帝の御代、隣国アシリオン王朝が、銀貨の含有量を半分に落としました」
彼女は頁の記録を指で示す。
「五年で麦の値が四倍。商人は良貨を懐に隠し、市中には軽い銀貨だけが残りました。アシリオン朝は十年保たず、北の蛮族に滅ぼされました」
ジュネーヴァは次の頁を開く。
「西方のフェロニア共和国。改鋳開始から三年で、商船は港を素通りし、共和国の銀貨は外で受け取られなくなりました。今のフェロニアは、かつての版図の三分の一に過ぎません」
彼女は更に頁を捲り、別の事例を示す。
「東方のサルマティア王国。改鋳なさった王は、自国の兵士に給金を払えず、内戦で首を落とされました」
ジュネーヴァは書面の末尾を指で叩く。
「殿下、改鋳した君主が国家を保った例は、歴史上ございません」
ナルキスは書面を一瞥し、鼻を鳴らす。
「ふん、過去の話だ。我が王国は違う」
彼は書面を机の端へ押し退けた。
「私は王太子だ。歴史書を読む暇などない」
ジュネーヴァは閉じた書面を指先で軽く叩き、ナルキスへ視線を返す。
「殿下」
「何だ」
「お読みになっていらっしゃらないのですね」
ナルキスは絶句し、視線を泳がせた。背後の取り巻きたちは囁き合うのを止め、一斉に黙り込む。
財務大臣テソリが前に出る。彼は両手で自らの顔を覆い、首を横に振った。
「殿下、私は何度もご確認を……」
ナルキスは玉座から立ち上がり、テソリを指差した。彼の首筋に血管が浮き上がる。
「黙れ! 貴公の言葉も、歴史書も、聞き飽きた!」
文官マルクスは壁際で姿勢を正した。彼は握っていた拳を解き、静かに息を吐く。
ジュネーヴァは持参した書面を整え、脇に抱えた。彼女はナルキスへ向けて、淡々と告げた。
「殿下、警告は、申し上げました」
ジュネーヴァは右手を胸元に添え、静かに一礼した。
◇ ◇ ◇
王宮の正面玄関である。ジュネーヴァは石造りの階段を下り、広場へ向かって歩を進めた。
背後で重厚な両開き扉が閉じられ、硬い音が響く。
広場の端にミリオン家の馬車が停車している。ボリスが数歩先へ進み出た。
彼は木製の扉に手を掛け、外側へ引いた。
ジュネーヴァは帳簿と歴史書を抱えたまま、車内へ足を踏み入れる。
奥の座席に腰を下ろした。ボリスが対面の座席へ座り、扉を閉める。
馬車の中に静寂が落ちる。窓ガラス越しの光が、座席の革を照らしていた。
ボリスは両手を膝の上で組む。彼はジュネーヴァの顔を見据えた。
「お嬢、ようやりましたな」
ジュネーヴァは左腕に抱えていた帳簿と歴史書を、自身の隣の座席へ置く。
彼女は両手を体の前で軽く重ね、背もたれに体を預けた。
「業務ですもの」
ボリスは組んだ手を解く。右手で首の後ろを擦った。
「これで終わりでっか」
ジュネーヴァは懐に手を入れ、金属製のキセルを取り出す。
指先で柄の表面をなぞり、ゆっくりと視線を上げた。
「いいえ。改鋳令はもう動き始めております。市中の毒性が広がるのを、待つだけですわ」
ボリスの眉が中央へ寄る。彼は視線を足元の床へ落とした。
「お嬢、それを待ちはるんですか」
ジュネーヴァは吸い口を唇に挟む。火を点け、細い煙を空中へ吐き出した。
「待つ、ではございません。自然な帰結ですわ」
外から御者が手綱を叩く音が聞こえる。馬の蹄が石畳を蹴る音が続いた。
車輪が回転し、馬車がゆっくりと前へ動き出す。
車体が上下に微かに揺れ、規則的な走行音が車内を満たしていった。




