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第20話:宝石箱

 フォエニカ伯爵邸の応接間である。壁掛け時計の秒針が規則的な音を刻む。


 アガタはソファに浅く腰掛け、膝の上で指を握り合わせていた。


 ジュネーヴァがボリスを伴って入室する。ボリスは扉の前に立ち、両手を後ろで組んだ。


 ジュネーヴァはアガタの対面に立つ。彼女は鞄を開け、中から数枚の書類を取り出した。


 書類をテーブルの中央へ置く。ジュネーヴァは背筋を伸ばし、アガタを見下ろした。


「アガタ様、契約期日でございます」


 アガタの肩が跳ねる。彼女は握り合わせた手を解き、右手を左手で強く押さえた。


 視線がテーブルの上の書類を泳ぐ。アガタの口から、掠れた息が漏れた。


「指輪を……」


 アガタは言葉を切る。ジュネーヴァは革手袋を嵌めた人差し指で、書類の末尾にある署名欄を叩いた。


 そこにはアガタの筆跡で、名前が記されている。ジュネーヴァは指を止めた。


「契約条項のご確認は?」


 アガタの目から涙が溢れる。水分が頬を伝い、膝の上のドレスに濃い染みを作った。


 彼女はゆっくりと首を横に振る。


「いいえ……読まずにサインを」


 ジュネーヴァは表情を動かさない。声の高さも、部屋に入った時と同じ水準を保つ。


「お読みになっていらっしゃらなかったのですね」


 アガタは唇を噛み、沈黙する。彼女は右手の薬指から、紅炎の指輪を抜き取った。


 それをジュネーヴァの胸の高さへ持ち上げる。指輪にはめ込まれた石が、室内の照明を反射して赤い光を放つ。


 ジュネーヴァは指輪を受け取る。鞄から小さな木箱を取り出し、中の布地の上に指輪を置いた。


 木箱の蓋を閉める。金属の留め具が乾いた音を立てる。


 ジュネーヴァはテーブルから書類を回収する。それらを全て鞄の中へ戻し、留め金を掛けた。


 ◇ ◇ ◇


 キャエルス侯爵邸の応接室である。木製の扉が開き、ジュネーヴァが足を踏み入れた。


 父侯爵が部屋の中央に立つ。ベラリオは部屋の奥の壁際に控え、床へ視線を落としている。


 ジュネーヴァは父侯爵の数歩手前で足を止める。鞄を左手へ持ち替え、一礼した。


 父侯爵は目を閉じる。彼の右腕が下がり、腰の横で拳を作った。


「ジュネーヴァ嬢、息子の不始末で……」


 ジュネーヴァは顔を上げる。彼女の表情は動かず、声の高さも一定を保つ。


「ご当主様の苦渋、お察し申し上げます」


 父侯爵は目を開く。傍らの長机へ手を伸ばし、そこに置かれた長剣を持ち上げた。


「青嵐石の柄頭の剣を、お渡しする」


 父侯爵は両手で剣を水平に保つ。ジュネーヴァの胸元へ向けて差し出した。


 柄頭に埋め込まれた石が、窓からの光を反射して青い光を放つ。


 ジュネーヴァは両手を伸ばして剣を受け取る。手元の布で柄から刀身までを包み込んだ。


 持参した革袋の中へ、剣を滑り込ませる。


 ベラリオが壁際から一歩前へ出る。彼の肩が上下に揺れた。


「父上、申し訳……」


 父侯爵は首だけを後ろへ向ける。ベラリオを見据え、低い声を出した。


「黙っておれ」


 ベラリオの足が止まり、彼は再び俯く。父侯爵は前へ向き直り、息を吐いた。


 ジュネーヴァは革袋の紐を結ぶ。鞄の中から一枚の書類を取り出した。


「本状をもって、契約の履行といたします」


 ジュネーヴァは書類を長机の上へ置く。鞄と革袋を抱え、一礼した。


 ◇ ◇ ◇


 ペルラ公爵邸の広い応接間である。壁際には木彫りの重厚な戸棚が等間隔に並ぶ。


 天井からは水晶を連ねたシャンデリアが下がり、室内を均一に照らしている。


 両開きの扉が開く。ジュネーヴァがボリスを伴い、部屋の中へ足を踏み入れる。


 靴音が足元の厚い絨毯に吸収される。ボリスは扉の内側で立ち止まり、姿勢を正した。


 アウグストゥス・ペルラ公爵は部屋の中央に立っている。背もたれに複雑な彫刻の施された椅子の前である。


 クラウディアは公爵の斜め後ろに控えている。彼女は指を体の前で組み、視線を床に落としていた。


 ジュネーヴァは公爵の三歩手前まで進む。そこで足を止め、革製の鞄を右腕から左手へと持ち替える。


 彼女は背筋を伸ばす。公爵の顔を見据えた後、静かに一礼した。


 公爵は目を閉じる。彼の眉間に深く皺が刻まれ、腰の横で右手の拳を固く握る。


 沈黙が落ちる。公爵の口が開いた。


「ジュネーヴァ嬢、このようなことに」


 ジュネーヴァはゆっくりと顔を上げる。彼女は表情の筋肉を動かさない。


 声の高さも入室した時と変わらず、業務の響きで応じた。


「公爵様、契約に基づきますれば」


 公爵は目を開く。握っていた右手を解き、肺から息を長く吐き出した。


「わかっておる」


 公爵は横へ半歩移動し、椅子の脇にある円卓へ向き直る。天板の上には、木製の宝石箱が置かれていた。


 箱の表面には、銀の糸でペルラ公爵家の紋章が象嵌されている。


 公爵は両手を伸ばす。箱の両側面に指を掛け、円卓から持ち上げた。


 木箱の確かな重みが、公爵の腕の筋肉を張らせる。


 クラウディアが顔を上げる。彼女は組んだ手を解き、絨毯の上を一歩前へ踏み出した。


「父上、これは……」


 公爵は動きを止める。両手で宝石箱を保持したまま首を回し、クラウディアへ視線を向けた。


「家を守るためだ」


 クラウディアの目から涙が溢れる。水分が頬を伝い落ち、胸元のドレスの生地を濡らした。


 彼女は両手で顔を覆う。そのまま膝を曲げ、絨毯の上に崩れ落ちた。


「申し訳ございません」


 公爵は再びジュネーヴァの方へ向き直る。彼女の胸の高さへ、両手で宝石箱を差し出した。


 ジュネーヴァは左手に提げていた鞄を足元の絨毯に置く。手を伸ばし、公爵の指から箱を受け取る。


 公爵は空いた手を体の横へ下ろす。彼はジュネーヴァの目を正面から見据えた。


「ジュネーヴァ嬢、当家の苦渋、お察しいただきたい」


 ジュネーヴァは宝石箱を抱えたまま、公爵へ視線を返す。彼女の目元の筋肉がわずかに緩み、姿勢を正した。


「公爵様、ご決断、お見事ですわ」


 ジュネーヴァは膝を曲げ、足元の鞄の取っ手を右手で掴む。立ち上がりながら、鞄の口を大きく開いた。


 両手で宝石箱を支え、鞄の中へ滑り込ませる。


 革の蓋を閉じ、金属の留め金を掛ける。カチャリという乾いた音が、広い室内に響いた。


 ジュネーヴァは鞄を左手へ持ち替える。


「家宝を売る覚悟がおありの方は、家を守れます」


 ジュネーヴァは絨毯の上を一歩後ろへ下がる。鞄を体の横に提げ、公爵へ向けて深く一礼した。


 彼女は背を向け、扉の方へ歩き出す。ボリスが扉のノブに手を掛けた。


 ◇ ◇ ◇


 王都の目抜き通りである。石畳の上を荷馬車が音を立てて通り過ぎる。


 道端には露店が連なり、品物を売り込む声が絶え間なく響いていた。


 ジュネーヴァはボリスを伴い、人混みを避けて通りの端を歩く。


 前方から、王宮の制服を着た護衛の集団が近づいてきた。


 集団の中央をダフネが歩いている。


 彼女はジュネーヴァの数歩手前で足を止め、護衛たちを右手で制した。


 護衛たちが左右へ下がる。ダフネはジュネーヴァの目を見据えた。


「ジュネーヴァ嬢」


 ジュネーヴァは足を止める。鞄を左手に持ち替え、静かに一礼した。


「殿下」


 ダフネは指を体の前で組む。彼女の姿勢は真っ直ぐに保たれていた。


「社交界の三家、家宝を手放されたと伺いました」


 ジュネーヴァは顔を上げる。表情の筋肉を動かさず、声の高さを一定に保つ。


「契約通りの執行ですわ」


 ダフネは組んだ手の指先を動かす。


「あなたは社交界には頻繁に出ていらっしゃるのですね」


 ジュネーヴァは瞬きを一度する。


「業務の一環でございますわ」


 ダフネは顎を引く。声の調子を平坦にした。


「私は、社交界には参りません」


 ジュネーヴァは首の角度を変えない。


「左様ですか」


 ダフネは組んだ手を解く。両腕を体の横へ下ろした。


「あなたが社交界で何をなさっていらっしゃるか、見届ける気もありません」


 ジュネーヴァは僅かに目線を下げる。


「殿下のお立場、お察しいたしますわ」


 ダフネは無言で頷く。彼女は視線を前に戻し、再び歩き出した。


 護衛たちがそれに続き、ジュネーヴァの横を通り過ぎていく。


 ミリオン家屋敷の執務室である。机の上には、回収済みの銀貨の山と、銀製の天秤が置かれている。


 ジュネーヴァは銀貨を一枚摘み上げ、秤の片皿に乗せた。反対側の皿に分銅を一つずつ加えていく。


 針が水平で止まる前に、最後の分銅が一つ余った。


 彼女は指先を止め、銀貨を秤から下ろす。同じ動作を、別の銀貨で繰り返す。


 針の止まる位置は、わずかに下にずれていた。


「ボリス、この銀貨、規定より軽くないかしら」


 ボリスは机の上の銀貨を一枚摘み上げ、指先で転がした。


「言われてみたら、ちょっと軽いような。気のせいでっしゃろ」


 ジュネーヴァは秤の針を見つめ、唇を一文字に結ぶ。


 扉が叩かれた。執事が銀盆を捧げ、新たな招待状の束を運び入れる。


「お嬢様、社交界からのご招待状が、新たに七通」


 ジュネーヴァは天秤から銀貨を下ろし、招待状の束へ手を伸ばした。封蝋の家紋を一つずつ確認し、優先順位を頭の中で組み立て始める。


 机の隅で、計量を中断された銀貨の山が、陽の光を鈍く返した。


 ジュネーヴァは机の上に分厚い帳簿を引き寄せ、椅子に座って文字の列を人差し指でなぞる。


 彼女は指を止め、ページを捲る。紙の擦れる音が室内に響いた。


「綺麗に落ちましたわね」


 ボリスが部屋の隅から口を開く。彼は壁に背を預けたまま、腕を組んでいた。


「お嬢、また仰ってますな」


 ジュネーヴァは帳簿から顔を上げる。机上の羽ペンを手に取り、インク壺へ浸した。


「気のせいでしょう」


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