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第19話:散財の代償

 重厚な黒檀の机が、私室の中央に鎮座している。厚手のカーテンは引き絞られ、室内には蝋燭の火が微かに揺れている。


 部屋の隅では、大理石の女神像が淡い光を放つ。主人の私室は、外界の喧騒を完全に拒んで静まり返っていた。


 アガタは長椅子に身を沈め、向かいに立つ夫から目を逸らす。机の上には、ジュネーヴァ嬢の印章が押された羊皮紙の束が、不規則に積み上げられている。


 アガタの胸元には、新しく届いたばかりのルビーが、深紅の輝きを湛えている。重なる請求書には、ここ数週間で買い求めた宝飾品の代金が並ぶ。その末尾に記された累計額は、もはやフォエニカ家の一年分の税収を遥かに超えていた。


「アガタ、また借りたのか」


 夫の問いは低く、重い。アガタは膝に置いた扇を強く握り、指先を白くさせた。


「ですが、新しい宝石が必要だったのよ……」


 震える声が、室内の静寂を微かに揺らす。アガタは顔を上げ、夫の眉間を見つめた。


「家宝は」


 短く重い問いが部屋に落ちる。アガタは背筋を伸ばし、努めて姿勢を保ったまま夫の視線を受け止めた。


「担保ですけれど、まだ手元にございますわ」


 アガタは卓上の書類へ手を伸ばし、指先でその端を丁寧に揃える。


「いつまで保つと思っているんだ」


 夫は机を叩くこともなく、ただ一歩だけアガタに歩み寄った。アガタは、わずかに微笑を浮かべ、夫の目を真っ直ぐに見返す。


「そういうことにしておきましょう」


 伯爵は深く目を閉じ、机の上で拳を強く握り締めた。


 ◇ ◇ ◇


 壁には磨き上げられた大盾が並び、中央には黒檀の執務机が置かれている。開け放たれた窓からは強い外光が入り、空中に舞う微細な塵を白く照らしていた。


 キャエルス侯爵は背もたれに深く体を預け、息子の正面に座る。ベラリオは机の数歩手前で、両手を身体の脇に揃えて直立したまま動かない。


 侯爵は、指先で卓上の厚い紙束を強く弾く。そこにはジュネーヴァ嬢の私印が赤く押され、多額の借入金と青嵐石の柄頭の剣が担保として記されていた。


 侯爵は請求書の一枚を手に取ると、音を立てて机の上へ叩きつける。


「貴様、ジュネーヴァ嬢から、いくら借りた」


 ベラリオは視線を床の一点に落とし、喉を一度鳴らす。


「父上、青嵐石は……」


「何という愚息か! 家宝を担保に……」


 侯爵は椅子を引き、両手を机の端に突いて身を乗り出す。ベラリオは肩を細かく震わせ、さらに深く頭を下げた。


「申し訳……」


「キャエルス家の家宝の評価書を取り寄せろ」


 侯爵は再び椅子に座ると、羽ペンを手に取り、息子から視線を外して手元の書類へ落とす。ベラリオは一度だけ深く頭を下げ、踵を返して退室した。


 ◇ ◇ ◇


 白い石材の壁には飾りがなく、窓から差し込む陽光が床の木目を照らしている。空中に舞う微細な塵が、光の筋の中で白く浮き上がる。


 床に敷かれた青い絨毯は毛足が寝ており、縁の糸が数箇所で解れている。部屋の隅に置かれた飾り棚には、彫刻も金箔も施されていない木製の器が並んでいた。


 ジュネーヴァは黒い外套を脱ぎ、ボリスを伴って応接室へ入る。ボリスは入り口の脇に立ち、手にした茶色の鞄を音を立てずに床へ置いた。


 エラリオは背もたれの低い木製の椅子から立ち上がり、正面の席を指し示す。卓上には布も敷かれず、長年の使用で角が丸くなった木の面が露出している。


 ジュネーヴァは背筋を伸ばして椅子に座り、膝の上で手袋を脱ぐ。エラリオは彼女の動きを待ってから、自身の前に目を落とした。


 エラリオは衣服の内側から一通の書状と、膨らんだ革袋を取り出した。革の表面は擦れて茶色い地が見えており、机の表面に置かれると硬い金属の音が響く。


「ジュネーヴァ嬢、本日をもって、当家の借入を完済いたします」


 ジュネーヴァは革袋には触れず、差し出された書状を指先で手元に寄せた。書状の末尾には、黒いインクでエラリオの署名が記され、その横に家紋の印章が赤く押されている。


 彼女は署名を一度だけ確認し、ゆっくりと顔を上げた。


「ご立派ですわ」


 エラリオは両手を膝の上に置き、ジュネーヴァの視線を真っ直ぐに受け止める。


「家宝も、社交界での見栄もございません。ですが、ご返済の覚悟だけは」


 ジュネーヴァは組んでいた手を解き、開いた掌を机の上に置いた。


「家宝のあるなしより、家宝を売る覚悟があるかどうかですわ」


 エラリオは座ったまま、一度だけ深く頭を下げる。


「お言葉、肝に銘じます」


 ジュネーヴァは椅子から立ち上がり、手袋を再び嵌めた。


「ノブリス子爵、あなたのような方は、当家にとって最も大切なお取引相手ですわ」


 彼女は短く頷き、扉へと歩き出す。ボリスが音もなく扉を開け、二人の足音が廊下の先へと遠ざかっていった。


 ◇ ◇ ◇


 天井の隅には金箔の装飾が並び、開かれた窓からは傾いた陽の光が、床の絨毯を赤く染めている。財務大臣テソリは、机の上に広げた分厚い帳簿の端を指で押さえた。


 卓上には、各貴族家から集まった支払い延滞の報告書が積み上げられている。テソリは羽根ペンを置き、目頭を強く押さえてから顔を上げる。


 ナルキスは部屋の中央で、壁に掛けられた王国の地図を眺めている。彼は自身の爪先を見つめると、苛立ちを隠さずに絨毯を一度蹴った。


「殿下、借り換えた貴族の借入が膨らんでおります」


 テソリの声は、室内の静寂に低く響いた。ナルキスは地図から視線を外し、面倒そうに首を回す。


「面倒だ。徳政令を出せばよかろう」


 ナルキスは机の端に腰を掛け、テソリの手元にある帳簿を払い退けた。テソリは椅子の背を軋ませ、前のめりになって訴える。


「殿下、徳政令には王国法の規定が」


「貴公が読み上げる必要はない。手続きを進めろ」


 ナルキスは鼻で笑うと、腰に差した短剣の柄を指先で弾いた。テソリは震える手で、足元に落ちた帳簿を拾い上げる。


「殿下、王国法をもう一度ご確認くださいませ」


 テソリの言葉に、ナルキスの眉間に深い筋が寄る。彼は机から立ち上がり、テソリの顔の横に拳を叩きつけた。


「黙れ、貴公の言葉は聞き飽きた」


 ナルキスはそのまま踵を返し、音を立てて扉を開け放った。テソリは机に両手を突き、項垂れたまま動かない。


 廊下の影では、文官マルクスが壁に背を預けて立っていた。彼は開かれた扉の隙間から室内の様子を窺うと、手にした手帳を閉じて暗がりの奥へと姿を消した。


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