第17話:派閥の輪郭
深夜。ヴィアトル男爵邸の離れに、一台の馬車が音を潜めて停まった。外の通りから、建物の陰に隠れたその姿は窺えない。
ガイウス・ヴィアトル男爵が扉を開け、訪れた者たちを応接間へと案内した。
分厚いカーテンが引かれた室内の灯りは、卓上の燭台に立てられた数本の蝋燭のみである。
中央の長椅子に、黒いドレスをまとった王女ダフネが腰を下ろした。
対面の席に、アヴェリオ・カンプス子爵とエラリオ・ノブリス子爵が並んで座る。マルクス・スクリプトルは卓から距離を取り、壁際で両手を前で組んで静止した。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます」
ヴィアトル男爵が卓の傍らに立ち、深く一礼した。
「お招きいただき、感謝いたします、ヴィアトル男爵」
ダフネが応じる。
「殿下のお手紙をいただいた時から、いずれこの日が来ることは、覚悟しておりました」
ヴィアトル男爵は頭を上げ、空いていた席に腰を下ろした。
カンプス子爵が居住まいを正す。
「殿下、お久しゅうございます」
「カンプス子爵殿。種もみの話、ジュネーヴァ嬢から伺いました」
「あれは、生涯のご恩でございます」
カンプス子爵は目を伏せた。
隣の席で、エラリオが口を開く。
「殿下、私のような者まで」
「ノブリス子爵様。家宝を売却してでもご返済を貫かれた、ご立派なご決断と伺いました」
「家を守るため、当然のことを」
エラリオは短く答え、前を向いた。
ダフネが顔を向けた。視線は壁際に立つマルクスに注がれる。
「マルクス殿。王国法をご確認いただき、ありがとうございました」
マルクスが顔を上げ、小さく一歩前へ出た。
「殿下、私は……ただの文官でございます」
「ですが、あなたの知識がなければ、今この場はございません」
ダフネが声を掛ける。マルクスは歩みを止め、再び一歩下がって元の位置に戻った。室内で蝋燭の炎が小さく揺れる。
揺れていた蝋燭の炎が真っ直ぐに立ち上がり、室内に深い静寂が落ちた。誰も口を開かず、各自の微かな呼吸の音だけが聞こえる。
ダフネは卓の上で指を組み合わせた。同席する領主たちへ、ゆっくりと視線を巡らせる。壁際ではマルクスが微動だにせず立っている。
「率直に申し上げます。王国は、おそらく崩れます」
カンプス子爵とヴィアトル男爵が、無言のまま顔を見合わせた。壁際のマルクスが目を瞬かせ、静かにあごを引く。
ダフネは組み合わせた指先へ目を落とし、言葉を継いだ。
「ナルキス兄上は、また何かやらかします。徳政令か、もっと大きな何かを」
「……我々はどうすればよろしいので」
ヴィアトル男爵が姿勢を正し、ダフネを見て問いを投げた。
「中立を保ってください。王宮にも、ミリオン家にも、過度に肩入れしないで」
「中立、とは」
カンプス子爵が卓に手をつき、言葉を返した。
「兄上の暴走に巻き込まれないでください、ということです」
ダフネが顔を上げ、正面のカンプス子爵を見据える。
「返すべきものは返す。守るべきものは守る。それだけで結構です」
「ですが殿下、王宮の借り換えに参加しなかった以上、もはや中立とは……」
エラリオが口元に手を当て、声をこぼした。
「ノブリス子爵様。借り換えに参加なさらなかったのは、王宮への不参加ではなく、契約への誠実さでございます」
ダフネの視線がエラリオに向けられる。エラリオは手を膝の上に下ろし、前を向いた。
「ジュネーヴァ嬢との直接契約を保つことは、王国にとってむしろ望ましいことです」
「兄上はそれを理解されておりません」
ダフネが言葉を切った。室内を満たす静寂のなかで、ヴィアトル男爵が僅かに身を乗り出す。
「殿下、では、ジュネーヴァ嬢のお立場については」
「彼女は取引相手です。敵でも味方でもありません」
ダフネが卓の上の手をほどき、膝の上へ置く。
「ですが、ご賢明な方です。私たちが筋を通せば、彼女は契約を守ります」
「それで充分です」
ダフネは膝の上に置いていた指を、ゆっくりとほどいた。手を脇へ下ろして背筋を伸ばし、あごを引く。正面に座る領主たちへ、静かに視線を向けた。
「もし、王国が真に立ち行かなくなった時は、私が継ぎます」
ヴィアトル男爵が目を見開き、卓へ身を乗り出した。隣のカンプス子爵は肩を震わせ、指先をわずかに浮かせる。エラリオは短く息を吸い込み、その場で動きを止めた。
「……殿下が、女王に?」
ヴィアトル男爵が低い声で問いを落とす。
「父のお許しはいただいております。万が一の場合のみ、ですが」
ダフネは表情を変えずに答えた。カンプス子爵が卓へ手をつき直す。
「先王陛下が、殿下に……」
「ええ。父は、ご病床で『その時は、お前が継げ』と仰ってくださいました」
ダフネは言葉を区切り、正面を見据えた。エラリオが姿勢を戻し、口を開く。
「殿下、私どもは、どうあるべきでしょうか」
「私を、信じてもらえますか」
室内に沈黙が落ちた。誰も言葉を発せず、それぞれの呼吸の音だけが空気に溶けていく。卓上では数本の蝋燭が燃え続け、壁に落ちた影が微かに揺れていた。
静寂のなかで、カンプス子爵が顔を上げた。他の誰よりも早く動き、卓の上の両手に力を込める。
「先王陛下が殿下を信じられるなら、私もです」
ヴィアトル男爵が腕を組み、椅子の背もたれから体を離した。
「街道は、必要な時に閉じます。誰が通るか通らないかは、私の家が決めます」
エラリオが両手を膝の上で強く握りしめ、真っ直ぐにダフネを見た。
「私の家には魔石も街道もございません。ですが、誠実さなら、まだ残っております」
壁際に控えていたマルクスが、無言で一歩前へ踏み出した。硬い靴音が室内に響く。卓の傍らまで進み出て、手を脇に下ろし深く頭を下げた。
「殿下。王国法は私が守ります。徳政令も、相続放棄も、すべての条文を確認しております」
マルクスは顔を上げ、言葉を継ぐ。
「兄上殿下が次に何をなさろうと、その手続きは正しく執行されるよう、見届けます」
「ありがとうございます」
ダフネはマルクスから視線を外し、一人一人の顔を見つめ返した。深く息を吸い込み、指を再び膝の上で組み合わせる。
「兄が暴走する以上、誰かが王国を継がねばなりません」
ダフネはまばたきを一つし、声を落とした。
「覚悟を、固めました」
その場にいる全員が、無言で深く頷いた。
会談を終え、応接間から各人が立ち上がった。足音を抑え、カンプス子爵、エラリオ、マルクスの順に時間をずらして外へ出る。それぞれ別の馬車に乗り込み、音を潜めて屋敷を離れていく。
最後に出立するダフネが玄関へ進み出た。分厚い木の扉が開かれ、夜明け前の冷たい外気が入り込む。ヴィアトル男爵が一人、見送りのために傍らへ立っていた。
「殿下、お気をつけてお帰りください」
「ヴィアトル男爵。今宵のこと、決して忘れません」
「私どもも、忘れません」
ヴィアトル男爵は両足を揃えて姿勢を正し、深く頭を下げた。
「先王陛下のご遺志は、必ず」
ダフネは無言で小さく頷いた。
身を翻して玄関の石段を降り、待たせていた馬車へ乗り込む。扉が閉められ、静かに御者が手綱を引く。
車輪が石畳を打ち、馬車が王宮へ向けて走り出した。規則的な揺れが車内に響く。ダフネは背もたれに体を預け、膝の上で指を組み合わせた。
兄上が次に何をなさるか、徳政令か、もっと大きな何かか。ジュネーヴァ嬢は、必ずその時を見据えていらっしゃる。私たちも、見据えていなければなりません。
車窓の向こうで、東の空が淡く白み始めていた。




