第12話:蝕まれる王国
王宮の深部にある国王の寝室は、質素でありながら上質な造りを見せている。
壁板には艶やかな木材が使われ、彫刻などの装飾は部屋の四隅に留められていた。
高い天井の下、部屋の中央に据えられた天蓋付きのベッドの傍らには、黒塗りの小机が置かれている。
その表面には、侍医が持参した革張りの薬箱と、家臣が運び込んだ羊皮紙の束が整然と並んでいた。
窓からは、午後の光が差し込んでいる。しかし光量は少なく、厚い絨毯の上に落ちる家具の影は輪郭がぼやけていた。
ベッドの上に、国王テオドリクス三世が横たわっている。
白い寝着から覗く首筋や腕は、肉の厚みが薄れていた。皮膚の下には青い血管が這い、骨の形が浮き出ている。
白い髪が枕の上に散らばり、顔には深い皺がいくつも刻まれていた。
侍医が身を屈め、国王の手首に三本の指を当てている。
室内には、布が擦れる音と、微かな呼吸の音だけが一定の間隔で響いていた。
やがて、侍医は静かに指を離した。
国王の腕を掛け布の下へ戻し、姿勢を正す。
「陛下、今日はお休みになられた方が」
侍医の声は低く、平坦だった。
国王はゆっくりと目を開いた。瞳の奥には、濁りのない光が残っている。
首をわずかに動かし、ベッドの足元に控える家臣に目を向けた。
「政務はどうなっておる」
声にはかすれが混じっていたが、寝室の壁際まで明瞭に届く響きがあった。
問いかけられた家臣は、抱えていた羊皮紙の束を強く握り直した。
家臣の目線が揺れ、一度床へと落ちる。
すぐには言葉が続かず、唇が何度か開閉された。
家臣は短く息を吸い込み、国王へ向かって深く頭を下げる。
「ナルキス殿下のご謹慎、解除のご検討を、と諸臣からのお声が上がっております」
国王の眉間が寄り、両目が閉じられた。額に幾筋もの深い皺が刻まれる。
掛け布の上に置かれた手が握り込まれ、シーツの生地を引き絞る。指の関節が白く変色していた。
「あの愚息の謹慎を解いて、何の得がある」
低く抑えられた声が、床を這うように響いた。
家臣は顔を上げないまま、言葉を繋ぐ。
「ご裁可を仰げる王族の方々が、ご健勝でない以上、政務が滞っております」
家臣の報告が途切れると、室内の空気は動きを止めた。
侍医は壁際に立ち尽くし、家臣は羊皮紙を抱えたまま俯いている。
書類をめくる音も、衣擦れの音も生じない。
国王はシーツを掴んでいた指の力を徐々に緩め、ゆっくりと閉じていた目を開いた。
長い瞬きを一つし、大きく息を吐き出す。
そのまま首を巡らせ、窓の外へと顔を向けた。
ガラス窓の向こうには、厚い雲に覆われた秋の空が広がっている。
窓枠の端に見える木の枝は水分を失い、黒く乾ききっていた。
その枝の先から、茶色く変色した葉が一枚、冷たい風に吹かれて視界の外へと落ちていった。
◇ ◇ ◇
家臣と侍医が退出した後の寝室には、微かな衣擦れの音すら消え、深い静寂が満ちていた。
窓から差し込む秋の午後の光は、時間が経つにつれてその角度を下げている。
絨毯の上に落ちた四角い光の枠は、わずかに赤みを帯び、部屋の壁際に置かれた家具の陰影を柔らかくぼかしていた。
厚い木製の扉が、金属の取っ手のかすかな音とともに開かれる。
ダフネが静かに室内へと足を踏み入れた。
靴音が絨毯に吸い込まれ、足取りの音は響かない。
ベッドの脇まで進み、ダフネは立ち止まった。両手は体の前で重ねられ、背筋は真っ直ぐに伸びている。
ベッドの上に横たわる国王の姿は、厚い掛け布に覆われていた。
シーツの上に置かれた手の甲は青白く、皮膚の下の血管の色が透けて見える。指先には血の赤みが通っていなかった。
ダフネの視線が、父の乾いた手元から、皺の刻まれた顔へと静かに移る。
「父上。ナルキス兄上の謹慎、まだ解かれませんか」
ダフネの声は低く、寝室の静寂を乱さない程度の音量だった。
「あれは謹慎が必要だ」
国王は仰向けのまま答えた。声の張りは薄れているが、音の響きははっきりとしている。
「ですが、政務が……」
「お前が政務を執るか」
国王の言葉が続く。
ダフネの開いていた唇が、音もなく閉じられた。
体の前で重ねられていた両手が離れる。指先が自身の衣服のひだを微かに握った。
まっすぐ向けられていた目が、ベッドの足元の床へと伏せられる。
まばたきの回数が減り、ダフネの体から一切の動きが消えた。
部屋の中に、規則的な呼吸の音だけが落ちる。
「お前は聡明だ。だが、王家の継承は順序がある」
国王は身じろぎ一つせず、天井を見つめたまま言葉を発した。
「男子継承者がいなくなれば、お前が立たねばならぬ」
ダフネは伏せていた顔を上げ、再び国王の貌を見る。
「父上。兄上は、また何かやらかすかもしれません」
声の高さは変わらないまま、言葉が落ちる。
「……わかっておる」
「もし、兄上が……取り返しのつかないことを、また」
国王は口を閉ざした。
皺の寄ったまぶたが、ゆっくりと下りる。
鼻先から、長く、重い息が吐き出された。
シーツの上に置かれていた右手がわずかに動き、指先が白い布地を掴む。
胸の上下する動きが一度だけ大きくなり、再び元の浅い呼吸に戻る。
閉じていた目が開かれた。
視線はダフネの顔を通り越し、窓の外の遠くの空へと向けられている。
シーツを掴んでいた指関節が、白く色を変えた。
「その時は、お前が継ぐ」
微かな擦れを伴う声が、室内を満たした。
「父上、私はそのような……」
ダフネの目が見開かれる。
衣服を握っていた指先の力が抜け、手がわずかに持ち上がる。
「覚悟だけはしておけ」
窓の外へ向けられていた国王の視線が、ダフネへと戻る。
ダフネは開いていた唇を合わせ、瞬きを一つした。
目が伏せられ、腰から上体が折られる。
両手が再び体の前で重ねられ、ダフネは深く頭を下げたまま静止した。
◇ ◇ ◇
王宮の東翼に位置する文官の執務室は、高い天井に支えられた空間だった。
等間隔に並んだ厚い木製の長机の上には、決裁を待つ羊皮紙がいくつもの山を作っている。
窓から差し込む秋の午後の光は、時間が経つにつれて赤みを増していた。
床に長く伸びた机や椅子の影は、部屋の隅に向かって境界を曖昧に溶け込ませている。
壁際に設けられた石造りの暖炉では、薪が爆ぜる低い音が一定の間隔で鳴っていた。
室内には数人の文官がそれぞれの机に向かい、作業を続けている。
インク壺にペン先を浸す音、乾燥した紙が擦れる音、そして短い咳払いが重なる。
机上の書類の山は、昼前からほとんど高さが変わっていない。
マルクス・スクリプトルの机に、財務省から回覧された一通の諮問書が回ってきた。
彼は表題に目を落とす。「貨幣含有量に関する諮問書」。
頁を捲り、本文の数行を目で追う。マルクスの眉が、わずかに寄った。
隣の机の年長文官が、彼の手元を覗き込み、すぐに目を逸らす。
「マルクス、それは見なかったことにしておけ」
マルクスは諮問書を閉じ、無言で次の机へ回した。
ひとりの年長の文官が、手にしていたペンを机に置いた。インクの染みがついた指先で眉間を強く揉みほぐし、大きく息を吐き出す。
「あのお方が戻られたら、また面倒事が増える」
声を潜めた響きが、隣の机へと届く。
別の年長の文官が、手元の書類から顔を上げず言葉を返した。
「だが、政務を担える方は他にいない」
執務室の奥、壁際の長机でひたすらにペンを動かしていた若い文官の手が止まる。
マルクス・スクリプトルは、ペン先をインク壺の縁で静かに拭った。
伏せられていた顔が上がり、言葉を交わした年長の文官たちへと向けられる。
「ダフネ殿下が……」
抑制された短い言葉が落ちる。
紙の擦れる音が途絶え、室内にわずかな空白の時間が生まれた。
最初に声を上げた年長の文官が、マルクスへと顔を向ける。
「殿下は王女だ。継承順位は第三位、男子優先の慣例上、王太子にはなれぬ」
言い含めるような低い声が響いた。
マルクスは目を逸らさなかった。瞬きを一つし、再び口を開く。
「だが、聡明であられる」
暖炉の薪が、ひときわ大きな音を立てて崩れ落ちた。
マルクスの背後の机に座っていた別の文官が、手にした羊皮紙を机の上に軽く叩きつける。
執務室の扉や窓へ一度素早く目を走らせてから、口を開いた。
「マルクス、滅多なことを言うな」
咎める声の調子は、低く抑えられていた。
マルクスは、声のした方へわずかに首を向ける。
小さく開いていた唇を閉じ、首を微かに下げる。
「……」
マルクスは再び前を向き、自らの机上に積まれた書類の山へと目を落とした。
指先でペンを拾い上げ、羊皮紙の上にインクを滑らせる。
執務室には再び、ペン先の走る音と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが戻っていった。
◇ ◇ ◇
王都の入り組んだ路地には、秋の夕暮れ特有の底冷えする空気が流れ込み始めていた。
建物を支える分厚い石造りの壁には、黒い塗料の跡がいくつも残されている。
「金貸し令嬢に国を売った王太子」
壁の中央に、大きな文字が乱雑に書き殴られていた。
その横には、極端に鼻と顎を強調した男の顔が、荒い線で描かれている。
壁から少し離れた場所に、足を止めた数人の男女が集まっていた。擦り切れた外套の裾が、冷たい風に揺れている。
「あのアホ王太子のせいで、税が上がりっぱなしだ」
男の一人が、壁を指差しながら吐き捨てるように言った。
「金貸しに女取られて、頭に来てるんだろうよ」
「真面目に働く方が馬鹿らしい」
低い声での会話が続く中、石畳を叩く足音と金属の鳴る音が近づいてきた。二人の警備兵が路地に姿を現す。
「落書きを消せ、急げ!」
一人の警備兵が声を上げ、水の入った木桶とブラシを壁の前に置いた。
「消しても、また描かれるんだ」
もう一人の警備兵がブラシを手に取り、石の表面を強くこすり始めた。
硬い毛先が石を削る音が響く。塗料は水に溶けて周囲に広がり、壁にはさらに大きな黒い染みが作られていく。
王宮の上層階にある部屋は、傾いた夕暮れの光に満たされていた。
高い位置に設けられたガラス窓の前に、ダフネが一人で立っている。
窓枠から差し込む朱色の光が、ダフネの横顔に濃い影を落としていた。
眼下には王都の街並みが広がっている。立ち並ぶ建物の屋根が夕日に照らされる一方で、路地に落ちる影は時間を追うごとにその面積を広げていた。
遠くの通りを動く小さな人影や、建物の壁の前に集まる人々の動きが、窓ガラス越しに小さく映る。
「兄上にはもう求心力がない」
声には出さない言葉が、ダフネの頭の中に浮かんだ。
窓枠に置かれた右手の指先が、冷えた石の表面に触れている。
「父上のお言葉が、現実になりつつある」
ダフネの視線は、影に沈みゆく街並みの一点から動かない。
窓の外を冷たい風が吹き抜け、微かな音を立ててガラスを揺らした。
「私が……継ぐ覚悟を、もう固めるべきか」
窓枠に触れていた指先がゆっくりと曲がり、石の角をわずかに掴む。
ダフネは静かに目を閉じ、そのまま窓辺で立ち尽くした。




