第11話:革紐の腕飾り
馬車の車輪が、秋特有の乾いた土を削る音を立てながら、カンプス領の街道を進んでいく。
車窓の枠に切り取られた風景は、数ヶ月前の初夏の記憶とは別の土地のようだった。道沿いに続く畑はすでに大規模な収穫作業を終え、刈り取られた後の茎の束が等間隔に並んで日差しを浴びている。遠くに見える山肌は色づき始め、赤い葉と黄色い葉の斑紋が、澄み切った冷たい空気の中に明瞭に浮かび上がっていた。
道なりに緩やかな傾斜の草地が広がる。午前中の低い太陽が、地面に短い影を幾つも落としていた。影の主は、短い草を食む牛の群れである。以前視察に訪れた際に見た、頼りなく痩せた数頭の姿ではない。体躯のしっかりとした若牛が明確に数を増し、柵で囲まれた広い面積に点在している。
村の中心部に近づくにつれ、道の往来が密度を増していく。農具を肩に担いだ者や、大量の荷を積んだ二輪馬車が次々とすれ違う。荷台に積まれているのは、加工を終えたばかりの革の束や、木箱に詰められた農作物だった。行き交う領民たちの歩幅は広く、すれ違いざまに交わされる声の量も、以前の静まり返った村とは異なる。
村の奥、なめし革の工房が立ち並ぶ区画からは、何本もの白く太い煙が空へ向かって絶え間なく立ち上っていた。冷たい風に乗って獣の皮の匂いと、薬品、それに薪が燃える匂いが流れ込んでくる。
広大な草地の外れでは、五、六人の子供たちが走り回っていた。群れから離れて街道側の柵へ近づこうとする若牛を見つけると、子供たちは両手を広げて土を蹴り、群れの中心へと誘導していく。
やがて、馬車は領主の館の前の広場に入り、ゆっくりと停止した。
御者台から降りたボリスが、大きな体を揺らして周囲の風景をぐるりと見回す。遠くの工房群、行き交う荷馬車、そして広大な放牧地へと順番に目をやった。
「お嬢、えらい変わりましたな。前来た時とまるで別領地でっせ」
ボリスが馬車の扉を開ける。ジュネーヴァは差し出された手を取らず、自らの足で地面に降り立った。領地の奥、煙の上がる工房の屋根を見据える。
「数字通りですわ」
「数字通り、ねぇ」
ボリスは顎をさすり、再び放牧地の方へ目をやった。
「成長促進スキルと繁殖促進スキル、効いてまんな」
「適切にお使いいただいているのが、何よりですわ」
ジュネーヴァはドレスの裾をわずかに整え、館の入り口へと向き直る。
重厚な木扉が開き、アヴェリオ・カンプス子爵が姿を現した。
その装いは、以前の視察時に着ていたような袖口のすり切れた上着ではない。仕立て直された、清潔で張りのある生地の服を身に纏っている。目の下に落ちていた暗い影は消え、顔全体に血の気が戻っている。
アヴェリオはジュネーヴァの数歩手前で立ち止まると、深く頭を下げた。
「ジュネーヴァ嬢。よくぞお越しくださいました」
顔を上げたアヴェリオの視線が、ジュネーヴァを真っ直ぐに捉える。
「お陰様で、領地がやっと息を吹き返しております」
「お貸しいただいたスキル、領民が大切にお使いしております」
ジュネーヴァは、アヴェリオの言葉を聞き終え、わずかに頷いた。
「それは結構ですわ。返済が滞らない限り、私には何の不満もございません」
◇ ◇ ◇
村の奥に位置する工房区画に足を踏み入れると、獣の皮特有の生臭さと、強い薬品の匂いが一段と濃くなった。
木造の平屋が連なる敷地内では、数十人の職人たちが持ち場に分かれ、絶え間なく手を動かしている。石造りの大きななめし槽が幾つも並び、茶褐色に濁った液体の表面が、職人たちが長い木の棒でかき混ぜるたびに重く波打つ。
十分になめし液を吸わせた牛皮が、槽から引き上げられる。大人二人がかりで巨大な木枠に張り付けられ、金属の留め具で固定されていく。ピンと張られた皮の表面を、職人が両手持ちの刃物で削る。余分な肉や脂肪が削ぎ落とされる鈍い摩擦音が、周囲の作業音に混じって断続的に響いていた。
敷地の奥には、風通しの良い乾燥棚が何列も組まれている。加工の最終段階に入った革が幾枚も吊るされ、秋の冷たい風に晒されていた。別の建屋の前には、完成したばかりの製品が麻布の上にまとめられている。実用性を重視した軍用の分厚いベルト、金属の装甲を取り付けるための鎧の下地、そして馬の鞍や手綱といった馬具類である。
作業の進捗を確認するジュネーヴァたちの前に、厚手の革製の前掛けをした工房長が歩み寄ってきた。その衣服には染みついた薬品の匂いが色濃く漂い、硬く厚い掌や手の甲には、細かな刃物の傷が無数に刻まれている。
「ジュネーヴァ様、お陰様で。隣領からの注文も増えてございます」
「品質を維持してくださいませ。安かろう悪かろうでは、長続きしません」
「肝に命じます」
工房長が深く頭を下げると、分厚い前掛けの革が擦れて硬い音を立てた。ジュネーヴァは完成した馬具の束へ一瞥をくれ、静かに背を向けた。
領主館の応接間へと場所を移しても、ジュネーヴァたちの衣服には工房で浴びた煙と薬品の匂いが微かに残っている。
磨き上げられた木製の長机の上には、カンプス領の最新の財務状況を示す数冊の帳簿が開かれている。ジュネーヴァは客用の椅子に浅く腰掛け、右手に持った銀のペン先で紙面の数字を一行ずつ正確に追っていた。
静かな室内に、厚手のページをめくる乾いた音だけが響く。帳簿の記入欄にはインクの擦れや書き損じがなく、黒々とした数字が縦列に隙間なく並んでいた。
長机を挟んだ向かいの席では、アヴェリオが背筋を伸ばし、ジュネーヴァのペン先の動きをじっと見つめている。
ジュネーヴァのペンの動きが止まった。
「予定より早いペースで返済が進んでいますわね」
「領民が頑張ってくれております」
アヴェリオは両手を膝の上に置き、深く頷いた。ジュネーヴァの背後に控えていたボリスが、大きな体をわずかに前へ倒し、肩越しに帳簿の紙面を覗き込む。
「お嬢、これ、利息分まで戻りそうな勢いでっせ」
ジュネーヴァは紙面に落としていたペン先を離し、ゆっくりと帳簿を閉じた。分厚い表紙が重なる鈍い音が響く。ジュネーヴァは顔を上げ、正面のアヴェリオを見据えた。
「結構ですわ。返済原資が確保できているうちに、貯蓄もなさることをお勧めいたします」
◇ ◇ ◇
領主館を辞したジュネーヴァは、馬車への道を少し外れ、村の外縁に広がる草地の手前で足を止めた。
西へ傾き始めた太陽が、枯れかけた短い草の表面を長く照らしている。冷たさを増した秋の風が草地を吹き抜け、ジュネーヴァのドレスの裾を揺らす。
柵の向こうでは、数頭の若牛が静かに草を食んでいる。午前中の到着時に遠くから見た群れの一部が、夕方の給餌を前に柵の近くまで移動してきていた。
その柵に沿って、土を蹴る軽い足音が幾つも近づいてくる。午前中に群れを誘導して走り回っていた子供たちだった。五人の子供はジュネーヴァから数歩離れた位置で止まり、そのうちの一人、少し背の高い少年が前に進み出た。少年の着ている麻の服は所々すり減っているが、土汚れは見当たらない。
少年は右手を前に突き出した。その小さな掌の上に、編み込まれた革紐が乗っていた。装飾らしい装飾はない、実用的な革紐を単純に編み上げただけの簡素な腕飾りである。
「お姉ちゃん、これあげる」
ジュネーヴァは、少年の掌にある革紐へ目を落とした。
「私に?」
「うん。お母ちゃんが、お姉ちゃんに渡したいって」
少年は掌をさらに少しだけジュネーヴァの方へ近づけた。
「お母ちゃん、お姉ちゃんに鞣しの技を借りてるんだよ」
ジュネーヴァは黒い革手袋に包まれた手を伸ばし、少年の掌から革紐を拾い上げた。
手の中で、編み目を指先でなぞる。新しくなめされた革の匂いが微かに漂う。編み目は均等で、緩みもほつれもない。
ジュネーヴァの指の動きが止まり、数秒間、風の音だけが草地を抜けた。
「……ありがとう」
ジュネーヴァの背後に立っていたボリスの太い眉が、わずかに跳ね上がった。その目が、少年の掌からジュネーヴァの横顔へと素早く移り、そしてすぐに元の位置へ戻る。ボリスは口を閉ざしたまま、大きな体を微かに動かしただけだった。
少年は差し出していた手を引っ込めると、後ろに控えていた四人の子供たちと顔を見合わせた。
「お姉ちゃん、また来てね」
子供たちの声が揃う。少年は踵を返し、他の子供たちと一緒に土を蹴って走り去った。彼らの軽い足音が、乾いた土の地面に吸い込まれていく。
ジュネーヴァは走り去る子供たちの背中へ視線を向けることなく、手の中の革紐の腕飾りを、小脇に抱えていた黒いクラッチバッグの中へ静かに仕舞い込んだ。
「ご縁があれば」
金属の留め具が、カチャリと小さく乾いた音を立てた。
◇ ◇ ◇
翌朝。カンプス領主館の応接間には、東の窓から柔らかい秋の日差しが差し込んでいた。窓枠の影が、磨き上げられた長机の上に長く伸びている。
長机の上には、数枚の厚手な書類が等間隔に並べられていた。羊皮紙の表面には、黒々としたインクでカンプス領の借入金の完済を証明する数字と、契約の完了を示す文言が隙間なく記されている。
ジュネーヴァは書類の束の前に座り、右手に持った銀のペン先で文面と数字の最後の確認を行っていた。室内に響くのは、厚い紙が擦れる微かな音と、時折ペン先がインク壺の縁を叩く硬い音だけである。
机を挟んだ向かい側では、仕立て直された上着を着たアヴェリオが、背筋を伸ばして静かに待機している。その手は膝の上で組まれ、微動だにすることなく、目はジュネーヴァの手元に向けられていた。
最後の書類の末尾に、ジュネーヴァが流麗な署名を書き入れる。ペン先が紙から離れ、金属のペン軸が木の机の上に置かれた。
「ジュネーヴァ嬢、本当にお世話になりました」
アヴェリオの声が、静かな室内に響く。
「この恩は……」
「恩ではございません。契約ですわ」
ジュネーヴァは机の上の書類を一枚ずつ重ねながら、抑揚のない声で応じた。
「お互い、利益のある取引ができたというだけのこと」
重ねられた書類の端が整えられ、黒い革張りの鞄の中に仕舞い込まれていく。アヴェリオは組んでいた手を解き、居住まいを正した。
「いつかまた、お力を借りることがあるかもしれません。その時は」
「ご縁があれば」
ジュネーヴァは鞄の金属の留め具を締め、椅子から立ち上がった。アヴェリオは机の脇に歩み出ると、ジュネーヴァに向かって深い角度で腰を折り、頭を下げた。無言のまま、その姿勢はしばらく保たれていた。
乾いた土の街道を、馬車の車輪が一定のリズムで削っていく。窓の外では、収穫作業を終えた畑の連なりと、赤や黄色に色づいた山肌の木々が、後方へと次々に流れていた。
馬車はすでにカンプス領の境界を越え、王都へ続く道を進んでいる。
向かいの席で腕を組んでいたボリスが、窓の外の風景から車内へと顔を戻した。
「お嬢、あの腕飾り、捨てへんのですか」
ジュネーヴァは、膝の上に置いた黒いクラッチバッグに手を伸ばした。金属の留め具が、カチャリと小さく乾いた音を立てて外れる。
黒い革手袋に包まれた指先が、バッグの中から編み込まれた革紐を引き出した。前日の夕方、草地の前で受け取った、装飾のない簡素な腕飾りである。
「……いえ。これは、契約に基づく成果物ですわ」
ジュネーヴァは横の座席に置かれていた分厚い帳簿を引き寄せ、表紙を開いた。
ミリオン家の紋章が刻まれた黒革の表紙と、手の中にある革紐の腕飾りは、同じ獣の皮から作られている。ジュネーヴァは最新の記録が記されたページの間に革紐を挟み込み、ゆっくりと帳簿を閉じた。革紐の端が、分厚い紙の束の間から少しだけはみ出している。
「成果物、でっか」
「ええ。そういうことにしときましょう」
ボリスは組んでいた腕を解き、大きな体を座席の背もたれに預けた。
「お嬢、それはわしの台詞でっせ」
馬車が街道の小さな石を乗り越え、車体が小さく揺れた。
ジュネーヴァはボリスの言葉に応えることなく、細身のパイプを口元に運んだ。赤く燃える火種から細い紫煙が立ち上り、馬車内の冷たい空気の中へ静かに吐き出されていった。




