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第13話:従者の休日

 秋の朝の冷気が、石造りの壁を伝って部屋の隅々にまで満ちていた。装飾を削ぎ落とした頑丈な木のベッド、書き物用の簡素な机、そして壁際に等間隔で並べられた木箱。余計な小間物が一切置かれていない空間の床に、東の窓から朝の柔らかい光が四角く落ちている。


 ボリスは麻のシャツの襟元を正し、厚手の外套を羽織った。手入れの行き届いた革靴を履き、扉を開けてミリオン家の屋敷の廊下へ出る。


 磨き上げられた床板の上を歩く。窓の外には秋の深まりを告げる木々が並び、冷たい風が枝を揺らしていた。使用人たちの動き出す前の静まり返った屋敷の廊下には、ボリスの規則正しい足音だけが響いている。


 お嬢、また早朝から業務やな。


 執務室の前を通り過ぎようとした時だった。分厚い木扉の向こうから、インク瓶の蓋を置くかすかな音に続いて、落ち着いた声が響いた。


「ボリス、入って」


 ボリスは足を止め、扉に顔を向けた。


「お嬢、わし何も言うてまへんで」


「足音でわかりますもの」


 ボリスは扉の真鍮製の取っ手を引き、執務室へ足を踏み入れた。


 室内には暖炉の火が小さく爆ぜる音が響いていた。ジュネーヴァは巨大な執務机に向かい、山積みになった羊皮紙の束に羽ペンを走らせている。彼女の机の端には、銀の盆に載せられた朝の郵便物が数通置かれていた。


 ボリスは机に近づき、盆の上の一通に目を留めた。分厚い羊皮紙の束を閉じる、帝国の巨大な封蝋。そこにある差出人の名前に、彼の指が止まる。ヴェネツィア・ミリオン。


「お嬢、姐さんからの手紙が……」


 ジュネーヴァは羽ペンをインク壺の横に置き、手紙を受け取った。


「あら、お珍しい」


 ボリスの足が、板張りの床を擦って数歩後ろへ下がった。大柄な体がわずかに縮こまり、両手が所在なげに胸の前で動き、視線が手紙と天井の間を激しく往復する。


「お嬢、わし、いま、いつもみたいに……」


 ペーパーナイフで手紙の封を切っていたジュネーヴァが、手を止めてボリスを見た。


「ボリス、何を慌てていらっしゃるの」


「いや、別に慌ててはおまへんけど、姐さんの名前見ると、こう、反射的に」


 ジュネーヴァの唇の両端が、わずかに上がった。普段の業務的な冷気を帯びていた目元が緩み、表情が柔らかいものに変わる。


「あらあら」


「姉様が遠くにいらっしゃる時くらい、落ち着きなさい」


 ジュネーヴァは分厚い便箋を広げ、豪快な筆致で書かれた文字の列に目を落とした。


「王国の情勢を心配なさっていますわね」


「『何かあれば兵を率いて駆けつける』そうですわ」


 ボリスの肩が跳ね上がり、大柄な体がわずかに前傾した。両手が空を掴むように細かく動く。


「お、お嬢、姐さん来はる気でっか」


「来ない方が良いですわ。来たら、王国が物理的に粉砕されますもの」


「姐さんの『兵を率いて』、てそういう意味でっか」


「姉様が出陣されたら、相手の国は地図から消えますわ」


 ジュネーヴァは手紙を机の隅に置き、新しい羊皮紙を引き寄せた。羽ペンの先をインク瓶に浸す。


「軽い方が動きやすいですわ。重く書くと姉様、走ってきますもの」


 流れるような手つきで、返信の文字が綴られていく。ジュネーヴァは手元の紙から顔を上げずに、羽ペンを走らせたまま言った。


「『ボリスは元気か。私が会いに行きたいと伝えてくれ』だそうですわ」


 ボリスの両腕が胸の前で交差され、足が一歩、さらに後ろへ下がった。


「お嬢、それ伝えんといてください」


「伝えてしまいましたけど」


「ぐぬぬ……」


 ◇ ◇ ◇


 秋の午後の日差しが、王都の大通りを行き交う人々の肩を照らしていた。通り沿いには色鮮やかな布地や秋の収穫物を並べる露店が連なり、客を引く商人の張りのある声が飛び交っている。荷馬車が行き交い、人々の足音が絶え間なく石畳を叩く中を、ジュネーヴァはボリスを伴って歩いていた。


「お嬢、業務外で鍛冶屋でっか」


 ボリスが少し歩幅を広げて、ジュネーヴァの横に並んだ。


「ご返済の件で、お話ですわ」


「業務でんがな」


「業務上の必要、ですわ」


 通りを曲がり、幾つかの細い路地を抜けると、両脇に並ぶ石造りの建物の壁が黒く煤けてきた。大通りの人の波と喧騒が背後に退き、代わりに規則正しい金属の打撃音が空気を震わせ始める。職人街に入ると、開け放たれた窓や扉から、熱気と金属を削る匂いが路地に漏れ出していた。


 ひと際大きく、腹の底に響くような鎚の音が漏れる建物の前で、ジュネーヴァは足を止めた。


 鍛冶場の中は外の明るさに比べて薄暗く、奥にある火床の赤い光が空間を切り取っている。鞴が低い音を立てて空気を送り込むと、炎が勢いよく立ち上がり、赤熱した鋼から無数の火花が弾け飛んだ。


 火床の前に立つ白髪の老人が、金床の上の鋼に向かって重い鎚を振り下ろしていた。革のエプロンから覗く腕は太く、節くれだった手が柄を握り込んでいる。鎚が上がり、振り下ろされるたびに、周囲の空気が震えるような音が響いた。


 ジュネーヴァは鍛冶場の入り口に立ち、中へは進まなかった。老人は入り口に立つ二人に目を向けることなく、一定の速度と力で鎚を振るい続けている。


 熱気が足元から立ち上り、衣服に煤と鉄の匂いが染み込んでいく。ジュネーヴァは無言のまま、その場から動かなかった。


 やがて火床の赤が少し落ち着き、老人が鎚を振り上げる動作を止めた。


 金床の上で鎚を小さく打ち当てる音が二度響き、それが止むと、鍛冶場の中に重い静寂が降りた。鞴の音も止まり、残った火が小さく爆ぜる音だけが聞こえる。


 老人は作業台の上に鎚を置き、ゆっくりと振り向いた。炎の照り返しを受けて光る白髪の下から、まっすぐな眼差しがジュネーヴァに向けられる。


「ミリオン家の令嬢か。来るとは思っていた」


 老人の声は低く、鍛冶場の静寂に響いた。


 ジュネーヴァは一歩だけ前に出た。


「ご返済の件、ご承知いただいていらっしゃるとのことで」


 老人は太い腕を胸の前で組み、火床を背にして立った。


「ああ、知っておる。だが、その前に話したいことがある」


「どうぞ」


 ◇ ◇ ◇


 火床の奥で赤く脈打っていた炎が、鞴の止まった静寂の中で静かに揺れていた。煤けた天井へと吸い込まれていく煙の筋を、老鍛冶師は火床を背にして見つめている。胸の前で組まれた、節くれだった太い指が、わずかに力を込めて握られた。


「儂の弟子が、三人とも帝国に渡った」


 老人の低い声が、鍛冶場の硬い石の床に低く響く。


「お前さんに引き抜かれた、と聞いた」


 ジュネーヴァは鍛冶場の入り口で、背筋を伸ばして立ったまま、老人の視線を真っ直ぐに受け止めた。


「直接ではございません。腕の良い職人が、帝国側で待遇の良い場所に移っただけのことですわ」


「同じことだ」


 老人は鼻を鳴らし、組んだ腕を解くことなく、顎をわずかに引いた。


「フェリックスの坊主も、お前さんが手引きしたそうだな」


「あの腕は王国の宝だった」


 ジュネーヴァは、瞬きを一つした。金床の上に置かれた重い鎚へと目を落とし、それからゆっくりと老人の白髪へと顔を上げる。鍛冶場の中に残っていた熱気が、二人の間を重く流れていった。


「おっしゃる『宝』を、王国がきちんと評価していらしたのでしょうか」


 老鍛冶師は、唇を固く結んだまま沈黙した。


 目を逸らすことなく、ただ火床の熱が冷めていくのを待つような時間が流れる。壁に掛けられた数々の火箸や金切鋏が、外から入り込むかすかな風に揺れて、小さな金属音を立てた。


「……」


「答えは、もうおわかりかと」


 ジュネーヴァの声は、落ち着いていた。


 老人は深く、重い息を吐いた。再び腕を組み直し、ジュネーヴァの瞳の奥を覗き込むように目を据えた。


「儂が言いたいのは、それだけやない」


 老人は腕を解き、火床の脇に積まれた銀の延べ板を顎で指した。


「先月、王宮から通達が来た。銀の精錬量を絞れ、銀屑は全て王宮へ出せ、と」


「鍛冶屋にとって、銀は脇仕事や。儂ら、逆らわず素直に出した」


「だが、王都じゅうの鍛冶屋に、同じ通達が回っとる」


 老人は太い指で銀の延べ板を一度叩いた。鈍い音が立つ。


「銀貨に銅を混ぜる準備や」


「儂の若い頃、北の小領主が同じことをやった。三年で領地が滅んだ。儂はそれを見て、王都へ流れて来たんや」


「鉄が悪うなるのは、職人の話。職人は逃げりゃええ」


「だが、銀が薄まれば、銀貨で動くすべてが止まる」


「ジュネーヴァ嬢」


「国が死ぬぞ」


 その言葉が放たれた瞬間、鍛冶場の空気が一段と重みを増した。


 ジュネーヴァは答えず、静かに佇んでいる。


 鞴の残響が壁に染み込み、消えていく。火床の奥で、炭が小さく爆ぜた。入り口の影が石畳の上に長く伸び、夕刻の気配が職人街の煤けた空気を包み込もうとしていた。ジュネーヴァは一つ呼吸を整え、唇を開いた。


「……」


「私は、この国の人間ではありませんわ」


 老人の眉が、わずかに跳ね上がった。


「……何だと」


「私はミリオン方伯家の次女。帝国の貴族でございます」


 ジュネーヴァは、淡々と、事実を述べるように言葉を継いだ。


「王国は当家にとって、取引相手の一つに過ぎません」


「『国が死ぬ』とおっしゃられても、私はその国の人間ではないのです」


 老人は、呆然としたように口をわずかに開けた。組んでいた腕がゆっくりと解かれ、力強く柄を握っていたはずの手が、所在なげに傍らの作業台に置かれる。


「貴族令嬢が、何故ローレンシア朝で金貸しを」


「家業ですもの」


「家業……」


「鍛冶が家業であられるように、当家にとって金融は家業でございます」


 ジュネーヴァの視線は、老人が一生を捧げてきたであろう、使い古された道具たちを静かに辿った。


「適切な利潤と、確実な回収。それが家業の在り方ですわ」


 老鍛冶師は、乾いた笑いを漏らした。


 老人は、作業台の奥にある重厚な木箱へ手を伸ばした。そこから、ずっしりと重みのある革袋を取り出し、金床の上へと置く。硬い硬貨がぶつかり合う音が、鍛冶場の中に高く響いた。


「儂は完済する。今日この場で」


「ご一括で?」


「儂が一生かけて貯めた金だ。お前さんには関係なかろう」


 老人は革袋の口を解き、中身を金床の上に広げた。使い込まれた、だが一点の曇りもなく磨かれた金貨が、火床の残光を受けて鈍く光った。


「ご一括返済、確かに承りましたわ」


 ジュネーヴァは懐から書類を取り出し、慣れた手つきで完済の証明を書き記した。その様子を、老人は黙って見つめている。


「儂は、王国で死ぬ」


 老人の声から、先程までの刺々しさが消えていた。


「弟子も逃げた。鉄も悪くなる一方だ」


「だが、儂は鍛冶を続ける。それが矜持だからだ」


 ジュネーヴァは書類を整え、金床の上の金貨をボリスへと手渡すように促した。そして最後にもう一度だけ、火床の前に立つ老鍛冶師を正視した。


「ご立派ですわ」


 ◇ ◇ ◇


 鍛冶場を後にしたジュネーヴァの外套には、煤と焦げた鉄の匂いが微かに染み付いていた。職人街の狭い路地を抜け、待たせていた馬車に乗り込む。


 石畳を叩く馬の蹄と、車輪の規則正しい回転音が夕闇の迫る王都に響く。ジュネーヴァは背もたれに深く身を預け、細いパイプを取り出した。刻み煙草を詰め、火を灯す。窓の外を流れる夕景を見つめながら、いつもより長く、深く紫煙を吸い込んだ。


「お嬢」


 向かいに座るボリスが、静かに声をかけた。


「何ですの」


「あの言葉、堪えはりましたか」


 ジュネーヴァは煙を吐き出し、パイプの吸い口を指先でなぞった。顔は窓の外の、朱に染まる屋根の連なりへ向けられたまま動かない。数秒の空白の後、彼女は短く答えた。


「……いえ。事実ですもの」


 ボリスはそれ以上踏み込まず、ただ一つ頷いた。


「そういうことにしときまひょ」


 馬車がミリオン家の屋敷に到着する頃には、空は深い群青色に染まり始めていた。


 テラスの円卓には、白磁のカップから湯気が立ち上っている。秋の冷え込み始めた空気が、紅茶の温もりを際立たせていた。ジュネーヴァは姉への返信を綴るための羊皮紙を広げ、羽ペンを走らせた。


「『姉様、ご心配いただきありがとうございます。王国の情勢は管理可能です。お手隙でしたらお越しください』」


 傍らで書類を整理していたボリスが、羊皮紙に記された簡潔な文面を覗き込む。


「お嬢、軽く書いた方がええんでっか」


「軽く書いた方が、姉様、動きやすうございますもの」


 ジュネーヴァは最後の一行を書き終え、ペンを置いた。冷め始めた紅茶を一口含み、遠くの森の境界線を見つめる。


「お嬢、姐さんとは仲良かったんでっか」


「……仲は良いですわ。ただ、性格は真逆ですけれど」


「お二人、剣も帳簿も一級品でっせ」


 ボリスの言葉に、ジュネーヴァの目が手元の帳簿へと落ちた。細かな数字が並ぶ頁を、夕陽の名残が赤く照らしている。


「私が帳簿を始めたのは、姉様みたいに剣では戦えなかったからですわ」


 ボリスの、次の茶を淹れようとしていた手が止まった。ポットの口から一筋の湯気が上がり、秋の風に流される。ボリスは動きを止めたまま、主人の横顔を凝視した。


「お嬢、それ、本音でっか」


 ジュネーヴァは答える代わりに、空になったカップをカチリと音を立てて皿に戻し、椅子を引いて立ち上がった。背筋を伸ばし、一度だけドレスの裾を整える。


「業務に戻りますわ」


 主人の背中が部屋の奥へと消えていくのを、ボリスは黙って見送った。手元の冷めた茶を片付けながら、主人が座っていた椅子を元に戻す。


 お嬢、たまにはな、本音もええんやで。


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