5-4 忘れられない手
フィルは椅子からよいしょと立ち上がると、開かれた扉の先へ視線を向けた。
扉の先に居たのは、フィルの想像した通りの人物であった。
そもそも、フィルの自室を訪ねる相手など一人しかいない。
フィルの祖母、トリーナ・クリスタだけである。
「その声、少しは落ち着いたみたいだね、フィル」
心地良いトリーナの声に、フィルの耳がそわっと揺れる。
フィルの目に映る祖母は、昼過ぎに会った時と同じく、一般的庶民の着る絹織りの服の上に畑仕事用のエプロンを身に付けており、ズボンの裾やエプロンに所々土汚れが残っていた。
今まさに仕事から戻ったといった風体であり、同時に五十二の老いを感じさせぬ活発さをまとっていた。
そんな活発的な姿は服だけでなく、畑仕事の邪魔にならぬよう短く切り揃えられた髪や、狼を思わせるシュッとした顔立ちもまた、彼女に若々しさを感じさせる要因であろう。
若い頃には男達を虜にした青い瞳の横に、確かな皺が刻まれていることや、白髪の混じり始めた黒髪など、エネルギッシュな彼女にとっては些細なことである。
そんな溌溂とした祖母の事を、フィルは大好きで大好きでたまらなかった。
だがしかし、今はちょっと申し訳なくて、少しだけ会いたくない。
そんな気分である。
それが表情に出てしまったフィルの困り顔を見て、トリーナの目に柔らかな弧が描かれた。
「うーん。声と違って、まだしょんぼりだね」
「うん。ちょっとしょんぼり」
言葉通りしょんぼりしているフィルを見てか、トリーナの視線が机に置かれたままの砕けた宝石へと移る。
言葉と違い、しょんぼりが『ちょっと』でないことなど、当然トリーナには分かっていた。
便りもなく、相変わらず家に帰って来ない娘パーラのことを想うトリーナの心にも、うっすら黒い影が生まれてしまう。
だがトリーナは、それを表情一つ出さない。
柔らかな笑みを浮かべ、トリーナがフィルの側で屈む。
彼女は、真正面から孫と視線を交わし合い――骨ばった手で、フィルの綺麗な黒髪を撫で始めた。左右へ、わさわさ、わさわさ、と。
フィルは、この祖母の細い手が好きだった。
柔らかくもなく、土仕事で少し荒れていても、祖母の温かさと優しさが確かに伝わってくる、この祖母の手が。
フィルはされるがままに揺れ、フィルが抱き締めたままのメフィストもゆらゆらと揺れ始めた。
「ねぇフィル。もうすぐ村長たちが来るけど、一緒に出れるかい?」
「うん。平気」
肯定の言葉とは裏腹に、フィルの表情には未だ元気が浮かんでいない。
「あらら。これは平気じゃなさそうな顔だね。このままじゃあ『ごめんなさい』は出来そうにないか」
「うー。やだ」
「違うんだ婆ちゃん。悪いのは俺様なんだよ。フィルじゃねぇ」
唸るフィルと、必死に弁明を試みるメフィスト。
だが、この頃のメフィストの声はトリーナに届かない。
それが分かっていても、メフィストは言わずにはいられなかった。
それが分かっていても、フィルはメフィストの声を祖母へと伝えない。
不服そうに唸るだけのフィルと、青い瞳で見つめ合うトリーナ。
トリーナは、フィルの頭から手を離すと、軽く息を払い、真剣味を帯びた眼差しでフィルの双眸を捉えた。
「ねぇフィル。自分が村長の馬鹿息子に何をしたのか、分かってるかい?」
「うん。悪いこと」
「そうだね。武器で殴って怪我させるのは悪いことさ」
トリーナの言葉に、フィルは小さく頷く。
だが、フィルが完全に納得していないことなど、お婆ちゃんであるトリーナにはお見通しであった。
「けど、正しい事もしたって、そう思ってるんだろう」
「うん」
「うーん。これは困ったねぇ」
トリーナは、言葉通りの困惑の表情を――していなかった。
目尻には笑い皺が増え、少し開いた口からは並びの良い白い歯が見え隠れする。そんな明るい笑顔からは、マイナスな感情は一切感じ取れない。
トリーナは、両手でフィルの肩をポンと叩くと、やる気を示すかのように俄かに立ち上がった。
「まっ、ちゃんと自分で分かってるなら上出来さ。よし! お婆ちゃん決めたよ。私も一丁戦ってやろうじゃないか。今の今まで何べん嫌がらせに対して文句言っても、聞く耳持たなかったのはあいつ等の方なんだ。フィルが馬鹿息子を怪我させちまったからって、こっちの所為ばかりにされちゃ敵わないよ。うん。お婆ちゃん、やるよ!」
「ううう……すまねぇ婆ちゃん」
村長と戦う決意を決めたトリーナに、メフィストが歓喜の涙を流す。
まぁ実際にはそんな機能、メフィストについていないので気持ちだけであるが。
一方、フィルはというと、やる気な祖母を不思議に思い、愛らしい顔をコクリと斜めに傾けていた。
「お婆ちゃん。バシッてしたの、怒らないの?」
「ん? 怒るよ。お説教は、あ・と・で」
『お説教』と聞いたフィルは、昔ひとりで屋根の上に登った時の長々とした祖母のお説教を思い出してしまった。
フィルの眉尻と口角が急降下してしまったのも、無理はない。
「ううぅ。おせっきょうはヤダァ」
「ハハハ。なら悪いことなんてしないことさ」
トリーナはそう言うと、フィルのおでこに追撃のデコピンを決めた。
「……いたい」と左手で額を抑えるフィルの姿に、お婆ちゃんは皺が増えるばかりである。
「さあいくよ、フィル」
朗らかな笑みを浮かべたまま立ち上がり、フィルへ手を伸ばすトリーナ。
その手――大好きな手に、フィルは自分の小さな左手を重ねる。
先導するように廊下へ向かうトリーナに引かれ、フィルは部屋の外へと向かう――のだが、フィルは部屋と廊下の境目の前で、歩みを止めてしまった。
柔らかに重ねられていただけの手と手が、スッと離れてしまう。
「フィル?」
心配そうに振り向いたトリーナの視線から逃れるように、フィルがうつむく。
なぜ足が止まってしまったのか?
フィルには、それが自分でも分からなかった。
「どうしたんだ、フィル? 婆ちゃんと一緒に行こうぜ」
そんなメフィストの声にも、フィルは首を横に振ってしまう。
村長の息子を視界の中に入れたくもないからだろうか? ガミガミうるさいおばさんが嫌いだからだろうか? 表情の乏しい村長に会いたくないからだろうか?
それとも、ただの子供らしい『わがまま』だろうか?
それとも、心の奥に生まれてしまった『いきたくない』という小さな欠片のせいだろうか?
それは、フィルにもメフィストにも、そしてトリーナにも分からない。
うつむき動かぬフィルを見て、トリーナの心の中は、今すぐにでも抱き締めてやりたい気持ちで溢れかえっていた。
だがトリーナは、あえて一歩部屋から離れ、フィルから距離を取る。
そして彼女はフィルへ向け、フンッと大きく胸を張った。
「ねぇフィル。戦いの前に、一つだけ大事なことを教えてあげる」
自信気な声に惹かれ顔を上げたフィル。その青い視線が、自分と同じ祖母の青い瞳へと吸い込まれていく。
フィルの瞳に映る、祖母の自信にあふれた笑み。
ニュッと心地良く曲がる祖母の口元から、心を柔らかく包み込むような落ち着いた声が流れ出した。
声は、そのままフィルの耳へと溶け込んでいく。
「生きてりゃ良いこともするし悪いことだってしちまうもんさ。フィルが今のまま良い子でいるのか悪い子になっちゃうのか、そいつはお婆ちゃんにだって分かんないよ。でもね、一つだけ絶対に変わらない事があるのさ。それはね……お婆ちゃんがフィルの味方ってこと」
「みかた?」
「そう。信じて一緒に戦う味方さ。たとえ相手が誰だろうと何があっても、お婆ちゃんはずっとずぅっとフィルの味方でいるよ」
そう言ってトリーナは、再びフィルへ手を差し伸べた。
だが、先程一歩離れたトリーナの手は、たとえ部屋の中に居るフィルが必死に手を伸ばしても届かないほど離れている。
迷うように動くフィルの左手。メフィストをきつく握り締める右手。大好きな手と手をつなぎたいと揺れる青い瞳。このまま部屋に居たいと床に根を張る足。
そんなフィルを見るトリーナは、動かない。
大人であるトリーナからすれば、駄々をこねる子供の手を掴んで部屋から無理矢理連れ出すことなど簡単なことである。
だが、それでは何にもならないとトリーナは待つ。
手を差し伸べたまま、言葉を紡いで。
「あとは、フィルがお婆ちゃんを信じてくれるかどうかさ」
その言葉を聞いたフィルは思った。
こんな『ぐちゃぐちゃ』な気持ちのままでも、別に良いんだと。
信じられるのなら、それだけで。
先の祖母の一歩を追うように、フィルの足は自然と二歩前へ進んでいた。
お婆ちゃんを信じるのか?
そんな愚問、フィルには考えるまでもなく答えは分かっていた。
一緒にいてくれて、話を聞いてくれて、あったかな手で触れてくれて、自分のことを信じてくれる祖母。そんな祖母のことを信じないほど、フィルは大馬鹿者でもなければ、心がひねくれてもいないのだから。
フィルの小さな左手と、トリーナの骨ばった温かな右手が重なる。
きつく握り合う必要なんてない。
そう言わんばかりに、柔らかく、手と手がゆったりとつながる。
見上げるフィルと、見下ろすトリーナの青い視線が混ざり合い――二人は同時に目と口を歪めた。
「信じてくれて、ありがとね。フィル」
「うん! わたしもずぅーとずぅーとお婆ちゃんの味方ぁ」
「そりゃあ嬉しいねぇ」
より嬉しそうに皺を増やす祖母を見て、フィルは、ハッと気が付いた。
味方は他にもいて、それをしっかりと口にしないといけない、と。
「それとね、わたしメフィちゃんの味方だよー」
「俺様もいいのか?」
「いいよー。ずっとね」
「そっか……そっかぁ。いいな、それ」
「うん」
どこかしんみりと呟くメフィストに、フィルは『両手がふさがってるから仕方がない』とばかりに頬を重ね、なでなでの代わりにすりすりし始めた。
メフィストの声が聞こえぬ者からすれば、少女の独り言であり、そして奇行でしかない。だが、フィルを見つめるトリーナの表情は朗らかなままであった。
「メフィちゃんは何て言ってるんだい?」
「うれしいって」
「アハハ。だろうね。メフィちゃんも、フィルのこと頼んだよ」
「おうよ。任せな、婆ちゃん」
当然、その声はフィルにしか届かない。
それでもトリーナには、不思議とその声が聞こえた気がした。




