5-34 そうだ、海へ行こう
ここはリヴィアの町の防壁の外にある砂浜。
周囲一帯は木の柵で守られており、夏場となればひと泳ぎしようと町民たちで溢れかえる観光スポットである。
しかし、今は人っ子一人見当たらない。
原因はリヴィアがシーサーペント騒ぎで無人の町となっているためなのだが、季節的に今はまだ、穏やかな日差しが照り付ける涼しい日和であるのも遠因だろう。
夏というには、まだ早い。
だがしかし、まだ太陽が頂点へと向かう途中の朝と呼ぶべき時間に、この一面に広がる砂浜へ降り立たつ二人の少女の姿があった。
当然、フィルとアイヴィである。
フィルは、ここまで空輸してくれた杖メフィストからヒョイッと降りるや否や、サンダルで砂浜を蹴り、そのまま跳ぶように波打ち際まで駆け出した。
そしてフィルは、眼前に広がる青い海へと叫ぶ。
「海だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と。
叫ぶ彼女の姿は、太陽に照らされ、眩しい。
先程まで酒場のキッチンで料理をしていた時のカジュアルな服装とは違い、今はまさに『泳ぐぞ!』と言わんばかりの水着姿を太陽の元に晒していた。
彼女が着ている水色の水着は、胸元と腰回りだけ隠せればいいと主張しているような上下別れたタイプであり、肌の露出が多いものである。
その為、彼女の九十を超える大きな胸やキュッと締まった腰が余計に強調されおり、女性の凹凸の華やかさが体現されていた。
眩い肌、その背へ真っ直ぐ流れる長い髪も、烏の濡羽色に思え艶やかだ。
よく引き締まった全身からは、健康美と妖艶さの両方を兼ね備えたアンバランスさを感じられる。そこもまた彼女の魅力なのかもしれない。
見るものが見れば一目で魅了されてしまいそうな美しさが彼女にはあるのだが、海へと叫ぶ後ろ姿を見つめる二つの視線からは、そんな美に対する畏怖や敬意など微塵も感じられなかった。
一つの視線はもちろん、フィルの相棒たる杖メフィストである。
メフィストは普段と変わらず、ふわふわとフィルの元へ向かっている。
元気なフィルの姿を見て、どこか楽し気なのもいつも通りだ。
もう一つの視線――アイヴィの視線には、少し面倒臭さを帯びていた。
今のアイヴィの姿もまた、料理をしていた時とは違い水着姿である。
彼女のスレンダーな体を包み込むのは、胸元と腰元をフリル状の布地で隠した明るい黄色の水着だ。フリル状の布以外にも、首元から胸元へと続く布地やスパッツ風の布地が彼女の肌を守っているため、露出はやや少な目である。
だがそれが、元より愛らしい彼女の可憐さを引き立たせていた。
しかしながらそれは、元気な姿であればこその可憐さだ。
サンダルで砂浜を歩くアイヴィの足は、やや重い。
フィルの側まで来たアイヴィの口から零れた言葉もまた、同様に重かった。
「海ならずっと見えてたでしょ……はぁ、念のために持って来てたけど、まさか着る羽目になるとは」
「アハハハハ。アイヴィちゃんや、人生とはまさかの連続なのじゃよ」
「その『まさか』を作った張本人が言う?」
冗談めかして言うフィルに向けられたアイヴィの視線は、当然の如く冷たい。
だが、海に似合わぬ凍えた視線もなんのその。
日の光を浴びたフィルの笑みは、輝いたまま陰りを見せない。
むしろその笑顔をジトリと見つめていたアイヴィの方が先に折れてしまった。
「文句言っても意味ないか。やるならきっちりやりましょう」
「いいねぇやる気だねぇ。でも私、何しにここに来たか言ったっけ?」
「あの話の流れで『泳ぐ練習』以外に何があるのよ」
「アハハ。だね。さっそくレッツゴー」
海へと突撃しようとするフィルの前に、メフィストが立ちはだかった。
「よっと」とキャッチしながら、フィルは突撃を止めた理由を相棒へ問う。
「メフィちゃん、どしたの?」
「海に入る前に、まずは準備運動だろ相棒」
「もぅ、こういうことには厳しいんだから……そういうとこも好き」
相棒からの唐突な告白を、メフィストは「おうよ」と軽くスルーした。
特に思う所はなかったみたいだ。
当のフィルもまた、何ごともなかったかのようにメフィストを持ちながら「おいっちに、さぁんし」と、体のあちこちを伸ばし始めた。
その隣でアイヴィも倣う。
準備体操を終えたフィルは、待ちきれないぜと言わんばかりにサンダルを脱ぎ、まるで初めて海を見る子供のように海へと駆け出した。
アイヴィもサンダルを脱ぎ、フィルを追って海へ足をつける。
澄んだ海はアイヴィの足を妨げることなく、細やかな砂がアイヴィの足の裏をギュッギュッと優しく刺激した。
水温は季節にしては温かであり、フィルとアイヴィの足に心地良い涼しさを伝えていた。
一歩一歩海を楽しむアイヴィであったが、水深が腰ほどの位置で待つフィルを見て、ふと疑問を抱く。
正確には、フィルの右手に握られた杖が海に浸かっているのを見て。
「ねぇメフィスト。貴方って海に浸かっても平気なの?」
「心配あんがと。けど問題ねぇよ。俺様は濡れも汚れもしねぇからな」
「へぇ。見た目は木製に見えるのに、貴方って本当に不思議な杖ね」
そんな感嘆とも称賛ともとれる言葉にいち早く反応したのは、当のメフィストではなく、それを持つフィルであった。
フィルは左手で自分の頬を支えながら、体をくねくねしている。
「えへへ、そんなに褒めないでよぉ。流石アイヴィちゃん、見る目あるなぁ……でもねアイヴィちゃん。メフィちゃんってばクッキーの食べこぼしには人一倍うるさいから、気を付けないと駄目だよぉ」
「そんなことすんの相棒だけだぜ……まあいい。練習始めようぜ」
アイヴィが側に来たのに合わせ、メフィストが先を促した。
「よぉし、フィルちゃん’sスイミングスクール開校だぁ。アイヴィちゃんには、さっそく泳いでもらいます――って言いたいところだけど、水場での事故は命にかかわるから一歩ずつやろう」
「まずは何をするの? 先生」
「ん~、せ・ん・せ・い……良い響き。さぁ、生徒アイヴィ君。最初は先生の真似をして水に浸かるところから始めてみましょう」
そう言ってフィルは膝を曲げ、少しずつ海の中へと沈み始めた。
立てば腰高さ程の水深であるが、屈むフィルの胸は海面の下へと沈んでいく。そしてフィルは、首だけを出すところで止まった。
とりあえずアイヴィも、先生に倣い海面から首だけを出す。
「これから潜るけど、水中だと息ができなくなるから注意してね」
「……馬鹿にしてる?」
「ノンノン、大事なことだよ。落ち着いて、お目めパチパチ息ブクブク。OK?」
その子供に言い聞かせるようなフィルの言葉に、アイヴィはあまり納得していない様子であった。
だがアイヴィは、不服ながらも「分かったわ」と恭順を示す。
「じゃあアイヴィちゃん、息吸ってぇぇぇぇぇぇぇ――行くよ」
二人は同時に海上から姿を消し、頭の天辺まで海の中へと潜り込んだ。
海に座る形で潜ったアイヴィは、その真面目な性格ゆえか、フィルの言葉通りに目をパチパチとさせ、ブクブクと口から気泡を放ち始めた。
昇る気泡を挟み、フィルとアイヴィが視線を交わす。
アイヴィの視線の先で、フィルが満足げに頷いている。
透き通るような海は、二人の視線を遮ることはない。
そのままアイヴィは青い海の中を見回す。彼女は初めて潜った海に『案外何もないものね』と、冷めた感想を抱いていた。
彼女は感動もしていないが、別段苦しさや閉塞感も感じていない。
しばしの間、水中に潜っていたアイヴィであったが、上を指差すフィルに従い立ち上がった。
顔が海から出た瞬間、自然とアイヴィは口から残った息を吐き出し、続けて肺に新鮮な空気を取り込んでいた。
そのひと呼吸が、不思議と心地良い。
「ふぅ……こんなのでいいの?」
「うん、第一関門突破ぁ! 才能あるよぉアイヴィちゃん」
「大袈裟ね。けど、これが関門?」
『やっぱり馬鹿にしてない?』と訝し気なアイヴィに、フィルは大真面目に頷く。
「水に顔を付ける。水の中で目を開ける。水中で息を吐く。そして落ち着く。これが出来ればもうレッスンの半分は終わったようなものさ」
「半分? 早いわね」
「このままどんどん行こぉ」
掛け声の通り、その後もフィルによる水泳レッスンが続いた。
「浮く練習するよ。息を吸ってぇぇ、前に倒れて、そして全身から力を抜く。アイヴィちゃんは今からクラゲになるのだぁ」
「く、くらげ?」
「おうアイヴィ。クラゲだぜ、クラゲ」
まずはフィルが見事に浮いてみせ、次にアイヴィがそれを真似る。
四肢をだらりと海に垂らし、ぷかぷか浮くアイヴィを見て、フィルは満足げだ。
「うん完璧。次は体を伸ばす練習しよう。地面を蹴ってそのままにょーんって感じで伸びるのだ」
「にょーん?」
「顎を引いて、手は真っ直ぐ上に…………こんな感じ」
「なるほど。にょーんね」
フィルが示した手本の通りに『にょーん』と水面を伸びるアイヴィ。
その美しい伸び姿に、フィルは『これは逸材では』と青い瞳を輝かせる。
「いいよいいよぉ。次は足を動かしてみよう。メフィちゃん、手伝って」
「あいよ。浮き板代わりになりゃいいんだな」
「持つの?」
「そう、こんな風に」
そう言ってフィルは、水面で浮いているメフィストを両手で掴み、先程のようににょーんと伸びた。そして顔を上げると、そのまま足をバタバタと動かし始めた。
しなやかな足が水面を打ち、水しぶきを立て、フィルを前へと進める。
メフィストを支えにしているため、顔を上げ続けたまま泳ぐことが出来ているのだと、アイヴィにも理解出来た。
フィルに続き、アイヴィも倣う。
「よろしく、メフィスト」
「俺様を掴んでおけば溺れることはねぇから、安心していいぜ」
一言掛け合い、アイヴィが泳ぎ始める。
フィルの予想の通り、アイヴィの動く足は軽やかで、水面を叩くバタ足だけでスイスイと進んでいく。
泳ぐアイヴィの隣で、フィルは優雅に水を掻く。
横向きに泳ぎながら器用に顔を水面から出し続け、フィルは練習するアイヴィを見守り続けている。
並んで泳ぐ中、アイヴィにも余裕が出てきたのか、彼女は泳ぎながら浮かぶ疑問を口にした。
「ねぇ、フィルメイル。こういうのって普通、教えてくれる貴女が手を引っ張ってくれるものじゃないの?」
「おっ? 初めて泳ぐ不安な心、繋ぐ手と手、伝わる体温……ぜっ、絶対離さないでよね。って感じぃ? アイヴィちゃんってそういうの好きなんだぁ」
フィルが泳ぎながらニヤニヤと笑っているが、流石にそれを見る余裕は今のアイヴィにはなかった。真面目に練習しながら答えるだけである。
「違うわよ。むしろ貴女がそういうことやりたがりそうじゃない?」
「だな」
「アハハ、二人とも正解! やりたいよぉ。超やりたい。私もアイヴィちゃんとお手々繋いでキャッキャウフフした~い。けどまぁ、役割的にメフィちゃんの方が安心安全だからねぇ。そこはきっちりするのがフィルメイル水泳教室なのだよ」
あれ? 教室の名前変わってない?
そう思いながらもアイヴィは特に言及せず、バタ足の練習を続ける。
その後も呼吸の仕方や平泳ぎや背泳ぎなどの基本的な泳法、そして足の付かぬ水深での立ち泳ぎの仕方や海底への潜り方など、ビシビシとフィルの指導が飛んだ。
手本を見せ、その真似をさせる。
そんなフィルの指導は、太陽が高く登るまで続き……
「やってみれば、何とかなるものね」
そこには、自由自在に海を泳ぐアイヴィの姿があった。
細い体をしなやかに動かし、全身を使って泳ぐアイヴィ。
その生き生きとした姿は、生来水の中に生きる魚たちにも引けを取らない。
水深が腰ほどまでの位置で腕を組みながら生徒を見守るフィルの表情は、誇らしげでもあり、どこか寂しそうでもあった。
フィルの元へと戻ってきたアイヴィへ、フィルが真面目そうな声で言った。
「銀水晶のマーメイドである君には、もう教えることは何もない……クリスタ・スイミングクラスは閉校します」
「いちいち突っ込まないわよ。けど、泳げるようになったのは貴女のお陰よ。教えてくれてありがとう御座いました、先生」
「くぅ……聞き納めだぁ。もうちょっと先生してたかったぁ……」
心から礼を言うアイヴィと、まるで血の涙でも流さんばかりに悔しがるフィル。
だが悔しがっていたのも束の間、右手でビシッとアイヴィを指差したフィルは、そのまま大海原へと届かん声で宣言した。
「先生と生徒の関係が終わった今、これからはライバル同士……アイヴィちゃん。あっちの小島まで競争だぁぁぁ」
「泳ぎたてホヤホヤの相手に何言ってんだ相棒。それにまずは陸に戻って休憩だ。冷えと疲れを侮るんじゃねぇ」
いつトラブルが起こっても良いように先程までアイヴィの側についていたメフィストが、フィルの側に戻るや否や、そんな当たり前のツッコミを入れる。
フィルは相棒を右手で受け止めながらも、冗談めかして口の先を尖らせていた。
「ちぇー。メフィちゃんがそう言うなら仕方がない。勝負はお昼を食べてから。それまでお預けだよっ」
「しないわよ」
それだけを返し、アイヴィは陸へと向かって歩き出してしまった。
それはとても素っ気ない声であったが、フィルの横を通り抜けるアイヴィの顔は明るく、機嫌の良さが見て取れる表情であった。
アイヴィが横を通り抜けたあと、彼女に見えぬ所でフィルが『フフン』と上機嫌を目と口に浮かべた。
そして「待ってよアイヴィちゃーん」と、お道化た声で友人を追う。
しかし、フィルが追ったその背は、少し歩いた先で止まっていた。
「どしたの? アイヴィちゃん」
「ねぇ……何あれ?」
困惑の色を声に乗せ、砂浜の方を指差すアイヴィ。
指し示す方向へ目を向けたフィルは、友人が何を言いたいのかを理解した。
先刻までただ薄黄色に広がっていた砂浜の上に、先程までなかったものがあったのである。




