5-33 フィル’s・キッチン~アジのバターソテー~
木製トレーの上に並ぶアジの切り身は、氷で絞めただけで血抜きを行っていないため、白い身がほんのりと赤みを帯びていた。
そこにパラりと塩が踊り、ガリッガリッと鳴るスパイスミルが胡椒で黒を描く。
ひっくり返して両面しっかりと。
味という化粧を施された切り身は小麦粉を塗され、その全身を白に染める。雪景色のような白と化した切り身は、そのまま木製トレーの上へと横たえられた。
出番まで眠りにつくアジの切り身。
主役を待たせてはいけないとばかりに、調理用のレリックが炎を生み出した。
立ち昇る炎の上で待ち構えるのは、黒くて重い鉄のフライパン。
フライパンの上で熱されたバターが滑り、嗅ぐものの腹を鳴らす重厚な乳の香りをキッチンに広げた。事実、食いしん坊の腹の音が鳴った。
何ごともなかったかのように投入されるアジの切り身二切れ。
熱いフライパンへ上でジュゥと音を立て、アジはその身に熱を帯びてゆく。まとう雪化粧に、溶けたバターを吸わせながら。
そんな風に料理をしているフィル。
その隣には、フィルに教わりながら一つ一つ作業を進め、今も真剣な眼差しでフライパンの中を見ているアイヴィの姿があった。
自分が捌いた魚の焼き加減を見極めんと、アジの切り身とにらめっこしている。
その愛らしい姿に、ついフィルはクスッと笑ってしまった。
「ん? 私、何か間違えた?」
「ううん。順調順調。野菜も欲しいなぁとか、ワインで蒸し焼きもいいよなぁって考えてただけ」
「別のことも考えてたでしょ」
「あちゃーバレてたかぁ……ほんとのこと言うと、おばあちゃんもこんな風に私のこと見てたのかなぁって思っちゃってさ。それがちょっと可笑しくて、ねっ」
ジュゥゥゥとフライパンから立つ音に、フィルの笑い声が混ざり合う。
互いに視線はフライパンへと向けたままだ。
「料理はお婆様から?」
「そう。お手伝いついでにね。おばあちゃんのお手伝いで私の右に出る者なんていなかったんだからっ。えっへん」
その跳ねる様なお道化た声に、アイヴィは疑問を抱かざるを得なかった。
「……何人のうち?」と。
簡素な問いに、フィルとメフィストの笑い声が返り、続けて答えが重なる。
「私とメフィちゃんだけ」「俺様と相棒だけだぜ」
「それは右に出る者はいないわね。もしかして貴女、おばあちゃんっ子?」
「正解。子供のころ、家には私とおばあちゃんとメフィちゃんしかいなかったからねぇ。なので今も絶賛おばあちゃん大好きっ子であります」
その明るい声が、祖母のことを大切に想う彼女の気持ちを如実に表していた。
魚の焼ける音とともに、その声を聞くアイヴィ。
小さい頃に慕う祖父を亡くしたアイヴィにとって、それがまるで自分のことのように嬉しかった。
「フフフッ。その様子だとお婆様はお元気そうね」
「元気も元気。この間もお土産持って帰ってみたら、逆におばあちゃんが育てた野菜を大量に持って帰ることになっちゃた――よっと」
フィルは掛け声と共に木べらを動かし、器用にフライパンの上の切り身をひっくり返した。隣でアイヴィも見よう見まねで動く。
二つのアジを身崩れ一つさせていないフィルと違い、アイヴィのアジは両方とも三分の二程の部分で折れてしまっていた。
切り身を覆う白かった化粧が今や黄色に栄える薄衣へと変わっており、そこに香ばしい茶の焼き目が出来ている。
バターを吸ったアジがむわりと香り、実に食欲をそそる。
だが、折れた姿は無常だ。
「うっ」と呻くアイヴィを、フィルは「気にしない気にしない」と明るく励まし、話の続きへと戻った。
「おばあちゃんの野菜がここにあればなぁ……悔やむ」
「生ものは日持ちしねぇし、仕方がないだろ」
「えー。アイヴィちゃんにもおばあちゃんの野菜食べてもらいたかったなぁー」
「そんなに推されると興味湧くわね。そろそろ?」
体内時計と焼ける音を頼りに、フィルは魚の焼け具合を感じ取る。
「んー、もう少しかな……そうだ! 今度一緒に帰ればいいのか。アイヴィちゃんを連れて帰れば、おばあちゃんもきっと喜ぶぞぉ……うちのフィルがこんな可愛い子と一緒になるだなんて長生きするもんだねぇ……って」
「なんで嫁入りの話になるのよ」
「え!? 嫁入らないの!?」
心底驚いたとばかりにフィルの目がクワッと開き、隣のアイヴィへと向く。
お道化るフィルに対して、アイヴィはチラリと冷めた視線を一瞬だけ返し、木べらでフライパンを指し示した。
その『焼き加減は?』という問いに、フィルもフライパンへと視線を戻す。
瞬時に真剣みを帯びた相棒に代わり、メフィストが口を開いた。
「むしろ突然そんな話になったら怖ぇよ。まぁ相棒が友達連れて帰ったら、婆ちゃんが喜ぶのは間違いねぇな」
「どうせ友達少ないですよーだ……よし。そろそろかな。よっと」
フィルの操作一つで、調理用のレリックから炎が消えた。
色よく焼けたアジが、バターの香りと共にフライパンから白い皿へと移される。
並んだアジの上に、キッチンで乾燥保存されていたバジルがパラッとかかり、料理に緑を色付かせ――
「取りあえず完成! アジのバターソテーで御座います。さぁアイヴィちゃん、ご賞味あれ」
「いや、自分の分は自分で食べるんでしょ?」
「ハハハ違うよ。私が作ったのをアイヴィちゃんが食べて、アイヴィちゃんの手料理を私が頂く。そんな完璧な作戦」
眼光キラリと輝かせ、フィルが隣に置かれた料理を狙う。
対してアイヴィは、自分の料理を守らんと、皿ごとフィルから距離を取った。
アイヴィが両手で持つ皿の上には、ふにゃりと折れ、中のふっくらした身の断面が露出したアジのソテーが乗っている。
フィルから皿を逃がしたアイヴィの顔には、拒否感よりも羞恥の色が強く出ており、やや赤みを帯びていた。
「嫌よ……流石に他人様に食べさせられるものじゃないわ」
「えー。私はそっちが食べたいのになぁ。どうしても、ダメ?」
「何で失敗作を食べたがるのよ」
「そりゃアイヴィちゃんの初めての手料理なんて食べたいに決まってるじゃん。それに失敗ってほど失敗してないよ……うーむ。じゃあ一個交換ってことで手を打とうじゃないか」
「拒否権は?」
「あると思う?」
質問に質問で返され、問答の無意味さを知ったアイヴィは、仕方がないとばかりに逃していた自分の皿をフィルの皿の隣に置いた。
テキパキと交換されフィルの皿へと移る自称失敗作を、アイヴィは恥ずかしそうに見送る。
「よし。ちょっとお行儀悪いけどもうここで食べちゃおう。いっただっきまーす」
「いただきます」
既に用意されていたフォークとナイフを手に、二人は並んで食べ始める。
二人は示し合わせたかのように、アイヴィの作った途中で折れてしまったソテーへとナイフを進めた。
差し込まれた銀のナイフが黄色の表面を裂き、焼けた肉を容易く切断する。
一口大に切り分けられたアジが、フォークと共に口へと運ばれ、二人の顎がもぐもぐと動き始めた。
瞬間、二人の口の中にぶわっとアジの味わいが波のように押し寄せた。
ぎゅっと閉じ込められていた魚の旨味が一気に解き放たれたのだ。
フィルが鼻から「ん~ん~」と感嘆の音を発するのも、無理はなかった。
その鼻の内側をバターの香りが駆け抜けていく。
決してぎっとりとせぬ、丁度良い濃さである。
「……アジの味はアジアジしてるのに、身はふわふわだよ~。塩味も丁度いい。う~ん、これはデリシャス」
「ええ。アジがバターのコクと合わさって堪らないわ。釣れたてってこんなに美味しいのね」
調理時のたどたどしさが嘘のように、ナイフとフォークを動かすアイヴィの手は止まらない。
釣れたてという旨さとバターの芳醇さに突き動かされ続け、二人は味わい、味わい、味わい尽くし……あっという間にフィルとアイヴィの皿の上から、それぞれ一枚のソテーが消えてしまった。
華やかさなどない酒場のキッチンに、今は二つの花が咲いていた。
花は楽し気にクスッと揺れる。
元より、崩れた身や調理時の折れなど気にする必要はなかったのだ。
「ねっ、アイヴィちゃん。失敗作なんかじゃなかったでしょ」
「ええ。自分で作ったとは思えないくらいに美味しかったわ。フィルのもいってみましょう」
「私のには、愛情という調味料が入って――」
「ないでしょ」「ねえだろ」
同時に入ったツッコミをフィルは笑顔のまま受け止め、自分の作ったソテーへとナイフを進める。
もぐもぐと一口食べたフィルの感想は……「甲乙つけがたし」だった。
そこへアイヴィから異議が飛ぶ。
「どこがよ。こっちの方が味がきゅっと引き締まってて美味しいじゃない」
「へー。俺様には同じ風に作ってたようにしか見えなかったけど、違うんだな」
「ええ。シンプルそうに見えて奥深いのね……」
「んー? おんなじだと思うけどなぁ」
アイヴィの言葉に、フィルはあまり納得していないらしい。だが、アイヴィ作のアジソテーと同じということは、美味しいということに他ならない。
それを示すかのように、食べ進めるフィルの口角は頬を持ち上げんばかりに上向いていた。
フィル程ではなくとも、アイヴィも似たような表情をしている。
そのまま朝のひと時は穏やかに過ぎ、あっという間に「ごちそうさま」の声がキッチンに広がった。
「さてアイヴィちゃん。食べ終えたあとは?」
「片付けね……面倒だけどやりましょう」
「うむ。片付けまでが料理なのじゃよ」
「じゃ、俺様はそこらで遊んでくるぜ」
すぃーとキッチンから逃げるメフィストを見送り、フィルたちは流しで洗い物を始めた。乾燥した植物を編んで作られたブラシを片手に、二人は並んでゴシゴシ、ゴシゴシと手を動かす。
フィルがあれやこれやと並ぶ汚れものに悪戦苦闘する中、アイヴィの呟きがフィルの耳に届いた。
「自分で魚を釣って、自分で捌いて料理して……こんなことするなんて、王都に居た時には考えもしなかったわ」
「王都周辺には川はあるけど、海はないからねぇ」
「それ以前の話よ。私、狩人になるまでは屋敷からほとんど出なかったもの。屋敷に居た頃は、食べる物なら黙っていても勝手に出てきたわ」
「それはそれは贅沢ですこと」
フンッ、フンッと次々と汚れものを片付けていくフィルのそんな言葉に、アイヴィは「フフッ、そうね」と楽し気に返す。
そしてアイヴィは、洗い終えたフライパンを白布で拭きながら話を続けた。
「狩人になってからも、王都と狩りの行ったり来たり。それはそれで楽しかったけど……こういうのも悪くないわ」
「まぁ、面倒は面倒なんだけどねぇ。いつも裏でご飯作ってくれるおばちゃんには感謝しかないよ……ふぅ、ようやく落ちたぁ」
フライパンを洗い終えたフィルの顔は、一仕事終えた職人の顔になっていた。
自然とフィルからフライパンを受け取り、アイヴィが水滴を拭う。
それが最後の洗い物であったため手持無沙汰になったフィルが、隣のアイヴィの顔を覗き込む。
「そういえばアイヴィちゃん。川や海に行く機会がなかったってことは……」
「なによ」
「もしかして、泳げない?」
「………………いわよ」
ごにょごぎょと流れる細い声に、首を傾げるフィル。
アイヴィは拭き終えたフライパンを横の台へとそっと置くと、フィルへ向き直った。そして腰に手を当て、その小さな胸を大きく前に張り出し、アイヴィは高らかに宣言した。
「泳げないわよ。悪い?」
「いやぁ、悪くはないけど、もしも一昨日の戦いでアイヴィちゃんが海に落ちてたら、それはもぅ大変なことになってたんだなぁって――そうだ!」
まるで頭上で何かが光ったかのように、フィルの脳内に名案が浮かんだ。
口を小さく開け、目を丸く開いたフィルのその顔を見てか、アイヴィの背に悪寒が走る。アイヴィは、目の前の友人がろくでもないことを思いついたのだろうと理解していても、聞かずにはいられない性分であった。
「何を思い付いたの? フィルメイル」
その問いを『待ってました』とばかりに、フィルはキラリと笑顔を決めた。
その笑顔の横で、グッと親指を立てている。
そしてそのまま、フィルは名案を言葉に変えた。
「アイヴィちゃん。海行こうぜ、海♪」
アイヴィは、つい最近聞いたその言葉を左耳から右耳へと受け流し、そして、深い深い溜息をついた。
自分の身に待ち受ける困難を憂うかのように……。




