5-32 フィル’s・キッチン~三枚おろし~
ようやく日が昇り始めた港町リヴィアの朝。
フィルたちが泊まっている酒場一階のキッチンから「ヒィィ」と甲高い悲鳴が、町民の居ない町に漏れ出していた。
悲鳴の原因は、フィルが振り下ろした包丁により体長三十センチほどのアジの頭部が切り落とされたからであった。
まな板の上、包丁の入った首元の左右でアジの頭と体が分かたれている。
既に凍るように冷たい海水の中で息絶えていたアジに痛みがなかったのは、せめてもの慈悲かもしれない。だが、突然の惨事に、先程悲鳴を上げたアイヴィが、隣で包丁を持ったまま抗議の声をあげた。
「いきなりやらないでよ!」
「いやー。キッチンに立って包丁持ってるんだから、いきなりも何もないっしょ。せいご(体側面にある棘っぽい鱗)も取ったし鱗も取った。なら次は首だよ。ほら、アイヴィちゃんも頭、落とそう。あたま」
血の付いた包丁を片手にキラリと白い歯を輝かせるフィル。
そんな友の姿に、ついアイヴィはジトッとした視線を返してしまう。
つい先程までフィルに教わるがまま、おっかなびっくり鱗を落としていたストレスの所為かもしれない。
「……自分が出来るからって気楽に言うわね」
「アハハ、こういうのは慣れだよ、慣れ。さぁさぁやってみよぉー。そこの胸びれを持ち上げて……そうそう。その根元から腹びれに向かって包丁を立てて……うんうん。でそのまま一直線に線を引く感じで骨の所まで……」
フィルの指示に従い、まな板の上で横たわるアジへ包丁を入れるアイヴィ。
目は見開き、顔は強張り、額からは汗が噴き出していた。
普段の愛らしい顔も、ここまで緊張していたら台無しである。
しかし、そんな緊張とは違い、右手で握る包丁の動きは実に正確であった。
短刀を用いた戦闘術が包丁さばきにも活きているのかもしれない。
「一回包丁抜いて、反対にして……そうそう、反対側と切る角度を合わせて。そう上手上手。ほーら頭落ちたよ。簡単でしょ」
「ふぅ~。何でこんなに緊張するのかしら。魔物なら幾らでも首を叩き切ってやるのに」
「まぁそういうものだよアイヴィちゃん。さっ、次は腹をかっさばいて内臓を取り出すよ」
『内臓』と聞き、アイヴィの顔が渋く歪む。
そんな友人の姿を気にせず、フィルは手を動かす。
軽やかに動く包丁が断面腹側から肛門までをスパッと裂き、丁寧な動きが傷のない内臓を掻きだす。フィルはお手本を見せた所で終わらず、そのまま口でレクチャーを始めた。
「次はアイヴィちゃんの番。そう、そこから包丁を入れて……そこは皮を切るくらいのつもりで優しくね……そうそう。次は手で上の部分をうにょっと開いて、包丁で内臓を……」
フィルのアドバイス通りに包丁が動く。
自分が動かす包丁によってアジから飛び出た内臓を見たアイヴィは、一瞬ウッと怯んだものの、すぐに「こうなったらやってやるわ」と覚悟を決めた。
真面目に意気込むその姿からは、怯えの色は見えない。
その後も並んでアジと格闘を続ける二人。
フィルが魔法で出す水で腹の中を洗い、中骨に沿って白い腹側から尾へと包丁が進み、今度は黒い背側から首へと包丁が走る。
途中途中「一度でやろうとしなくてだいじょーぶ」「真ん中の骨に当たるところまでちょい、ちょい、ちょいっとね」「逆側も同じ風にやってみよー」と声を掛けながら魚を捌く作業は進み…………フィルとアイヴィは、包丁と骨抜きをまな板の上に置いた。
「「ふぅ~」」と同時に流れる息は、どこか満足げである。
「三枚おろし完成っ! じょーずに出来ましたぁ」
「我ながら……微妙な出来ね」
つい一瞬前まで満足げであったアイヴィであったが、自分が切り分けたアジとフィルが切ったアジを見比べ、自虐めいてそう呟いてしまった。
フィルの前には、骨の取り残し一つない美しく切り分けられた二枚の身と、肉の殆どついていない中骨が置かれている。対してアイヴィの前には、少し身の崩れた二枚の身と、少し厚みがある中骨が置かれている。
腕前の差は歴然であった。
だが、それは当然のことであろう。
何しろアイヴィにとって、初めて捌いた魚なのだから。
フィルの口からも、そんな当たり前な感想が漏れていた。
「そう? むしろ初めてでそれなら上手だよ。私なんか初めてお魚捌いた時、内臓が破けちゃうし身はボロボロになるし骨に肉がびっしり残るし手は臭いし汚れるしで、それはもう散々だったんだよぉ」
「そうなの?」
問うように見上げるアイヴィに、フィルは苦笑いと頷きで答える。
見つめ合う彼女たちの横で、メフィストが「酷ぇもんだったよな」と懐かしそうに浮かんでいた。
気恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らしたフィルが、わざとらしく口を猫のように歪める。
「あーあ。アイヴィちゃんがもうちょっと下手っぴだったら、いっっっぱい慰めてあげたのになぁ、ざんねんざんねん♪」
「まさか、最初からそれが目的?」
そう言ってアイヴィが疑いのまなざしをフィルへと向ける。
その言葉もまなざしも、当然否定されることが前提の冗談めいたものであった。
フィルも分かっているのか、小気味よく笑う。
「アハハ、違うよぉ。何でもそうだけど、一緒にやるのって楽しいっしょ」
「……思ってたよりまともな理由が返ってきたわ」
「だな、アイヴィ」
「くそぅ……アイヴィちゃんはともかく、最近メフィちゃんが反抗期だよぉ」
嘆き悲しむ演技をしながらも、フィルは切った魚を木製トレーの上へと移動させている。
「ケッケッケッ」といつものように笑うメフィストも、フィルに同調した。
「俺様はいつだって俺様のままだぜ。さぁ仕事の続きだ料理長」
「ういー。雇われ料理長は辛いよ……」
「仕事って?」
そんなアイヴィの疑問は、一瞬にして解決した。
フィルとアイヴィの目の前にあるまな板の上に、新たなるアジがそっと横たわったからである。
再び包丁をクルリと持ち、フィルが口元をニタァと歪めた。
「全部捌いちゃうよ。お魚さんは鮮度が命。ほらアイヴィちゃんも早く早く」
「うっ……よし。やってやるわ」
意気込むアイヴィの隣で、華麗な包丁さばきが舞う。
慣れぬアイヴィが、ゆっくり着実に包丁を動かす。
二度目のチャレンジに挑む友人の姿を横目に、フィルの目が穏やかな曲線を描いた。
『一緒にやるのって楽しい』
その言葉が嘘でないことを示すように。
二人のアジ捌きは、六尾のアジ全てを処理するまで続いた。
全てのアジを三枚におろしたフィルたちは、半身の切り身四枚を木製トレーに残し、残りを酒場の冷蔵用レリックの中へと片付けた。
大きな冷蔵用レリックの中には、カチコチに凍らせたシーサーペントの肉も入っている。これは、マイトがフィルたちの為に残していったものだ。
確保した食料に満足げなフィルは、アイヴィへ「調理法は何がいい?」と問う。
だが初めてのチャレンジに疲弊していたアイヴィは、「あとは貴女に任せるわ」と退散する意思を伝え、キッチンから逃げ出そうとした。
だがフィルはそれを許さない。
フィル’sキッチンに、観客はいないのである……メフィストを除いて。




