第42話 信者
「暑いわね」
思わず口に出ていた。故国に向かう馬車の暑さに耐えかねたのだ。
「はい、殿下。離宮が涼しすぎました」
シルヴィー嬢は私の愚痴に答えてくれた。見れば彼女も額に汗を浮かべている。
「こまめに水分を取らないと」
私は水筒を出し、シルヴィー嬢に手渡した。
「そうですね、大聖女様に叱られてしまいます」
私たちは出発前、水分補給について大聖女様たちからきびしく注意されていた。今までは汗やトイレを抑えるため多少暑くとも水分補給は控えめにしていたのだが、聖女様たちはヴァルとラントに帰国する私たちをとても心配していた。
「今の風向きからすると、しばらく暑い日が続くと思う。風通しの悪い馬車だから、気をつけてね」
大聖女様は天気の予測までして、私たちの道中を気遣ってくれたのだ。
それは3日ほど前の、やはり暑い日のことだった。ノート出版のための作業も終盤戦に差し掛かっていた。
「大聖女様、あと少しですね」
私の言葉に大聖女様は、にっこりと笑われた。
「そうね、なんとか予定通りに原稿ができれば、今度のご帰国に間に合うでしょう」
「はい、でも、こちらはとても涼しいので、帰国したら暑さが心配です」
「そうですね、ヴァルトラントは海からも遠いですからね」
「海ですか?」
「ええ、陸地と海の比熱の違いね」
比熱とはものの温まりやすさのことである。海は陸地と比べ温まりにくいので、夏場は相対的に温度が低くなる。温度の高い陸地側に上昇気流が生まれ、温度の低い海から風が流れ込む。ただ、ヴァルトラントは海から遠いので、海からの風がヴァルトラントに届くまでにすっかり温度が上がってしまうということを、大聖女様は指摘されているのだ。
「殿下、ザントラントは、この風のせいで水が少ないという話でしたね」
シルヴィー嬢は作業の手を止めずに言った。
「シルヴィーさん、勉強熱心ですね」
大聖女様が感心したように仰った。
「いえ、大聖女様、講義でも仰ってましたよ」
「そうでしたかしら?」
「はい、風が山を超えると、超える前より温度が上がるというお話のときに」
私も、そのときのことを思い出した。
「そう言えば聖女様、風が山を超えると温度が上がるのは、雲ができるときの潜熱が原因だと言ってたよね」
そう口を挟んできたのはヘレン先生だった。それに対して大聖女様は、
「そうよ、計算はしてないけど」
とお答えになった。
「あのさ、潜熱自体の効果が大きいことは認める。だけどさ、水蒸気量による空気の比熱の違いも考慮しなきゃいけないんじゃない?」
「え?」
「酸素や窒素は2原子分子でしょ、それに対して水は3原子分子じゃん。比熱、変わると思う」
私には全くわからない話になった。
「そっか、あと水分子は極性があるから、さらに比熱大きくなりそうだね」
「そうでしょ、きちんと定量的に考えないと、聖女様自身、納得できないんじゃない?」
「そうだけど、いろんな定数がわかんなくてさ」
「だいたいの数値でいいんじゃない、あとケネスだったら、私達より定数、詳しいんじゃない」
「そうだね、フローラ、ケネスに話しといてよ」
「ん、わかった」
おそらく私達留学生たちは目を丸くしていたのだと思う。
「あら、ごめんなさい。話がそれちゃったわね」
大聖女様が謝ってくれた。
「いえ、とんでもないです。どうか議論をお続けになってください」
「う~ん、そうしたいところなんだけど、おそらく私達は同じ結論に達すると思う。そうよね、ヘレン」
「ええ、オクタヴィア殿下。あとは計算するだけなんですけど、ケネスからいくつか数値を聞かないといけないので。とにかくノートの作業にもどりましょう」
「はい、わかりました、先生」
そのあとヘレン先生のおっしゃるとおり原稿づくりにもどったのだが、実のところ私は少しがっかりしていた。ノートを原稿化する作業も大事なのだが、大聖女様とお仲間たちが自然現象について議論するのを間近で見たのは初めてだったのだ。
「殿下、あのとき大聖女様たちの議論、聞き続けたかったですわね」
馬車で私の眼の前に座るシルヴィー嬢も、3日前のあのときのことを思い出していたようだ。
「そうですね、大聖女様のお話は全くわかりませんでしたが、なにか大事なことをお話になっていた気がしますね」
「それにしても殿下、大聖女様の柔軟さにはいつも驚かされますね」
「ええ、ヘレン先生の意見をあっさりお受け入れになったことでしょう?」
「はい、殿下。私も学問に限らず、自分の考えだけにとらわれず、人の意見もとりいれられるようになればと思います」
「それは私も同じですよ。ですからシルヴィー嬢、なにかあったらどんどん教えてくださいね」
「は、はい、殿下」
ヴァルトラントへ帰省する旅の間、かなりの会話は大聖女様のことになってしまった。ヴァルトラントの首都に近づいた馬車の中でそれをシルヴィー嬢に伝えたところ、シルヴィー嬢は一言、
「それは殿下も私も、大聖女教の信者だということですよ、殿下」
と表現した。




