なんだか場の空気に慣れてきたかな
会場の人の流れに沿って歩いていると、あちらこちらから声が聞こえてくる。
「すみません、写真お願いしてもいいですか?」
少し離れたところで、カメラを構えた男性がレイヤーへ声を掛けると、そのレイヤーは笑顔で振り向きながら軽く手を挙げた。
「もちろんです!」
「ありがとうございます!」
カメラマンが嬉しそうに頭を下げると、二人は撮影のための場所へ移動していった。
そんな光景を眺めながら歩いていると、白檮山さんが楽しそうに辺りを見回していた。次々と行き交うレイヤーやカメラマンの姿を目で追い、興味のあるものを見つけるたびに表情を輝かせている。
「やっぱりコミケってすごいねー」
白檮山さんが感心したように小さく息を吐き、俺の方へ振り返る。
「はい。ネットで見ていたのとは全然違いますね」
俺も周囲を見渡しながら答えると、白檮山さんは何度も頷きながら、近くで撮影されているレイヤーへ目を向けた。
「うんうん。実際に来ると、みんな本気で楽しんでるのが分かるよね」
その表情は、さっきまで俺が知っていたバイト先の先輩のものとは少し違っていた。もちろん、普段の白檮山さんも楽しそうに笑うけれど、今はそれ以上に生き生きとしていて、足取りまでどこか軽く見える。
「白檮山さん、こういうの好きなんですね」
俺が少し笑いながら尋ねると、白檮山さんはほとんど間を置かずにこちらを振り向き、満面の笑みを浮かべた。
「うん。大好き!」
その一言には、普段よりもずっと強い嬉しさが滲んでいる。
「コスプレって、衣装を着て終わりじゃないんだよー。どうやったらそのキャラに見えるかなとか、ポーズはどうしようとか、写真を撮ってもらうならどんな表情がいいかなとか、考えることいっぱいあるんだよ」
白檮山さんは指を一本ずつ折るようにしながら説明し、最後には少し得意そうに胸を張った。
「そんなに考えてるんですか?」
俺が驚いて目を丸くすると、白檮山さんは当然だと言わんばかりに頷く。
「考えるよー」
そう答えたあと、少し照れたように頬を緩めながら、白檮山さんは続けた。
「だって、せっかく好きなキャラになるんだもん。できるだけ、そのキャラっぽくなりたいじゃない?」
「なるほど……」
俺は自分の服装へ視線を落とした。
俺は今まで、衣装をきちんと着ることばかり考えていた。ウィッグも用意したし、小物も揃えた。カラーコンタクトも準備したから、それで十分だと思っていたのだ。
けれど、白檮山さんの話を聞いていると、どうやらそれだけではないらしい。
「秦くんも、やってみる?」
白檮山さんが少し身を乗り出すようにして、俺の顔を覗き込んでくる。
「何をですか?」
俺が首を傾げると、白檮山さんはいたずらっぽく笑った。
「義雄っぽいポーズ」
「えっ?」
思わず聞き返すと、白檮山さんは口元を押さえながら楽しそうに笑う。
「さっき撮ってもらったとき、ちょっと固かったから」
「やっぱり固かったですか?」
自覚がなかっただけに、俺が少し気まずそうに頬を掻くと、白檮山さんは慰めるように笑った。
「うん。でも、最初ならそんなもんだよー」
そう言ってから、白檮山さんは少し考えるように顎へ指を当てる。
「じゃあ、まずは義雄だったらどんな立ち方するかなって考えてみよう」
「キャラクターになりきるってことですか?」
俺が尋ねると、白檮山さんは何度も頷いた。
「そうそう」
白檮山さんは俺の少し前に立つと、自分も胡蝶しのむらしい表情を作ってみせた。口元には柔らかな笑みを浮かべながらも、目だけはどこか相手を観察するような雰囲気になっている。
「ほら、しのむならこんな感じかなーって」
「……すごいですね」
白檮山さんは本気でコスプレに向き合っているんだなと、俺が思わず感心してしまうと、白檮山さんは嬉しそうに胸を張った。
「でしょ?」
得意そうに笑ったあと、白檮山さんは俺へ視線を向ける。
「秦くんも、やってみて」
「……分かりました」
いままでの俺はコスプレをすることにまだ少し気恥ずかしさとそれなりに見えればいいだろうという甘い考えがあった。
しかし、それでは駄目なんだと俺は少し考えてから、ゆっくりと姿勢を正した。冨岡義雄なら、もっと無表情で落ち着いている感じだろうかと思いながら腕を軽く組み、視線を少しだけ横へ向けてみる。
「……こんな感じ?」
俺が恐る恐る尋ねると、白檮山さんは一瞬目を見開き、それからぱっと表情を明るくした。
「おおー!」
嬉しそうに身を乗り出してくる。
「さっきより全然いい!」
「本当ですか?」
俺が少しだけ顔を緩めると、白檮山さんは満足そうに頷いた。
「うん! そのまま、もうちょっとだけ顎を引いてみて」
「こう?」
言われた通りに顎を引くと、白檮山さんは「そうそう」と嬉しそうに指を差し、それから何か思いついたようにスマホを取り出した。
「ちょっと待って。今の撮っていい?」
「えっ、スマホで?」
俺が驚いて目を丸くすると、白檮山さんはスマホを軽く掲げながら頷く。
「うん。記念記念」
「まあ……いいですけど」
俺が頷くと、白檮山さんの顔がぱっと明るくなる。
「やったー!」
嬉しそうに笑いながらスマホを構え、俺の姿を画面越しに確認すると、今度は少し声の調子を変えた。
「じゃあ、義雄さん。こっち見てー」
「……なんですか、それ」
俺が呆れたように言うと、白檮山さんは楽しそうに目を細める。
「いいからいいから」
俺は思わず笑いそうになったが、何とか表情を抑え、さっき教えてもらったように顎を少し引いた。
「うん、そのままー」
白檮山さんが画面越しに俺を確認しながらシャッターを切る。
「はい、撮れた!」
すぐにスマホを胸元へ下ろし、白檮山さんは嬉しそうに画面を確認する。
「どうですか?」
俺が横から覗き込もうとすると、白檮山さんは少しだけ身体を寄せて画面を見せてくれた。
「ちょっと待ってね」
しばらく画面を眺めたあと、白檮山さんは顔を上げ、満足そうに笑った。
「うん。いい感じ!」
「本当ですか?」
「うん。ちゃんとキャラっぽいよ」
白檮山さんは嬉しそうにスマホを俺へ差し出す。
画面には、普段の自分とは少し違う顔をした俺が写っていた。
「……なんか変な感じですね」
俺が照れたように頬を掻くと、白檮山さんは小さく笑った。
「ふふっ。でも、これがコスプレなんじゃないかな」
「これが?」
不思議そうに聞き返す俺に、白檮山さんは画面を見ながら頷く。
「うん。自分じゃない誰かになってみるのって、意外と楽しいでしょ?」
そう言われて、俺はもう一度画面を見る。
確かに、少し楽しい。
さっきまで俺は「場違いじゃないか」とばかり考えていた。でも今は、どうすればもっとそれらしく見えるのかを考えているし、自分からコスプレを楽しもうとしていることにも気づいた。
周りの空気に当てられていると言うのもありそうだが、皆生き生きとコスプレを楽しんでるのだからそれにならないのはそんな気がする。
踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損損とはいうが、こういうものなのかもしれない。
「……なんとなく分かってきた気がします、こうなるんだったらもっと真剣に真面目に準備しておいたほうが良かったかなって少し後悔してますし」
俺が小さく笑いながら言うと、白檮山さんは嬉しそうに首を傾げる。
「ほんと?」
「はい」
俺が頷くと、白檮山さんはぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、次はもっとすごいところ行こう!」
「もっとすごいところ?」
俺が聞き返すと、白檮山さんは人混みの先を指差した。
「レイヤーさんがいっぱい集まってるところ。いろんな人がいるから、見てるだけでも面白いよー」
「なるほど」
俺が頷くと、白檮山さんは満足そうに笑い、そのまま先に歩き始めた。
「ほら、行こ行こー」
「はい」
俺もその後を追い、再び人の流れに乗って歩き始める。
少し進んだところで、今度は甘露寺蜜利のコスプレをした女性レイヤーから声を掛けられた。
「すみません、よかったら一緒に写真撮りませんか?
同じ毀滅でコス合わせしたいので」
女性レイヤーがこちらへ笑顔を向けながら、軽く手を差し出す。
「はい!」
白檮山さんがすぐに返事をし、明るく笑って一歩前へ出ると、すぐに俺の方を振り返った。
「秦くんもいいよね?」
確認するように首を傾げる白檮山さんへ、俺は頷いて答える。
「もちろん」
その返事を聞くと、白檮山さんはほっとしたように笑った。
今度はさっきほど緊張しなかった。白檮山さんの隣に立ち、言われた通りにポーズを取ると、撮影している人から声が飛んでくる。
「もうちょっと近くても大丈夫ですよー」
白檮山さんがちらりとこちらを見て、口元を少し緩めた。
「秦くん、さっきのポーズでいいんじゃない?」
「分かりました」
俺は頷き、顎を少し引いて視線を横へ向ける。
「おお、いいですね!」
カメラマンの声とともに、シャッター音が連続して響いた。
さっきまでなら、ただ恥ずかしくて固まっていたと思うが、今は、不思議と楽しい。
マンガのキャラになりきった自分が誰かに見られ、写真も撮られている。そのことへの恥ずかしさはもちろんあるし、まだ慣れたわけでもない。それでも、それ以上に「もっと上手くやってみたい」という気持ちが出てきていた。
撮影が終わると、俺は軽く頭を下げる。
「ありがとうございました!」
少し遅れて白檮山さんも笑顔で頭を下げた。
「こちらこそー!」
女性レイヤーが手を振りながら離れていくのを見送ってから、白檮山さんが俺の方へ身体を向け、少し顔を覗き込むようにして尋ねた。
「どうだった?」
「……楽しかったです」
俺が素直に答えると、白檮山さんは「やっぱりね」と言いたげな嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「でしょー?」
満足そうに頷きながら、白檮山さんは続ける。
「だから言ったじゃない、コミケは絶対、楽しいよって」
「はい、たしかにそうでしたね」
俺も笑いながら頷いた。
そしてふと周囲を見回す。たくさんのレイヤーがいて、たくさんのカメラマンがいる。その中で、俺たちも少しずつこの場所に馴染んできたような気がした。
今日はまだ、始まったばかりだ。買いたいものもあるし、見たい場所もある。そして――まだ一度も、白檮山さんと二人でちゃんと写真を撮っていない。
「白檮山さん」
俺が呼び掛けると、白檮山さんが振り向いた。
「なーに?」
少し首を傾げながら、俺の顔を見る。
「……このあと、俺たち二人でも写真撮りませんか?」
俺が少し照れながら言うと、一瞬、白檮山さんが目を丸くした。
「えっ?」
思いがけない言葉だったのか、白檮山さんは数秒だけ固まったものの、すぐにぱっと顔を輝かせる。
「もちろん!」
弾むような声と一緒に嬉しそうに頷く白檮山さんを見て、俺も自然と笑っていた。
初めてのコミケ、初めてのコスプレ、初めての撮影。そして、初めてづくしの一日の中で、俺は少しずつ、この場所の楽しみ方が分かってきた気がした。




