コスプレを実際してみる意外と楽しいかったよ
――そして、十六日。
目覚ましが鳴るよりも早く、俺は目を覚ました。
今日はとうとうコミケ当日だ。
ベッドの上でしばらく天井を見つめているうちに、昨日までの宿題のことを思い出した。国語も数学も英語も、理科と社会のプリントも終わらせた。
夢の中でも、永遠に終わらない宿題の山にうなされていた気がする。それくらい昨日まで必死になっていたのだが、読書感想文も自由研究の清書も、どうにか十五日の夜までに片付けることができた。
「はあ……終わらないわんこそばみたいな宿題と延々と格闘していたのは夢か? ……宿題、ちゃんと終わったんだよな」
半信半疑のまま身体を起こし、勉強机の方へ目を向ける。
そこには、昨日まで何度も確認していた宿題が、ちゃんと終わった状態で置かれていた。
それを見た瞬間、ようやく肩の力が抜ける。
「……終わってる」
思わず小さく呟いてから、俺はもう一度机の上を確認した。
国語も、数学も、英語も終わっている。理科と社会のプリントもある。読書感想文も自由研究の清書も、ちゃんと残っている。
昨日の夜までは、机に向かいながら「本当に間に合うのか」と何度も不安になっていた。それなのに今は、もうその必要がない。今日も明日も、その次の日も、宿題のことを考えなくていい。
「……よし」
小さく頷いてから、俺はようやく身支度を始めた。
身支度を整えると、昨日の夜に用意しておいたコミケ用のバッグを、念のためもう一度開いた。
中には、冨岡義雄になりきるための衣装、ウィッグ、小物、カラーコンタクトを入れてある。今日は現地の更衣スペースで着替える予定なので、普段着のまま会場まで行く。
その他にも、財布には現地で物を手に入れるための五百円玉をたくさん入れておいたし、スマホ、モバイルバッテリー、タオル、それから凍らせたスポーツドリンクのペットボトルに塩飴、コミケカタログ、冷却スプレー、汗拭きシートなども詰め込んである。
バッグの中身を一つずつ確認していくうちに、俺は苦笑した。
「コミケは戦場だって言うけど、これでいいよな?」
キャンプのときに用意した荷物と、あんまり変わらない気すらする。
それでも、必要そうなものを一つずつ揃えていくうちに、胸の奥が少しずつ高鳴ってきた。
昨日まで頭の中を占領していたのは宿題だった。
今、頭の中にあるのは――今日のことばかりだ。
そしてスマホを見ると、白檮山さんからメッセージが届いていた。
『おはよー! 今日はよろしくね!』
その短い文章を見ただけで、自然と口元が緩んだ。
『おはようございます。こっちこそよろしくお願いします』
そう返信してから、俺はバッグを肩に掛け、待ち合わせ場所の西船橋駅へ向かった。
西船橋駅に着いてから、指定された場所で周囲を見回していると、少し離れたところから聞き慣れた声がした。
「秦くーん!」
振り向くと、白檮山さんがこちらへ手を振りながら近づいてくる。
「おはようございます」
「うん、おはよー。今日は楽しみでめちゃ早起きしちゃったよー」
白檮山さんは嬉しそうに笑いながら、自分の持っているバッグを軽く持ち上げてみせた。
「衣装、ちゃんと持ってきたよ」
「俺もですよ。忘れ物はないと思います」
「ほんと? じゃあ、これで安心だねー」
そう言いながら、白檮山さんは念のため自分のバッグを覗き込み、もう一度中身を確認する。
「じゃあ、行こっか」
「はい」
二人で電車に乗り込む。
朝早い時間とはいえ、同じ目的地へ向かうらしい人もかなり多く、大きなバッグやキャリーバッグを持った人の姿があちこちに見えた。
俺たちは並んで座ることができたので、会場へ向かう電車の中で少し話をする。
「秦くん、緊張してる?」
白檮山さんがこちらの顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
「……そうですね、ちょっとだけ」
「やっぱり?」
「なにしろ初めてですからね。コミケ自体もそうですし、コスプレも」
そう答えると、白檮山さんは安心させるように小さく笑った。
「私も。でも、始まっちゃえばきっとすごく楽しいから大丈夫」
「そうなんですか?」
「うん。それに今日は一緒だからね」
そう言って白檮山さんが笑う。
その言葉を聞くと、不思議と少しだけ気持ちが楽になった。
「そういえば、白檮山さんは何か買うものとか決めてるんですか?」
「うん、いくつかあるよー。でも、現地に行ったら欲しいもの増えちゃうかもしれない」
「分かります。俺もカタログ見てたら結構増えました」
「やっぱりそうなるよねー」
二人で顔を見合わせて笑う。
そんな他愛のない話をしているうちに、電車は目的地へ近づいていく。車内にも、大きな紙袋を持った人や、キャラクターのグッズを身につけた人が少しずつ増えてきた。
その光景を眺めていると、少しずつ「本当に今日がコミケなんだ」という実感が強くなっていった。
そして会場に到着すると、その緊張はさらに大きくなった。
「……すごいな」
目の前には、想像していた以上の人が集まっている。
これだけ大勢の人が、それぞれ好きな作品やキャラクターを求めてここに来ているのだと思うと、テレビやネットで見るイベントとはまるで違うものに感じられた。
「すごいねー」
隣にいる白檮山さんも、人の多さに少し目を丸くしながら周囲を見回している。
「まずは着替えに行こうか」
「そうですね」
二人で更衣スペースへ向かった。
ただし、男女で更衣室が分かれているため、そこで一度別れることになる。
「じゃあ、着替え終わったら、あそこの辺りで待ち合わせね」
白檮山さんが少し離れた場所を指差しながら確認する。
「分かりました。俺も終わったらそこに行きます」
「うん、じゃあまたあとでねー」
「はい」
白檮山さんが女性用の更衣室へ向かっていくのを見送ってから、俺も男性用の更衣室へ入った。
それからしばらくして、着替えを終えた俺は、鏡の前でウィッグを整えながら自分の姿を確認した。
そこに映っていたのは、普段の自分ではなかった。
冨岡義雄の衣装を着た自分を見ていると、なんだか不思議な気分になる。
「……これ、俺なんだよな」
思わず鏡に向かって呟いてから、俺は少しだけ首を傾げた。
周りを見れば、同じようにコスプレをした男性レイヤーが目に入る。
自分だけが浮いているわけではない。それでも、手作りした衣装でここに立っていることを考えると、やっぱり少し不安になる。
「俺、手作りのコスプレだけど、場違いじゃないよな?」
そう呟いてから、もう一度鏡を見る。
正直、自信があるわけではない。
でも、せっかくここまで準備したのだから、今さら気にしても仕方がない。
そう自分に言い聞かせて、俺は更衣室を出た。
先ほど決めた待ち合わせ場所へ向かっていると、向こうから見覚えのある姿が歩いてくる。
「秦くーん!」
声のした方を見ると、白檮山さんだった。
胡蝶しのむの衣装に身を包み、ウィッグまできれいに整えている。
さっきまで電車の中で話していたときとはまるで違う姿になっていて、俺は思わず目を奪われた。
「おはようございます……じゃなくて、また会いましたね」
「ふふっ、なにそれー」
白檮山さんは楽しそうに笑いながら、その場で軽く一回転してみせる。
「どう? ちゃんとしのむに見える?」
「うん。すごく似合ってると思いますよ」
「ほんと? よかったー」
白檮山さんはほっとしたように胸を撫で下ろし、その表情を見ていると、俺の方も少し緊張が解けていく。
「秦くんも、ちゃんと義雄になってるよ」
「そうかな」
「うん。あ、でもちょっと髪、ここだけ直していい?」
白檮山さんは俺の返事を待ってから、ウィッグの一部を指先で整えた。
「はい、これで大丈夫」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そんなやり取りをしていると、近くにいたカメラマンの人から声を掛けられた。
「すみません、お二人、写真いいですか?」
その瞬間、俺の身体が固まった。
「えっ……」
学校でも写真を撮られることなんてほとんどない。
それなのに、今日はコスプレ姿で知らない人から声を掛けられたのだから、緊張するのも当然だった。
俺がどうしていいのか分からず立ち尽くしていると、白檮山さんが隣から小さく笑った。
「大丈夫だよ。せっかくなんだから、一緒に撮ってもらおう?」
「……うん」
白檮山さんに促されるまま、俺は彼女の隣に立った。
「もう少し近くても大丈夫ですよ」
カメラマンの言葉に、白檮山さんが少しだけこちらへ寄る。
俺もそれに合わせて立ち位置を調整した。
「じゃあ、いきまーす」
シャッター音が響く。
一枚撮られただけなのに、心臓が妙に速くなっていた。
それでも、隣にいる白檮山さんが楽しそうに笑っているのを見ているうちに、少しずつ肩の力が抜けていく。
次の写真では、俺も少しだけ自然にポーズを取れるようになっていた。
撮影が終わると、カメラマンにお礼を言って、その場を離れる。
「どうだった?」
白檮山さんがこちらの顔を覗き込むようにして尋ねる。
「……最初はかなり緊張したけど、思ったより大丈夫だった」
「でしょ? 慣れてくると楽しいんだよー」
そう言って笑う白檮山さんを見ながら、俺も少し笑った。
最初は、ただ好きなキャラクターの衣装を着てみたかっただけだった。
でも、実際にこうして写真を撮ってもらうと、思っていた以上に楽しい。
好きなキャラクターの姿になって、そのキャラクターが好きだという気持ちを、知らない人とも共有する。
今日ここにいる人たちは、それぞれ違う作品やキャラクターが好きなのだろうけれど、好きなものを楽しみたいという気持ちは、きっと同じなのだ。
「じゃあ、今日はずっと隣にいようかな」
白檮山さんが少し照れたように笑いながら、そんなことを言った。
「お願いします」
俺がそう答えると、白檮山さんは嬉しそうに頷いた。
そのまま二人で人の流れについていく。
会場にはまだまだたくさんの人がいて、これから見て回る場所も、撮影してもらう機会もいくらでもありそうだった。
少し前まで頭の中を埋め尽くしていた宿題のページ数は、もうどこにも浮かんでこない。
国語十四ページ、数学二十二ページ、英語十八ページ。理科と社会のプリント八枚に、読書感想文、自由研究の清書。
昨日まで必死になっていた数字が、今では遠い出来事のように感じられた。
ちゃんと終わらせておいてよかった。
そう思いながら、俺は隣を歩く白檮山さんを見た。
今日はまだ始まったばかりだ。
俺にとって初めてのコミケは、ここからが本番だった。




