キャンプの終わり
――翌朝。
「……ん」
目が覚めると、テントの中はまだ少し薄暗かった。一瞬、ここがどこなのか分からなかったが、それくらい昨夜はぐっすり眠っていたらしい。外からは鳥の声が聞こえ、テントの隙間から入ってくるひんやりとした空気が、朝の訪れを教えてくれている。
「朝か……」
眠気の残る頭で呟きながら寝袋から出て、入口を開けると、その向こうに広がっていた景色に思わず声が漏れた。
「……おお」
朝の西湖が広がっていた。
湖面には朝の光が浮かび、山にはまだ薄い靄が残っている。昨日の夕方に見た景色とはまるで違っていて、同じ場所なのに別の場所へ来たような感覚さえあった。
「おはよう!」
背後から明るい声が飛んできたので振り向くと、九重さんが両親と一緒のテントから出てきたところだった。髪は少し乱れているものの、そんなことはまるで気にしていないようで、朝から元気そうな顔をしている。
「おはよう」
「よく寝た?」
「かなり」
「私も。昨日、ほんとに疲れたから」
そう言って九重さんは両腕を上げ、気持ちよさそうに大きく伸びをする。その後ろから出てきたお母さんが、乱れた髪を手で整えながらこちらへ顔を向けた。
「おはようございます」
「おはようございます」
俺も軽く頭を下げて返すと、続いてテントから出てきたお父さんが首を左右に回しながら大きく息を吐いた。
「おはようございます。いやあ、昨日は疲れましたね」
俺が少し意外そうに声をかけると、お父さんは苦笑しながら肩をすくめた。
「それはそうでしょう。あれだけ動けば、私でも疲れますよ」
「でも、昨日ずっと楽しそうでしたよね」
そう言うと、お父さんは少し照れくさそうに笑いながら、九重さんの方へ目を向けた。
「楽しいのと疲れるのは別ですからね」
「でも、お父さん、昨日ずっと楽しそうだったじゃない?」
九重さんが面白そうに笑いながら父親の顔を覗き込む。
「楽しいのと疲れるのは別だろ」
「そっか」
九重さんは妙に素直に頷いたあと、すぐに自分の方を指さした。
「私は平気だけど」
「九重さんはな」
お父さんが苦笑しながら腕を組む。
「昔から朝だけは元気だ」
「なにそれ。昼も元気だよ」
九重さんが頬を膨らませて反論すると、お母さんがくすっと笑った。
「そうね。昼も元気よね」
「ほら!」
「はいはい」
お母さんが楽しそうに頷く。
そんなやり取りをしているうちに、九重さんがふと湖へ顔を向けた。さっきまでの明るい表情が少しだけ和らぎ、目を細めながら朝の湖をじっと眺める。
「……綺麗」
その横顔を見ながら、俺も湖へ目を向けた。
「昨日の夜も綺麗でしたけど、朝もいいですね」
そう言うと、九重さんが振り向いて笑う。
「だって綺麗なんだもん」
「便利な言葉だな」
「便利じゃないって」
九重さんが笑いながら首を横に振り、軽く俺の腕を小突いた。
「ほんとに綺麗なんだから」
「まあ、それはそうですね」
俺も苦笑しながらもう一度湖へ目を向ける。朝の冷たい空気を吸い込むと、それだけで頭がすっきりするような気がした。
「じゃあ、朝ご飯にしよう!」
九重さんが突然元気な声を上げたので、俺は思わず苦笑する。
「もうお腹空いたんですか?」
「うん。起きたらお腹空いちゃった」
「昨日あれだけ食べたのに?」
「寝たら別なの!」
「それ、理由になってるのか?」
「なってる!」
九重さんが即答すると、その勢いにお母さんが口元を押さえて笑った。
「ふふっ。じゃあ、朝ご飯にしましょうか」
「うん!」
九重さんが嬉しそうに頷き、俺たちは朝食の準備を始めた。
◇
朝飯は、昨夜ほど凝ったものではなかった。パンを焼いて、スープを温め、コーヒーを淹れるという簡単なものだったが、朝の湖を眺めながら食べるには、それくらいがちょうどよかった。
「これくらいがちょうどいいですね」
お父さんが湯気の立つカップを両手で包み込み、ほっとしたように息をつく。
「朝から重たいものは無理です」
「昨日はあんなに食べたのに?」
九重さんがパンをかじりながら不思議そうに眉を上げる。
「それとこれとは別ですよ」
お父さんが真顔で答えると、九重さんが吹き出した。
「別なんだ」
「別です」
「なにそれ」
九重さんは笑いながら肩を揺らし、俺もつられて笑いながらコーヒーを一口飲んだ。
少し苦い。でも、朝のひんやりとした空気の中で飲むと、その苦さが妙にうまく感じられる。湖を眺めながらゆっくり飲んでいると、普段よりも時間がゆっくり流れているような気がした。
「こういう朝もいいですね」
俺がそう呟くと、九重さんが嬉しそうにこちらを見る。
「でしょ? だからキャンプ好きなんだよね」
「昨日も聞いた気がする」
「何回言ってもいいじゃん」
「それも便利な言葉だな」
「もう」
九重さんが笑いながら俺の肩を軽く叩く。その様子を見ていたお母さんも、目を細めて楽しそうに笑っていた。
こうしてゆっくり朝飯を食べていると、今日が帰る日だということを忘れそうになる。
……まあ、忘れるわけにはいかないんだけどな。
テントもそのままだし、荷物もそのままだ。モーターホームだって帰る準備をしないといけない。楽しい時間は、何もしなければそのまま続いてくれるわけじゃない。
「では、そろそろ片付けましょうか」
お父さんがカップをテーブルへ置き、腰を上げながら声をかけると、九重さんの顔が途端に曇った。
「えー、もう?」
「何だよ」
九重さんは不満そうに唇を尖らせ、お父さんを見上げる。
「だって、もう帰るんでしょ?」
「帰る日だからな」
「分かってるけど……もうちょっとここにいたい」
そう言いながら、九重さんは名残惜しそうに湖へ視線を向けた。
「もう一回くらい湖見てたいな」
「片付けながら見ればいいだろ」
お父さんが苦笑しながら答えると、九重さんは一瞬だけ考えるように瞬きをしてから、すぐに顔を明るくした。
「あ、そっか」
「納得するの早いな」
「だって、それならいいじゃん」
お母さんが肩を揺らして笑う。
「あはは。そうね」
どうやら、九重さんにとっては「帰る」と「最後まで楽しむ」は両立するらしい。
◇
まずはテントを片付けることになったが、朝露のせいで表面が少し湿っていたため、すぐに畳むのではなく、しばらく広げて乾かすことになった。
「これ、濡れたまま畳んでいいの?」
九重さんがテントの布地を指先でつまみながら尋ねる。
「そのままだと乾かないからな」
お父さんがテントの状態を確認しながら答えた。
「少し広げておきましょう」
「なるほど」
九重さんが素直に頷き、俺も一緒に手を貸して、濡れたテントを日当たりのいい場所へ広げていく。朝の陽に当たると、布の表面に残っていた水分が少しずつ消えていった。
「昨日はあんなに暑かったのに、朝は涼しいね」
九重さんが自分の腕をさすりながら言う。
「昼になったらまた暑くなるでしょうね」
俺がそう答えると、九重さんは空を見上げて少し考えたあと、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、暑くなる前に帰りたいかも」
「そうですね」
俺も頷いた。
テントを乾かしている間に、周りの片付けも始める。椅子を畳み、テーブルを片付け、調理道具をまとめていくうちに、昨夜までそこにあったキャンプの痕跡が少しずつ消えていった。
「……なんか寂しいね」
九重さんが、片付いていくサイトを眺めながら小さく呟いた。
「まあ、二泊しましたからね」
「楽しかったし」
「そうですね」
俺も頷きながら、最後に火を使った場所を確認する。灰が残っていないか、食べ残しがないかを確かめて、ゴミもまとめ、使った場所を一通り見て回った。
「忘れ物ない?」
お母さんが周囲を見回しながら尋ねる。
「大丈夫です」
俺が答えると、お母さんは少しだけ眉を上げた。
「本当に?」
「……たぶん」
「ふふっ。たぶんじゃ困りますよ」
冗談めかして笑うお母さんに、俺も苦笑しながら頷く。
「すみません。じゃあ、もう一度確認します」
「そうしましょう」
そうしてモーターホームへ戻り、テント、椅子、テーブル、その他のキャンプ道具を一つずつ収納していく。昨日まで使っていたものが、次々と元の場所へ収まっていった。
「これで全部かな」
九重さんが周囲を見渡したところで、俺は足元に小さなものが落ちているのに気づいた。
「ちょっと待て」
拾い上げる。
「ペグ」
「あっ」
九重さんが目を丸くする。
「危なかった」
「だから、最後にもう一度確認した方がいいって言ったんですよ」
俺が苦笑すると、九重さんは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「ごめん」
そして拾い上げたペグを受け取ると、すぐに明るい笑顔へ戻った。
「でも、見つけたからセーフ!」
「まあ、そうですね」
俺が笑うと、少し離れたところで見ていたお父さんも苦笑する。
「最後に見つかってよかったですね」
「ほんとですね」
俺も頷きながら、もう一度サイト全体を見渡した。ゴミはないし、道具も残っていない。地面にも目立ったものはなく、これなら大丈夫そうだった。
「よし」
お父さんが満足そうに頷く。
「こんなところでしょう」
「じゃあ、出発?」
九重さんが期待するようにこちらを振り返る。
「はい。チェックアウトして帰りましょう」
お父さんが笑って答えた。
◇
管理棟でチェックアウトを済ませると、これで本当に終わりなのだという実感が少しだけ湧いてきた。モーターホームへ戻り、最後の荷物を積み終えると、それぞれが席につく。
「じゃあ、西湖ともお別れだね」
九重さんが窓の外を見ながら、少し寂しそうに呟く。
「また来ればいいですよ」
お父さんがそう言いながらエンジンをかける。
「うん。また来たい」
九重さんが小さく頷いた。
モーターホームがゆっくりと動き出すと、キャンプサイトが少しずつ遠ざかっていく。窓の外では木々が流れ、その向こうに湖が見え、さらに山が遠ざかっていった。昨日まで遊んでいた場所が、少しずつ後ろへ流れていくのを見ていると、旅が本当に終わろうとしているのだと実感する。
「楽しかったな」
九重さんが窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「そうですね」
俺も静かに返す。
「また来ようよ」
「今度はもう少しゆっくりできるといいですね」
「えー?」
九重さんが振り向き、少し頬を膨らませる。
「九重さんが遊びすぎなんですよ」
「だって楽しいんだから、しょうがないじゃん」
「あはは!」
お母さんが後ろから声を上げて笑う。
「でも、私もまた来たいわね」
そう言って、お母さんは窓の外を眺めながら懐かしそうに微笑んだ。
「俺もそう思います」
お父さんが前を向いたまま頷く。
「次はもう少し予定を減らしてもいいかもしれませんね」
「それはどうかな」
お母さんが楽しそうに笑う。
「また増えるんじゃない?」
「……ありそうですね」
お父さんが苦笑すると、車内にまた笑い声が広がった。
◇
帰り道は、行きほど騒がしくなかった。
昨日まであれだけ遊んだせいか、九重さんも途中から静かになり、しばらく窓の外を眺めていた。それでも、何かを思い出すたびに、ぽつぽつと話しかけてくる。
「そういえば、昨日のバギーさ」
「ああ」
「あれ、またやりたい」
俺が呆れたように笑うと、九重さんは楽しそうにこちらを見る。
「まだ言うのか」
「だって、すっごく面白かった」
「分かった分かった」
「ほんと?」
「考えとく」
「やった!」
九重さんが嬉しそうに両手を軽く握る。
……単純だな。
そう思いながらも、そんなやり取りをしている時間が少し楽しかった。
山の景色が減り、見慣れた道が増えてくるにつれて、旅先の空気も少しずつ遠ざかっていく。そしてしばらくすると、お父さんが前を向いたまま穏やかな声で告げた。
「そろそろ着きますよ」
「え?」
九重さんが顔を上げる。
「もう?」
「もうですよ」
お父さんが笑う。
モーターホームがゆっくりと停まると、窓の外には見慣れた景色が広がっていた。さっきまで遠かった日常が、いつの間にかすぐそこまで戻ってきている。
旅の終わりだ。
「……帰ってきた」
九重さんが小さく呟く。
「そうですね」
俺も頷く。
お父さんがエンジンを切ると、車内が静かになった。
「お疲れさまでした」
お母さんがこちらへ振り向き、穏やかな笑顔で声をかけてくる。
「お疲れさまでした」
九重さんも笑いながら応じる。
「お疲れさまでした」
俺も軽く頭を下げてから、そのままシートへ身体を預けた。
西湖で過ごした二泊三日は、SUPに自転車、バギー、キャンプ飯、焚き火、星空と、思い返してみれば本当にいろいろなことをしたし、そのどれもが楽しかった。それだけではなく、家族で同じ景色を見て、同じものを食べて、くだらないことで笑った時間そのものが、今回の旅では大きかったように思う。
「……楽しかったな」
俺がぽつりと呟くと、九重さんが隣で頷いた。
「うん」
今度は、誰も余計なことを言わなかった。
ただ、旅の疲れが少しだけ心地よく残っていて、その疲れすらも今回の思い出の一つになっているような気がした。
――でも、帰ったら宿題もまた溜まってるし、さっさと消化しないとな。
まあ、散々楽しんだんだ。これくらいは頑張ろう。
そう自分に言い聞かせながら、俺はゆっくりとシートから身体を起こした。
クリア。
8月5・6・7・8日:九重さんと山でキャンプ
予定
8月10日:文ちゃんの誕生日
8月のお盆:白檮山さんとコミケ1日目・2日目に参加
8月20日:中垣内とプールデート
8月23日:南木さんと水族館デート
8月26・27日:弥生ちゃんとTDR
7月末と8月末:東雲さんと宿題




