なかなかに日本の風情がある過ごし方ができたな
温泉を出たあと、俺たちは再びモーターホームへ戻った。
「ふぅ……」
九重さんが座席へ身体を預け、両手を上へ伸ばして大きく伸びをする。温泉で身体が温まったせいか、表情もすっかり緩んでいた。
「そんなに気持ちよかったのか?」
俺が横から顔を覗き込むように尋ねると、九重さんは目を細めたまま、こちらへ笑いかける。
「うん。昨日いっぱい動いたから、こういうの最高だよ」
「確かに、昨日はかなり動いたからな」
俺も座席へ背中を預けながら、自分の脚を軽く伸ばしてみる。温泉に入る前まで残っていた重さはかなり抜けていて、身体が少し軽くなった気がした。
「じゃあ、これで戻りますか?」
俺が前の席へ声をかけると、お父さんがバックミラー越しにこちらへ目を向け、少しだけ笑う。
「まだ帰るには少し早いですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。せっかくですから、もう一か所くらい寄ってみませんか?」
お父さんがそう言うと、隣のお母さんが案内を手に取って、俺たちへ振り返った。
「西湖いやしの里根場というところがあるの。かやぶき屋根の建物が並んでいて、昔の日本の風景を楽しめるそうよ」
「かやぶき屋根?」
九重さんが身体を起こし、興味を示すように首を傾げる。
「うん。昔の日本みたいな景色が見られるみたい」
「それ、行ってみたい!」
九重さんはほとんど間を置かずに答えた。
「決まるの早いな」
俺が苦笑すると、九重さんは胸を張り、当然だと言わんばかりに笑った。
「だって面白そうじゃん」
「まあ、俺も少し気になるな」
俺がそう答えると、お父さんが笑いながらエンジンをかけた。
「では、行きましょうか」
「お願いします」
俺も頷き、九重さんと顔を見合わせる。
「また寄り道だね」
「三日目なんだから、まだまだいいだろ」
「うん!」
九重さんが嬉しそうに頷いた。
◇
モーターホームは西湖の湖畔を進み、やがて目的地へ到着した。
「……おお」
車を降りた俺は、思わず足を止めた。
目の前には、山を背景にして、かやぶき屋根の建物が並んでいる。現代の住宅や店とはまったく違う景色なのに、周囲の山や木々によく馴染んでいて、本当に昔の日本へ迷い込んだような気分になった。
「わあ……!」
九重さんも目を丸くしながら、建物を見回している。
「本当に昔の町みたい!」
「雰囲気ありますね」
俺がそう言うと、お母さんが嬉しそうに微笑んだ。
「でしょう?」
かやぶき屋根の軒先を眺めながら、ゆっくりと道を歩いていく。ついさっきまでいた野鳥の森とは、まるで別の場所だった。森の中を歩いたときとは違って、建物や道そのものが昔の日本を感じさせるせいか、自然と歩く速度までゆっくりになっていく。
「なんか、落ち着くね」
九重さんが少し歩調を落とし、周囲を見回しながら呟いた。
「昨日まではずっと動き回ってたから、こういうところを歩くのもいいな」
「うん。昨日はSUPとか自転車とかバギーだったから、今日はのんびり系だね」
九重さんが楽しそうに俺を見る。
「三日目らしい感じがするな」
俺がそう答えると、九重さんは少し首を傾げてから笑った。
「何それ」
「旅の後半っぽいってこと」
「ああ、なるほど」
納得したように頷き、また前を向く。
敷地内にはかやぶき屋根の建物だけでなく、ギャラリーや土産物を扱う店、食事処などもあるようだった。案内を眺めていると、着物や甲冑の着付け体験ができることにも気づく。
「着物や甲冑の体験もできるみたいですよ」
俺が案内を指差すと、お母さんが隣から覗き込む。
「本当ね。武将や姫、殿様、忍者になれるみたい」
「甲冑?」
九重さんがぱっと振り向き、目を輝かせる。
「それ、ちょっとやってみたい!」
「九重さんなら似合いそうだな」
俺が笑うと、九重さんは嬉しそうに目を細めた。
「本当?」
「うん。姫でも武将でも、どっちでもいけそう」
「じゃあ両方!」
「欲張りだな」
「あはは!」
九重さんが楽しそうに笑う。
「今日は時間もあるけど、全部やってたら夕方になっちゃうわね」
お母さんが困ったように笑いながら言うと、九重さんは少し考えるように唇へ指を当てた。
「じゃあ、今日は見て回るだけにする」
「素直だな」
「だって、また来ればいいもん」
そう言って九重さんは、すぐに気持ちを切り替えて建物のほうへ歩き出した。
ギャラリーには作家の作品が並び、店には山梨の特産品らしい品々が並んでいる。陶芸やガラス細工、お香作り、ちりめん細工などの体験もできるようで、思っていたよりもずっといろいろな楽しみ方ができる場所らしい。
「こういうの、旅の思い出にはいいよね」
九重さんが店先に並んだ品を眺めながら、少し羨ましそうに言う。
「自分で作ったものなら、家に帰ってからも残るしな」
「そうそう」
九重さんが頷き、小さな置物を手に取って眺める。
「こういうの作ったら、旅行のこと思い出せそう」
「確かにな」
俺も品物を眺めながら頷いた。
「四日間って結構あると思ってたけど、こういうところまで見てたら足りないかも」
「まだ明日もあるだろ」
俺がそう言うと、九重さんは少し得意そうに笑った。
「じゃあ、明日は明日で楽しめばいいね」
「そうだな」
九重さんと並んで、かやぶき屋根の建物を眺めながら歩いていく。
昨日は湖の上で風を感じ、午後には自転車を漕ぎ、最後にはバギーで土埃だらけになった。夜は焚き火を囲みながら昔のキャンプの話をして、今日は朝から野鳥の森を歩き、温泉で身体を休めた。そして今は、昔の日本を思わせる風景の中を歩いている。
こうして振り返ってみると、同じ西湖周辺で過ごしているのに、毎回まったく違った時間を楽しんでいた。
「西湖って、思ってた以上にいろんな楽しみ方があるんだな」
俺が呟くと、お父さんが少し先で振り返り、穏やかに笑った。
「そうですね。最初は湖で遊ぶことばかり考えていましたが、こういうところもなかなかいいでしょう?」
「はい。正直、ここまでいろいろあるとは思っていませんでした」
俺が答えると、お母さんもかやぶき屋根を見上げながら頷く。
「自然だけじゃなくて、こういう昔の日本の雰囲気を楽しめるのもいいわね」
「そうですね」
九重さんも頷きながら、建物を見回す。
「私、こういうところ好きだな」
「さっきからずっと楽しそうだけどな」
「だって、本当に楽しいんだもん」
九重さんがこちらへ振り返り、少し照れたように笑う。
「次に来たときは、体験もやってみようよ」
「また来る気満々だな」
「もちろん!」
九重さんが胸を張る。
「そのときは甲冑でも着てみるか?」
「いいね!」
嬉しそうに答える九重さんを見て、お父さんが目を細めた。
「そのときは写真をたくさん撮らないとな」
「絶対撮って!」
九重さんが両手を広げるようにして答える。
「楽しみにしておきましょうか」
お母さんも微笑む。
俺も思わず笑った。
まだ三日目。
明日が帰る日ではあるけれど、今日という一日はまだ終わっていない。そう思うと、もう少しだけこの旅を楽しんでいたいという気持ちが自然と湧いてきた。
西湖から吹いてくる風が、かやぶき屋根の軒先を通り抜ける。その風に吹かれながら、俺たちはゆっくりとモーターホームへ戻っていった。
◇
モーターホームへ戻ったところで、お父さんが腕時計へ目を落とした。
「そろそろ夕方ですね」
「もうそんな時間なんですか?」
俺が驚いて時計を見ると、お母さんが頷きながら微笑んだ。
「時間が経つのって早いわね」
「本当だね」
九重さんもスマートフォンで時間を確認し、少し目を丸くする。
「じゃあ、夕飯どうする?」
「今日は少し早めに食べておいたほうがいいかもしれませんね」
俺がそう言うと、お父さんがこちらへ振り返った。
「実は、今日はもう一つ予定があります」
「まだあるんですか?」
俺が驚いて尋ねると、お父さんは少し楽しそうに笑う。
「今日は西湖竜宮祭の日なんですよ」
「竜宮祭?」
九重さんが身を乗り出し、興味津々といった表情で聞き返す。
「西湖で毎年行われる祭りで、夜には花火も上がるそうです」
お母さんが説明すると、九重さんの目が一気に輝いた。
「花火!」
「花火あるの?」
「ええ。せっかくですから、見てから戻ろうと思いまして」
「それ絶対見たい!」
九重さんが勢いよく俺を見る。
「見るよな?」
「そりゃ見るだろ」
俺が答えると、九重さんは嬉しそうに笑いながら両手を小さく握った。
「やった!」
「では、少し早めに食べてから行きましょうか」
お母さんが提案すると、俺たちはモーターホームで軽く食事を済ませてから、祭りへ向かう準備をすることにした。
◇
西湖竜宮祭の会場へ向かうころには、空はすでに夕暮れの色へ変わり始めていた。西湖の北岸へ近づくにつれて、人の姿も少しずつ増えていき、普段の湖畔とは違う賑やかな雰囲気が漂っている。
「結構、人いるな」
窓の外を見ながら俺が言うと、九重さんが嬉しそうに身を乗り出した。
「お祭りだもん」
「まあ、そうだけど」
「屋台あるかな?」
「あるんじゃない?」
お父さんが前を見たまま笑う。
「近くの広場にも出ているみたいですよ」
「じゃあ、行こう!」
モーターホームを止め、俺たちは祭りの雰囲気を味わいながら歩き始めた。
日が落ちるにつれて辺りの空気が少しずつ変わっていく。昼間の西湖はどこか静かだったが、今は人の話し声が重なり、遠くから祭りらしい音も聞こえてきて、歩いているだけでも気分が浮き立ってくる。
「こういうの、久しぶりだな」
俺が周囲を見回しながら言うと、お母さんが笑顔で頷いた。
「夏のお祭りって、独特の雰囲気がありますものね」
「確かに」
九重さんはすでに屋台のほうへ視線を向けている。その視線が一つの店へ止まったかと思うと、次の瞬間には嬉しそうに声を上げた。
「あっ、焼きそば!」
「もう見つけたのかよ」
「だって匂いするもん!」
九重さんが少し鼻を動かすようにして笑う。
「じゃあ、花火の前に少し見て回りましょうか」
お父さんが提案すると、九重さんは大きく頷いた。
屋台には焼きそばやかき氷などが並び、その中には西湖らしくヒメマスの塩焼きもあった。
「ヒメマスもあるんだ」
俺が足を止めて眺めると、お母さんも興味深そうに屋台を覗き込む。
「せっかくだから、食べてみる?」
「いいですね」
「私、かき氷!」
九重さんがすぐに手を挙げる。
「魚よりそっちか」
「だって暑いんだもん」
九重さんが少し頬を膨らませると、俺は思わず笑った。
「じゃあ、かき氷にするか」
「やった!」
嬉しそうに笑う九重さんを見ながら、俺たちも屋台をいくつか見て回った。
やがて空が完全に暗くなる。
「そろそろ花火かな」
お父さんが夜空を見上げながら言う。
「どこから上がるの?」
九重さんが尋ねると、お父さんが湖のほうを指差した。
「西湖の北岸の前浜からだそうですよ」
「じゃあ、あっち行こう!」
九重さんが俺の腕を軽く引く。
「分かった分かった。走るなよ」
「走ってないよ!」
そう言い返しながらも、九重さんは少しだけ歩く速度を上げている。
湖のほうへ向かうと、辺りには花火を待つ人たちが集まり、それぞれに夜空を見上げながら話をしていた。昼間とはすっかり違う景色になった西湖の水面も、周囲の明かりを受けてかすかに揺れている。
「なんか、わくわくするね」
九重さんが隣で小さく笑う。
「こういうのは久しぶりだな」
俺がそう答えた直後だった。
夜空へ、一筋の光が上がる。
「……!」
九重さんが息を呑み、反射的に俺の腕を掴んだ。
次の瞬間、大きな音とともに花火が夜空いっぱいに開く。
「わあ……!」
九重さんが顔を上げ、目を大きく見開く。
湖面にも花火の光が映り、暗かった水面が一瞬だけ鮮やかに照らし出された。続けて次の花火が上がり、赤や青、黄色の光が夜空へ広がっていく。
「すごい……」
お母さんが胸の前で手を組み、感嘆したように呟く。
「綺麗ですね」
俺も思わず見入る。
「見て!」
九重さんが嬉しそうに俺の肩を叩く。
「分かってるって」
「あはは! でも見て!」
「見てるよ」
俺が笑うと、九重さんも声を立てて笑った。
花火は次々に夜空へ咲いていく。そのたびに周囲から歓声が上がり、湖面へ映る光も形を変えていった。頭上だけでなく足元の水面まで明るくなるせいか、まるで西湖そのものが花火に照らされているようだった。
「こういうの、夏って感じするな」
俺が呟くと、お父さんが少し離れたところから頷いた。
「そうですね。やっぱり夏は花火を見ると、特別な感じがします」
「アメリカでも花火は見たけど、こういうお祭りと一緒なのは少し違うわね」
お母さんが花火を見上げながら、懐かしそうに微笑む。
「そうだね」
九重さんも頷き、しばらく空を見上げたあと、少し静かな声で続けた。
「なんか、日本に帰ってきたって感じする」
その言葉に、お父さんとお母さんが一瞬だけ顔を見合わせる。
「そうかもしれませんね」
お母さんが優しく笑う。
俺も空を見上げる。
今日は朝から野鳥の森を歩き、温泉で身体を休め、いやしの里で昔の日本の風景を見た。そして最後には、こうして湖畔の夏祭りで花火を見ている。
昨日の夜に見た焚き火とはまったく違う光だった。
それでも、家族と一緒に同じものを眺めているというところだけは、どこか似ている気がした。
「綺麗だね」
九重さんが、今度は少し静かな声で呟く。
「うん」
俺も頷いた。
九重さんはしばらく夜空を見上げていたが、やがて俺のほうへ顔を向け、少し嬉しそうに笑う。
「今日も来てよかったね」
「そうだな」
花火が再び夜空へ広がる。その光が九重さんの横顔を一瞬だけ照らし、嬉しそうに見上げる表情が浮かび上がった。
俺はその横顔を見ながら、三日目がまだ終わっていないことを少しだけ嬉しく思った。明日が帰る日だと分かっているからこそ、今夜の花火が妙に特別に感じられる。
やがて最後の花火が大きく夜空に開いた。
ひときわ大きな音が湖面へ響き、鮮やかな光がゆっくりと消えていく。
「終わっちゃった」
九重さんが少し残念そうに呟く。
「綺麗だったな」
俺がそう言って笑うと、九重さんも名残惜しそうに夜空を見上げてから頷いた。
「うん。また見たい」
「来年も来る気か?」
「もちろん!」
「気が早いな」
「あはは!」
お父さんとお母さんも、そんな九重さんを見ながら楽しそうに笑っている。
「では、そろそろ戻りましょうか」
お父さんが周囲を見回しながら声をかける。
「はい」
俺が答えると、九重さんも頷きながら、最後にもう一度だけ湖の上へ目を向けた。
「今日、すごく楽しかったね」
「そうね」
お母さんが嬉しそうに微笑む。
「明日はもう少しゆっくり過ごしましょう」
「うん!」
九重さんが元気よく返事をする。
俺たちは人の流れに沿って歩きながら、モーターホームへ戻っていった。
西湖の夜風が頬を撫でる。遠くでは、まだ祭りの明かりが揺れていた。
今日一日のことを思い返してみると、野鳥の森を歩いたことも、温泉へ入ったことも、いやしの里を歩いたことも、そして最後に見た花火も、どれも同じ一日の出来事とは思えないくらい違っていた。それでも、その一つ一つが少しずつ旅の思い出として積み重なっている。
「……三日目、すごかったな」
俺が呟くと、隣を歩いていた九重さんが笑った。
「明日もあるよ」
「そうだな」
九重さんは満足そうに頷き、また前を向く。
明日はいよいよ、旅の最終日だ。
そう思うと少し寂しい。
けれど、今はまだ帰らなくていい。今日の夜も、もう少しだけ残っている。
俺はそんなことを思いながら、西湖の夜道を九重さんたちと並んで歩いた。




