第三章 事件
運動部に放送機材を貸し出すこともある関係で、放送部は週末でもときどき活動することがあった。内海は野沢に対して常にやさしく敬意をもって接してくれたので、野沢も個人的に内海を尊敬するようになっていた。
ただ、仕事に対しては正確さを第一に求められたので、毎回が緊張の連続だった。内海との部活動自体はとても有意義なものだったが、やはりいきなり休みなしでの活動はこたえた。重くて繊細な放送機材を慎重に運び、他部の助っ人をするときは最後まで付き合い、そして片付ける。これらはかなり重労働で、おかげで思った以上に疲労がたまっていた。今度の週末は活動の予定はないので、野沢は土日が待ち遠しかった。金曜日に最後の片づけを終えて内海に「お疲れさま」と言われた時には、もうくたくただった。野沢は土日のほとんどを寝て過ごし、週末はあっという間に過ぎた。
週明け月曜日。今日もいつものように林原沙紀と肩を並べて学校へ向かって歩いていたが、疲れが取れきっていないせいで口数は普段より少なめだった。野沢は今週後半からの連休がもうすでに待ち遠しかった。もっとも、連休中の放送部の活動がどうなるのか野沢はまだ知らなかった。今日中に内海部長に聞いておかないと……。
ふと、いつもより静かなことに気づいた。なぜだろうと思い隣を見ると、驚いたことに今日は沙紀も伏し目がちで無口だった。原因はこれか。
「どうしたの?」
「えっ、な、何が?」
沙紀のごまかし方がいつぞやの自分とそっくりだったので、野沢は思わず笑ってしまった。
「いや、サキちゃんたら、なんか考え込んでたみたいだから」野沢は、特に気にしていないけど、という雰囲気で受け答えた。
沙紀が野沢のことを「ヒロくん」と呼ぶように、野沢のほうも沙紀を「サキちゃん」と呼んでいた。沙紀からは「いつまでも『ちゃん』づけで呼ぶんじゃないわよ」とたしなめられているが、これは変えようがなかった。野沢の中では沙紀は「林原さん」ではなく、いつまでたっても「サキちゃん」なのだ。それに、沙紀自身も口とは裏腹に悪い気はしていない様子だったので、野沢は呼称に変化をもたせる気はまったくなかった。
沙紀はしばらく思案していた。考えていることを言おうか言うまいか決めかねている時の表情は昔から変わらない。この物憂げな表情にこれまで何人の男が虜にされてきたことか……。しかし、沙紀は言い寄ってきた男子をすべて頑としてはねつけた。
「理想の彼氏が現れるまで、誰もそばに近寄らせない!」沙紀は中学の時、そう高らかに宣言した。野沢は沙紀の半径一メートル以内に三十秒以上とどまれる唯一の男子だった。事情を知らない周囲の者はうらやましがるが、これは単に、自分が幼なじみだからだろうと野沢は解釈している。この範囲にとどまれる男子。正確にはもう一人いるのだが、その人物が彼氏ではないことを野沢は知っている。
そのときふいに、沙紀が「ねぇ、ヒロくん……」と呼んだので、野沢は沙紀の顔を見た。沙紀にしては歯切れが悪い。やはり何か心配事を抱えている様子だった。
「部活でね、あたしと同じパートに青野先輩っていう人がいるの」
「クラブ」の幹部と思しき生徒の一人、青野仁に相違なかった。非常に痩身かつ長身の男子。吹奏楽部の副部長を務めており、成績は二年の中でもトップクラスなので、人間関係にうとい野沢でもその名前は聞いたことがあった。告白でもされたのかと思ったが、どうやらそういうムードではないらしいので野沢はただうなずくだけにした。沙紀は真剣に話しているときに茶化されると、とても不機嫌になる。
「一昨日ね、あたしたち二人だけ練習で最後まで残ってたの。青野先輩って優しくて、ずっと練習に付き合ってくれたから」
桜木高校は土日も祝祭日でも校舎が開放されている。運動部と違って文化部は多くが休みだが、用務員の熊倉さんが、個人の作品づくりや図書館で自習をしたい生徒のために好意で開けてくれているのだ。野沢はまたうなずいて先を促した。
「でね、六時半くらいに知らない女子の先輩が来て、青野先輩と一緒に出ていったの」
「それで?」
野沢には沙紀が何を心配しているのかわからなかった。学校の秘密組織の幹部なら、沙紀の知らない先輩と付き合いがあっても不思議なことではない。もっとも、沙紀が「金曜クラブ」の存在を知っているかどうか定かではないが。
「あたし、ずっと待ってたの。でも先輩、七時半を過ぎても帰ってこなかった」
「それからどうしたの?」
「『先に帰ります』ってメモだけ残して、その日は帰ったの。でも、昨日の昼過ぎにまた練習に来たら、メモも楽器もそのままだった……」
野沢は眉をひそめた。信号が赤だったので、横断歩道の前で二人は立ち止った。
「つまり、呼び出されてから帰ってきてないってこと?」野沢は問いかけたが、信号が青になるのを待つ間、沙紀は何も言わなかった。
青になった。再び歩き出しながら、ようやく沙紀が口を開いた。
「そうよね……」沙紀は両手をもじもじさせた。「ほかの先輩に聞いても知らないって言うし、あたし、どうしたらいいか、わからなくなって……」
こんなに取り乱した様子で話す沙紀は見たことがなかった。野沢はもう少し聞きたかったが、学校に着いてしまった。今日はいつになく生徒が校舎の中を慌ただしく行き交っているようだった。沙紀はふいに「あ、朝練……」とつぶやき、野沢には目もくれず一目散に駆けて行った。
野沢が沙紀の後姿を目で追っていると、沙紀は校舎の入り口で立ち止った。一瞬硬直し、振り向いて、引きつった顔で野沢を猛烈に手招きした。わけが分からないまま、野沢は走って沙紀に追いついた。そこには沙紀だけでなく、ほかにも何人か女子がいた。
沙紀は校舎の壁を凝視していた。目を見開いていたが、わけがわからないという困惑の表情にも見えた。野沢にも沙紀が何を見ているのか分かった。
それは壁ではなく、ポスターだった。しかし、掲示委員会が作った可愛らしい挿絵の入った啓発ポスターなどではなく、とげとげしい黒い字が並んでいるだけだった。廊下の壁という壁に同じものが何十枚も貼られている。内容を読み進めていくうちに、次々と信じがたい言葉が目に飛び込んできて、野沢は言葉を失った。
「我々は内海憲隆を告発する」
明らかに不穏な書き出しを見て眉を八文字にしながら、野沢は文章を斜め読みした。
「内海憲隆の公式な肩書は『放送部・部長』である。一部活動の代表者に過ぎない生徒が、民主的な手続きにのっとって選出された生徒会の正当な代表権を無視し、個人が非公式に不可思議な影響力を行使している。その結果、生徒会予算が必要な部に行きわたらず、実績に不相応な扱いを受けるという不平等の淵源となっている。さらに、予算の一部が不透明な用途で使用されており、私的な流用の疑いがあるのは明白である。可及的速やかに詳細な調査を執り行う必要があり、職員会議の厳正な対応を求めるものである」
文書の最後は署名の代わりに「(9)」となっていた。
そんなバカな。野沢の知っているあの優しい内海とは、あまりにそぐわない言葉が並んでいる。しかし一方で、野沢の中の悪意の部分が痛烈に指摘した。自分が一体どれほど内海のことを知っているというのか。部活でたった一週間顔を合わせただけの関係ではないか。内海の裏の顔、彼の率いる「金曜クラブ」が実際にどんなことをしているのか、野沢は何も知らないのだ……。
呆然と立ち尽くす野沢の耳に、詮索好きな周囲の女の子たちの囁きが奇妙に拡大されて聞こえてきた。
「『内海』って誰よ?」
「エー‼ あんた知らないの?」
「何が?」
「『内海』っていったら、うちの学校を裏で仕切ってるっていう」
「あ、それ聞いたことある!」
「え? あ、あの放送部の?」
「ヒロくん」
「じゃ、これ何?」
「わかんないの? 鈍いんだから」
「なによ、その言い方」
「きっと横領ってやつよ。生徒会費の」
「裏で相当悪いことしてるって、前に聞いたことあるー」
「エー‼ マジ? 信じらんない!」
「あんたさっきから声がでかいわよ!」
「ねぇ、ヒロくんってば!」
沙紀に袖を引っ張られながら呼ばれて、野沢は我に返った。野沢が振り向くと、沙紀の顔はかなり焦っていた。
「とにかく、教室に行きましょう」
「えっ、朝練は?」
「そんなことやってる場合じゃないわ。見たでしょ、このポスター」
沙紀は普段の冷静さを取り戻していた。教室に向かって一緒に階段を駆け上がりながら、沙紀が早口で野沢に言った。
「中身が本当か嘘かなんて関係ない。こんなことをしたら、生徒も先生も、学校中がパニックになる。やった人はそれを見越してる。全部、計画的なのよ。でも何のために?」沙紀は野沢にというより自分自身に問いかけていた。
今朝は全校朝礼がある予定だったので、野沢は教室に荷物を置いたあと放送室に行くことになっていた。教室に入ってみると、いつもなら男女がそれぞれ数人ごとのグループに別れてかしましくおしゃべりをしているのに、今日は男女が入り混じって互いに額を寄せ合い、異常に緊張した会話が飛び交っていた。見たところ同じ部活の仲間同士で話し合っている。沙紀が吹奏楽部の友達のところへ駆け寄って行ったので、野沢はとりあえずカバンを置いて、放送室へ向かうことにした。
放送室へ向かう途中の廊下には、いたるところにさっきと同じポスターが貼られていた。いったい誰がやったのか。歩きながら野沢は考え込んだ。沙紀は昨日も部活の自主練に来たと言っていた。それなのに、あれほど驚いていたということは、犯人は昨日の夜、生徒も教職員も全員が帰ってから、用務員の熊倉さんにも気づかれずに学校に侵入したということになる。しかし、それにしてはポスターの枚数が多すぎるような気もする。複数犯だろうか。文書の最後の「(9)」も気になる……。
放送室の前に着いた。引き戸の前に靴が一足あった。内海はもう来ている。つまり、すでにポスターを見ている。野沢は戸を開けた。
「おはようございます」
すぐに返事はなかった。内海は奥の部屋の窓から外を見ていた。野沢が入って行くと、内海が振り向いた。
「おはよ」
内海の声は沈んではいたが、それほどショックを受けた様子ではなさそうだった。
「朝から騒がしいね、まったく」内海はまた窓の外へ目を向けながら、疲れたようにため息をついた。
その騒ぎの原因はあなたですが、と野沢は心の声で突っ込んだが、内海の声に覇気がなかったので少し心配になった。
野沢がどう声をかけたものやらと悩んでいるうちに、入り口の戸が開いた。
「内海くん、野沢くん」
野沢が振り返ると、戸口にはまぶしいほどの美人が立っていた。放送部の顧問で物理の教師、増山麻里子先生だった。彼女は桜木高校の女性教師陣の中でダントツの美人だ。決して着飾っているわけではなく、化粧も最小限で、「本当はスッピンでいたいの。面倒くさいから」とよく言っている。許しがたいほど色香があって、廊下を歩くたびに無意識にフェロモンをまき散らしている。通称「黒髪のマリリン」。性格はおっとりしていて、ものぐさで、自分が美人であるという自覚が全くないらしい。野沢は内海のお遣いで何度か書類や資料を届けに行ったが、会うたびにその美しさにびっくりしてしまう。部活のことは内海に任せきりなので、放送室で先生の姿を見ることはなかった。それだけに、何かただならぬ事態になっていることが野沢にもわかった。
「今日の全校朝礼だけど、緊急の職員会議が開かれることになって、中止になったわ。今朝の件で……」
内海は特に驚いた様子も見せず、ただうなずいた。
「あれのこと、気にしてる?」先生が聞いた。
先生の言った「あれ」が「廊下に貼りまくられた告発ポスター」を意味することは野沢にもわかったが、内海はただ「いえ、別に」と答えた。先生は一瞬、色っぽい流し目で内海を見たが、「じゃあね」とだけ言って戸を閉め、職員室へ戻って行った。
増山先生が遠ざかって行ってから、「教室に戻ろうか」と内海がポツリと言った。二人して放送室を出ながら、内海がつぶやいた。
「あれを信じる生徒が何人いるか……」内海と野沢はそれぞれに自分の靴を履き、戸を閉めた。「そしてこれから、どう動くか……」
野沢は前を歩く内海の背中をじっと見つめた。




