第15話
夜の学園は、昼間の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
講堂での婚約破棄から数時間。
私はセディリオとともに、ひっそりと学園を離れようとしていた。
見慣れた門を背に歩く足取りは、決意に満ちているはずなのに、どこか心細かった。
そんな私たちの前に、静かに姿を現した人がいた。
セディリオの元婚約者で公爵令嬢のフィアナ様。
夜風に揺れる銀の髪。月光をまとったような白い肌。
その姿はまるで、物語の中の貴婦人のようで――息を呑むほど美しかった。
「……来てくださったんですね」
私の言葉に、彼女は微笑むでもなく、ただ静かに頷いた。
「学園を去るあなたたちに、最後の挨拶をと思いまして」
その瞳は、静かで、揺るぎがなかった。
彼女の中で、すでに決意はできていたのだと分かった。
「フィアナ様は……どうされるのですか?」
恐る恐る問いかけると、彼女はわずかに目を伏せ、そしてまっすぐに私を見返して言った。
「わたくしには、まだ貴族としての責務があります。
この混乱の後始末も、その一つ。――それを全うするつもりです」
どこまでも気高く、どこまでも誠実な声だった。
その一言で、胸がぎゅっと締めつけられる。
こんなにも美しく、強い人が――なぜ私のために、ここまでしてくれるのだろう。
「それと……最後に、伝えたいことがあって」
彼女は静かに一歩近づいてきた。
その目に、初めてわずかな揺れが見えた気がした。
「わたくし、ルミーナ・エルファリア。――あなたのことが、好きでした」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
でも、それが恋の告白だと気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「返事はいりません。知ってもらえただけで、充分です」
彼女の声が震えていた。
それでも顔を背けず、私を見つめていた。
「……最後に。これであなたを忘れられるように――キスを、してもよろしいでしょうか?」
私は一瞬戸惑いながらも、目を閉じた。
頷いたのは、本能のようなものだった。
唇に触れたのは、やわらかく、そして淡い感触。
けれど確かに、心に焼きつく温度があった。
それは別れのキスであり、感謝のキスであり、
たった一度きりの、彼女だけの特別だった。
「……フィアナ様だから、できました。これが私の、初めてのキスです」
そう告げると、フィアナはほんの少しだけ、笑った。
「……それは、少し嬉しいですね」
彼女を、ぎゅっと抱きしめた。
あたたかくて、優しくて――でも、もう届かない想い。
「ありがとう、フィアナ様。あなたが味方でいてくれて、本当に、心強かった」
言葉にできる精一杯の想いを込めて、私は彼女の背を撫でた。
振り返った時、セディリオは黙って私たちを見つめていた。
その瞳に宿るわずかな陰り。
彼の嫉妬を、私は知っていた。でも、彼は一言も言わなかった。
そして私たちは、夜の街へと歩き出す。
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翌朝、田舎へと向かう列車の中。
私たちは向かい合って座っていた。
「そういえば……ちゃんと言ったことなかったですよね」
私がぽつりとつぶやくと、セディリオがこちらを見た。
「言わなきゃ、だめかな?」
「……はい」
わたしが頬を染めて視線をそらすと、彼は小さく笑って言った。
「ルミーナ。――俺は君が、好きだよ」
胸がどくんと高鳴る。
こんなにもまっすぐに、優しい声で。
「私も、です。……あなたが、好きです」
列車の窓から朝の光が差し込み、
その光の中で、私たちはお互いの手をそっと重ねた。
――新しい日々が、ここから始まる。
完