イタリア戦争
史実朝鮮戦争に相当します。
『1947年の大東亜共栄圏設立以降、大日本帝国は高度経済成長の波に乗り、目覚ましい発展を続けていた。1948年から1950年にかけてのGDP成長率は平均20%を超え、造船・自動車・航空・電子産業が世界をリードする一方で、東京をはじめとする主要都市は近代的な高層ビル群で埋め尽くされ、国民生活は戦前を遥かに上回る豊かさを享受していた。
一方ヨーロッパ共同体(EC)は、フランス共和国とオランダ王国を中心に占領地域の統合を進め、国内復興を加速させていた。しかし復興の速度は帝国に及ばず、失われた植民地と資源の不足が深刻な課題となっていた。そこでEC首脳部は、ヨーロッパ統合の次の標的として近隣のイタリア王国に目を付けた。
イタリア王国は第二次世界大戦後、大日本帝国の強い影響下にありながらも、国内に深刻な南北対立を抱えていた。北部工業地帯は共和主義・親欧州的な思想が強く、南部農業地帯は伝統的な王党派・保守勢力が優勢であった。この地域差は大日本帝国の影響力により王政維持の形で抑え込んでいたに過ぎなかった。
1950年3月、ECは極秘裏に大規模な諜報工作と資金援助を開始した。フランスを中心とする工作員が北部に潜入し、共和主義者・旧植民地軍残党・親欧州資本家らを糾合。1950年5月15日、北部主要都市(ミラノ、トリノ、ジェノヴァなど)で武装蜂起が発生した。彼らは即座に[イタリア共和国]の樹立を宣言したのである。
これに対し、イタリア王国政府は国家分裂の危機に直面した。王党派・親帝國勢力が優勢な南部を中心に動員をかけ、[国家統一と王政防衛]を掲げて即時対応を決定した。ヴィットーリオ・エマヌーレ3世国王は緊急電報で大日本帝国政府に支援を要請した。
大日本帝国の反応は迅速であった。当時イタリア王国に駐留していた大日本帝国軍は、ベネベント周辺に陸軍1個方面軍を、シチリア島に空軍10個航空群を、ガエータ軍港に海軍連合艦隊1個機動艦隊を展開していた。これらの部隊は即座に国防省統合幕僚作戦司令本部の命令を受け、北進を開始した。
さらに帝国本土では、陸海空三軍の緊急増援を決定。海軍は機動艦隊の地中海派遣、空軍は戦略爆撃機富嶽改の出撃準備、陸軍は師団の動員体制がそれぞれ急ピッチで進められた。
しかし大日本帝国は慎重な姿勢も崩さなかった。大東亜共栄圏集団安全保障条約の正式適用は回避し、ECとの全面戦争に発展することを避けたのである。代わりに共栄圏各国に対し[義勇軍]の派遣を要請した。この要請に応じ、中華民国、タイ王国、フィリピン共和国、インドネシア共和国などから陸軍機械化部隊、航空隊、義勇兵が続々とイタリア半島へ向かった。
西側の対応も素早かった。ヨーロッパ共同体は[イタリア共和国(大日本帝国以下大東亜共栄圏は単に北イタリアと呼称)]を正式に承認し、正規軍を[義勇軍]名目で大量投入した。地上部隊・航空戦力を北イタリアに展開。アメリカ合衆国も航空支援と巨額の資金援助を行い、西側全体の威信をかけた支援体制を構築した。
こうして1950年6月、イタリア戦争が勃発した。これは単なる内戦ではなく、東西冷戦下における初の本格的代理戦争となった。イタリア半島という地中海の要衝を舞台に、立憲君主制を守る東側諸国と、共和主義・西洋統合を推し進める西側諸国が激突したのである。
表向きは[イタリア人の内政問題]として限定されるかに見えたこの戦争は、しかし瞬く間に冷戦の緊張を世界規模で高めていった。帝國連合艦隊の地中海進出、富嶽改の長距離戦略爆撃、義勇軍の国際的参加——これらは全て、後の世界最終戦争への序曲となるものであった。
歴史家の中には「イタリア内戦こそが、真の意味での冷戦の始まりであった」と評する者も少なくない。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




