↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
続・帝國連合艦隊〜世界最終戦争〜  作者: 007


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/51

冷戦終結

『1985年3月10日、フランソワミッテランがヨーロッパ共同体指導者となった。ヨーロッパ共同体の傾斜分配型資本主義経済は非効率的で貧富の格差は尋常ではなく、官僚組織は汚職が蔓延し、金融市場経済崇拝とも言える資本比率の悪さは商品の不足と低品質な商品の氾濫を招き、ヨーロッパ共同体は瀕死の状態だった。

ミッテランが就任時のヨーロッパ共同体経済は、経済成長率は1%以下で、国家予算の40%、あるいはGDPの15〜20%を国防関係に費やしていた。1973年から1985年までのヨーロッパ共同体は、外貨獲得を資源輸出、つまり石油に大きく依存していた。

だが1981年に大日本帝国が石油の大幅増産に踏み切ったため、石油価格が1986年までには最高値から半分以下に下落し、ヨーロッパ共同体経済は打撃を受けていた。西側諸国への天然ガス輸出も行っていたが、1985年までに西側諸国の天然ガス需要の3%未満しか供給できておらず、稼ぎ頭とは言えなかった。


ヨーロッパ共同体の窮状に対して、大日本帝国はその広大な領土と領海そして排他的経済水域に、膨大な資源を有していた。まずはレナ川以東のシベリア府である。大規模な油田とガス田が点在しており、石油と天然ガスが採掘されていた。

樺太周辺とオホーツク海にも油田とガス田が存在しており、石油と天然ガスが採掘されていた。

そして1980年の海底調査により尖閣諸島沖に有望な油田とガス田が発見されており、採掘が開始されていた。

そして日本列島周辺には海底調査によって領海・排他的経済水域の海底には金、銀、銅、亜鉛、鉛、石油、コバルト・リッチ・クラスト、メタンハイドレートなどの豊富なエネルギー資源や鉱物資源の存在が確認され、それら全ての採掘が開始されていた。通商産業省と科学技術宇宙省の共同で海底資源採掘の為の、予算がかつての[かぐや計画]に匹敵する額が与えられ強力に海底資源採掘が推進されていた。



大日本帝国以下大東亜共栄圏・東側諸国に対して、ヨーロッパ共同体以下西側諸国は資源的に劣勢だった。ヨーロッパ共同体は北海油田を開発し原油と天然ガスを採掘し、国内炭田を開発していた。

アメリカ合衆国も油田とガス田を開発していたが、両国共に万全とは言えなかった。その為に中南米やアフリカからの調達を強化するが、量と安定性で劣っていた。そんな中でヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国は、第三世界諸国である中南米の産油国から石油を輸入するか、産油国以外の中南米やアフリカ諸国を経由して、中東の産油国からの輸入を行っていた。方法は中南米やアフリカ諸国が中東の産油国から輸入を行いそこからヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国に転売を行っていたのである。

大日本帝国は帝国情報保安局の諜報活動により転売を把握していたが、あえて見逃す事にしていた。敵に塩を送る行為であるが民需として原油は必要不可欠であり、絶滅戦争を行う気が無い大日本帝国はある程度は見逃す事にしていた。だがそれが大日本帝国にとって[石油危機]として痛手を与える事になった。




時期は冷戦末期の1986年だった。中東諸国が原油公示価格を7割も引き上げ、原油生産の段階的削減も同時に発表したのである。これにより原油先物市場の東京商品取引所での原油価格は、大幅な急騰を見せた。しかも中東諸国は大東亜共栄圏加盟国内の、無資源国に対して禁輸まで行うと発表したのである。禁輸解除には原油価格の3倍にして買い取る事を条件にしたのだ。世にいう[石油危機]が勃発した瞬間だった。

大日本帝国はまさかの大東亜共栄圏内部からの一種の反乱に、驚きを隠せなかった。何せ盤石だと思われていた大東亜共栄圏に亀裂が入ったのだ。中曽根康弘総理は前総理の田中角栄を訪ねて、総理特使として中東諸国に説得に向かってくれるように頼んだ。国内経済の打撃を考慮し田中角栄前総理は、総理特使として派遣される事を了承した。

そして中東諸国に派遣された田中角栄総理特使は、持ち前の話術で動機を引き出した。石油危機勃発の動機は中東諸国が利益を求めた事にあったのである。国内開発資金の不足と、一部の国が西側にも売った方が儲かると判断した事にあったからだ。

これに対して大日本帝国は中曽根康弘総理の下に対策を急いだ。何せ石油危機勃発により短期的には大打撃を受けたのである。しかしシベリア府と樺太沖・尖閣沖の油田やガス田、[国家戦略備蓄]を開放し総動員して急場を凌ぐ事にした。禁輸対象とされた大東亜共栄圏加盟国にも、緊急援助として石油が輸出された。

これにより大日本帝国国内での石油価格暴騰は沈静化されたのである。だが石油危機は結果として[資源にも限界がある]と大日本帝国に突き付ける事になった。何せ無尽蔵に使い放題だと思われた資源が、突然暴騰し大打撃を与えたのだ。何と言っても先進国の経済が石油に極端に依存していることが明らかとなった

その為に原油の輸出が停滞すると、国内では電力不足になり、電力を節約するため、大都市の街灯・店舗の電光掲示板・帝都電波塔の消灯、エスカレーターやエレベーターの休止、高速道路での抑速運転、冷暖房の温度調節、テレビ放送の深夜番組の中止などが実施された。

これによりシベリア府での油田・ガス田の更なる積極的な開発が促進された。また原子力や風力、太陽光など非石油資源の活用の模索、省資源技術の研究開発への促進の契機ともなりこれにより中曽根康弘総理は[省資源・代替資源]を国家計画として強力に推進する事を表明したのである。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道を始めとする公共交通機関を再評価する動きが出たことから、貨物輸送では大規模に鉄道を利用する事が進められた。

これ以後大日本帝国の各社は省資源技術が爆発的に開発される事になり、後に軌道基地きぼうの太陽光発電盤技術を更に推進し発展改良型として、太陽光発電衛星を実用化する事になったのである。



大日本帝国国内での石油危機終息を受け、田中角栄総理特使は中東諸国に西側諸国への直接的な石油売買を提案した。中東諸国は大日本帝国からの意外な提案に驚いた。だが田中角栄総理特使は、今回の石油危機は我々に原因があったとして謝罪したのだ。その中で大東亜共栄圏の結束を乱すのは避けなければならないとして、早期の禁輸の解除と輸出の正常化を求めたのだ。田中角栄総理特使の提案を中東諸国は受け入れ、これにより石油危機は世界的に終息したのである。

石油危機終息したが大東亜共栄圏内の亀裂は残ってしまった。何と言っても[中東が自分たちの利益を優先した]事が、他の大東亜共栄圏加盟国の不信を招いた。


この石油危機は大日本帝国と大東亜共栄圏加盟国そして東側諸国に大打撃を与えたが、当然ながらヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国以下西側諸国にも大打撃を与えた。

何と言っても石油危機による原油価格の異常な暴騰は、弱っていた西側諸国経済に致命傷を与えたのである。大日本帝国の方針により中東諸国から石油を輸入出来るようになったが、ただでさえ軍備拡張競争で財政を圧迫させておりそこに石油危機であり、ヨーロッパ共同体には中央アフリカ共和国侵攻の戦費も負担になっている時期での事態だった。これがヨーロッパ共同体崩壊の一因になる事になったのである。


ミッテランが政権の座に就いて1年が経過してから勃発した石油危機は、ヨーロッパ共同体経済は致命傷を受けていた。その為にミッテランは経済立て直しのために、1986年後半にリストラクチャ(再構築)とディスクロージャー(情報公開)を掲げた。

そしてミッテランは膨れ上がった戦費を削減する為に、中央アフリカ共和国からの撤退を決定しこれは1987年2月に完了した。経済にも一定の金融市場経済至上主義を抑制し、傾斜分配型市場経済から公平分配型市場経済制度を導入した。

更にミッテランは新思考外交を打ち出し、核兵器の大幅削減など全人類的な利益を主義思想よりも優先し、東側諸国との関係改善を謳った。


そうしてミッテランは、中曽根康弘総理とも会談を行い、1987年1月にサンパウロにて会談を行った。ミッテランは戦略兵器の半減削減を提案し、戦略防衛構想の放棄を求めた。中曽根康弘総理は戦略兵器の削減については同意するが、戦略防衛構想の放棄は頑なに拒否した。このサンパウロ首脳会談は成果を上げることは無かったが、中曽根康弘総理とミッテランの個人間の関係としては良好な関係を築いた。このサンパウロ首脳会談後も、両者は書簡のやり取りを幾度も行い、軍縮を議論するようになった。ミッテランは東側諸国首脳と積極的に会談を行った。特に中華民国国家主席鄧小平とは親密な関係になっていた。


大日本帝国は中曽根康弘総理の下に強力な軍備拡張競争をヨーロッパ共同体に仕掛けていたが、ある種落とし所を探っていた。帝国情報保安局の諜報活動に於いても、ヨーロッパ共同体の弱体化は手に取るように分かっていた。だからこそ石油危機への対策として西側諸国への石油輸出を許可したのである。もはや対抗相手になり得ないと、大日本帝国は判断していた。

浜田幸一科学技術宇宙大臣に至ってはテレビ番組で、「西側諸国は軍事パレードが上手いだけ」と吐き捨てていた。それはある種的を得た発言であり、国内世論も支持した。そしてそれを裏付けるようにヨーロッパ共同体は不毛な泥沼の介入を続けていた中央アフリカ共和国から、這々の体で逃げ出したのである。

アメリカ合衆国に協力を要請し空軍輸送機を大挙動員して中央アフリカ共和国から撤退するヨーロッパ共同体陸軍は、大日本帝国空軍の偵察衛星により全てが生中継で見られていた。そして大日本帝国は中曽根康弘総理による大規模軍備増強計画である[20個空母打撃群構想]を達成し、海軍連合艦隊は尋常では無い規模に拡大し陸軍と空軍も強力な布陣を誇った。


そして1991年10月25日に中曽根康弘総理が旭日尊皇党の総裁任期満了を迎えるに辺り、1991年10月20日総裁選が実施された。中曽根康弘総理は1期3年で連続3期まで可能な旭日尊皇党総裁を3期務め上げたが、前任の田中角栄総理とは違い後継指名はしなかった。それは2代続けての後継指名では、民主主義は守れないという中曽根康弘総理の考えによるものだった。

こうして旭日尊皇党総裁選には、石原慎太郎国防大臣と安倍晋太郎外務大臣が立候補し白熱した総裁選の結果、石原慎太郎国防大臣が旭日尊皇党総裁に当選した。こうして1991年10月25日に中曽根康弘内閣は総辞職し、同日の帝国議会に於ける首班指名選挙で石原慎太郎旭日尊皇党総裁が選出され、大日本帝国内閣総理大臣に就任した。

中曽根康弘前総理と同じくタカ派の内閣総理大臣となり、世界は大日本帝国の強硬姿勢が続くと判断した。それは正しく石原慎太郎総理はヨーロッパ共同体との関係改善には慎重であり、ミッテラン外交の真意を測りかねていた。

ミッテランの融和的な外交は、ヨーロッパ共同体再興に向けた時間稼ぎではないか、ヨーロッパ共同体指導部内が不和により、ミッテランが失脚させられ元のヨーロッパ共同体外交に戻るのではないかと考えていたのである。とはいえ石原慎太郎総理は作家として大量の著作もあり、広い視野を持った政治家でもあった。


そして1991年12月2日から3日にかけて、大日本帝国ハワイ県沖の客船で歴史上[ハワイ会談]と呼ばれる首脳会談が開催され、大日本帝国石原慎太郎内閣総理大臣とヨーロッパ共同体最高会議議長フランソワミッテランによる首脳会談で、第二次世界大戦終結後に始まった東西冷戦の終結を宣言した。政府与党旭日尊皇党内では当初からハワイ会談は時期尚早として反対していたが、大東亜共栄圏加盟国首脳及び帝国議会はミッテランとの対談を説得したのである。

ハワイ会談では特に何の合意もなされなかった。主な目的は大日本帝国とヨーロッパ共同体が核兵器を突き付け合い世界に終末を齎す事を止める事における喫緊の変更点について会談を持つことにあり、これをして冷戦の公式な終結と見られた。局所的に見れば冷戦時代の終結に保証を与えるために緊張を緩和し、東西関係というものに大きな変化を与えた。会談を通じて石原慎太郎総理はリストラクチャにおけるミッテランの指導およびその他の改革を支持した。


共同声明に当たって、ミッテランは次のように述べた。

「世界は一つの時代を克服し、新たな時代へ向かっている。我々は長く、平和に満ちた時代を歩き始めた。武力の脅威、不信、心理的・主義思想的な闘争は、もはや過去のものになった。

私は大日本帝国内閣総理大臣に対して、大日本帝国と戦端を開くことはもはやないと保証する。」


石原慎太郎総理はこれに対し、

「我々は永続的な平和と、東西関係が持続的な共同関係になることを実現することができる。これはハワイで、ミッテラン議長と私がまさに始めようとする未来の姿だ。」

と述べた。


こうして50年近くに渡り繰り広げられてきた東西冷戦は、呆気なく終わりを迎えたのである。世界は呆気ない幕引きに最初は戸惑い驚いたが、直ぐに歓声に変わった。何せこれで人類滅亡の恐怖は完全に去ったのだ。世界各地で様々な冷戦終結を祝う催し物が開催されたのである。




だが平和は長くは続かなかった。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。