高度経済成長期突入
『1945年、大日本帝国は戦後復興の第一歩を力強く踏み出した。山本五十六総理大臣兼海軍大臣が戦時中に強行した一連の[帝国改革法案]――農業の法人化、財閥のグループ体制への移行、累進課税の強化、労働基準法・最低賃金法の制定、国民皆保険・皆年金の導入——が、ここで真価を発揮した。
大規模軍縮により削減された軍事予算は、即座に民需拡大へと振り向けられた。横須賀、呉、佐世保をはじめとする主要軍港の多くが商船建造ドックへと転換され、1945年だけで民間造船の生産量は戦前比で約3.8倍に急増した。軍需企業各社は戦争終結により民生品生産を拡大させ、旅客機やタンカーの生産が大々的に開始された。それには復員した軍人達がこれらの企業に大量に吸収され、民間イノベーションの原動力となった。
1945年後半には早くも戦後復興ブームが顕在化し、帝国の国内総生産(GDP)は前年比で約18%の成長を記録した。これは単なる復興ではなく、戦時改革で培われた生産性向上と、資源安定供給がもたらした成果であった。東南アジア諸国からの石油・ゴム・鉄鉱石の輸入が急増し、円を基軸通貨とする貿易決済システムが着実に機能し始めた。
1946年に入ると、成長はさらに加速した。政府が打ち出した[大東亜共同復興計画]の本格始動により、大日本帝国と新独立国群との経済連携が深化。インドネシア、ベトナム、ビルマ、フィリピンなど東南アジア諸国は独立後も帝国との[特別経済協定]を締結し、資源供給を優先的に行う代わりに、技術援助・資本投資・インフラ整備を受け入れた。そしてこの年大日本帝国のGDP成長率は23.4%という驚異的な数字を叩き出した。これにより造船業は世界シェアを一気に55%まで拡大させた。
大日本帝国政府が重要産業に指定した自動車産業はトヨタ自動車を筆頭に本田技研工業と日産自動車の三強が国産乗用車[国民車計画]を推進し、国内普及率が急上昇していた。
世界最先端をいく航空産業は事実上大日本帝国の独占状態であり、第二次世界大戦中に世界初のジェット戦闘機を実用化した事から、早くもジェット旅客機の生産が開始されていた。海軍航空隊や陸軍航空隊の爆撃機を民生品として転用し、ジェットエンジンを搭載してジェット旅客機として生産されていた。中でもずば抜けた存在が中島飛行機が第二次世界大戦中に実用化した戦略爆撃機富嶽の民生品転用による、ジェット旅客機富士であった。世界最大の戦略爆撃機のジェット旅客機への転用は、国際路線の就航と輸送人員の劇的な増加をもたらした。何せ基礎となった戦略爆撃機富嶽の機体が全長50メートル、全幅75メートル、速度730キロを誇る超大型機だった。
それがジェット旅客機に改造され速度920キロで輸送人員300人を誇る、超大型機旅客機となったのだ。しかも戦略爆撃機富嶽の航続距離をそのまま活かしており、大日本帝国本土からハワイ諸島や中東への長距離飛行が可能だった。その長距離飛行範囲は大日本帝国の強力な影響力にある国々ばかりである為に、一気に海外旅行が一般化する事になった。
そして電子産業は大日本帝国政府が[最重要強化指定産業]に指定し、大規模な国家予算が投入される事になった。帝國電子(旧海軍技術研究所系)が設立され、半導体と電子計算機の基礎研究を加速した。基本ソフトウェア(OS)の開発も加速されていた。
農村では法人化された農業企業が機械化を推進し、食糧生産が戦前を大幅に上回った。労働基準法による週5日制と最低賃金の実施は、国民の消費意欲を刺激し、内需主導の成長サイクルを生み出した。1947年になると、大日本帝国経済は高度経済成長期の本格的幕開けを迎えた。GDP成長率は21.8%を維持し、戦前比で約3.4倍の規模に達した。帝都東京は急激に近代化し、銀座・丸の内には近代的な高層ビルが林立し始めた。円の国際的信用は高まり、の貿易総額は1944年比で約3倍に膨れ上がった。
山本総理はこの年の帝国議会で誇らしげに宣言した。
「軍縮は帝国の弱体化ではない。真の強さを、経済と国民生活の豊かさによって証明するものである。我々は今、平和の勝利を手にしている。」
しかし、この目覚ましい躍進の裏側で、西側諸国は複雑な感情を抱いていた。フランス共和国とオランダ王国はヨーロッパ占領地域の統治維持に追われ、アメリカ合衆国はカナダ占領と本土復興に苦慮する中、大日本帝国の経済的台頭を[新たな脅威]として静かに警戒し始めたのである。
この時期、まだ[大東亜共栄圏]という正式名称は用いられていなかったが、その経済的骨格は着実に形成されつつあった。表向きの軍縮と繁栄の時代は、冷戦という新たな影を孕みながら、着実に進行していった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




