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続・帝國連合艦隊〜世界最終戦争〜  作者: 007


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大規模軍縮

第二次世界大戦が終結した事により、避けては通れないと思い、大規模軍縮を敢行しました。

1944年10月1日の東京覚書締結による第二次世界大戦終結により、世界は平和を取り戻す筈だった。だが東京覚書でフランス共和国とオランダ王国のヨーロッパ地域占領はほぼ固定された。大日本帝国の核攻撃の恫喝により連合国として侵攻している現時点での地域の解放としてブルガリアとスイスの解放を要求しフランス共和国とオランダ王国はブルガリアとスイスの解放を了承したのである。こうしてフランス共和国とオランダ王国の占領地域はブルガリアとスイスを除くヨーロッパ全域となった。大英帝国と北欧全域も含まれ、旧ロシア地域が占領地域の東端とされた。

アフリカや中東・東南アジア・中南米・カリブ海の植民地は、独立させる事になった。それは大日本帝国率いる連合国がヨーロッパ全域以外は、解放するか影響力を行使出来ていたからである。フランス共和国とオランダ王国にしてみれば植民地を失う事になったが、ヨーロッパ全域を支配下にいれる事が出来た為に了承した事であった。

アメリカ合衆国は太平洋のハワイ諸島を筆頭とした全諸島を大日本帝国に割譲する事になった。無差別戦略爆撃により壊滅状態のアメリカ合衆国は、大日本帝国の要求を断れなかった。だがアメリカ合衆国は占領したカナダについては、フランス共和国とオランダ王国と同じく占領地域のまま保持される事が認められた。アメリカ合衆国本土つまりは北米地域は無差別戦略爆撃は受けていたが、大日本帝国以下連合国による侵攻を受けていなかったからだ。

こうして第二次世界大戦はヨーロッパ全域がフランス共和国とオランダ王国の支配下で固定される、という状態で終結する事になったのである。これにより表向きは世界は平和になると喧伝されたが、それが単なるプロパガンダだというのは誰もが知っていた。それは事実であり、世界は各陣営による冷戦状態に突入したのである。




『1944年10月1日、東京覚書の調印により第二次世界大戦は事実上終結した。この日、大日本帝国政府は山本五十六総理大臣兼海軍大臣の主導の下、直ちに戦後処理に関する緊急閣議を開催した。中心議題は[勝利の平和的活用]であった。

山本総理は次のように述べたと記録されている。

「我々は核の威力を以て戦争を早期に終結せしめた。もはや大規模な軍事力の維持は、帝国の国力を消耗させるのみである。直ちに大胆なる軍縮を行い、国民の生活向上と経済復興に全力を傾注すべきである。」

同日、大日本帝国は大規模軍縮方針を正式に決定した。海軍予算を戦時ピーク時の約60%に圧縮し、多数の空母・巡洋艦を予備役への編入を決定した。陸軍も師団の大幅削減と復員を進め、航空隊は一部の部隊を解散した。この決定は、連合国各国にも即時通達され、追従を促す内容であった。

1944年10月中旬までに連合国主要国は相次いで大規模軍縮を決定した。特に戦災の激しかったイタリア王国は復興資金を優先するため、軍事費の半減以上を余儀なくされた。

一方敗北を認めざるを得なかったフランス共和国・オランダ王国・アメリカ合衆国は、占領地域を維持したものの、植民地の喪失と本土の荒廃により、軍事的な再起は当面不可能であった。フランスとオランダはヨーロッパ全域の占領統治維持に精一杯であり復興も困難を極め、アメリカ合衆国はカナダ占領と本土復興に注力せざるを得なかった。三国は大日本帝国の軍縮方針を[現実的な選択]として、自分達も軍縮を選択する事になった。これにより世界主要国は一斉に軍事費を大幅削減する事態となった。

1944年11月に入り、大日本帝国政府はさらに踏み込んだ政策を発表した。それは[植民地独立支援宣言]である。アフリカ・中東・東南アジア・中南米・カリブ海地域に存在する旧欧米植民地に対し、独立準備の支援を行うことを表明した。これは単なる理想論ではなく、大日本帝国が既にこれらの地域に強い影響力を行使できていたことによる現実的な措置であった。

山本総理は帝国議会でこう演説した。

「我々は解放の名の下に戦った。植民地の独立は、帝国の責務である。独立国とは相互尊重と経済的協力の関係を築き、新たな世界秩序を創造せん。」

この宣言により、1945年中に東南アジア諸国(インドネシア、ベトナム、ビルマなど)をはじめとする多くの地域で独立準備委員会が設置され、帝国の技術者・行政官・資本が積極的に投入された。これらの新独立国は、帝国との経済協定を早期に締結し、資源供給と市場の安定を約束した。

1944年12月から1945年にかけて、大日本帝国は民需拡大政策と戦後経済成長計画の策定を急ピッチで進めた。

軍需工場を民需工場へ転換(造船、自動車、航空機、電子機器など)、「共栄圏共同市場」の原型となる共同復興計画の立案、円を基軸とした貿易決済システムの整備、復員軍人の民間企業への大量再就職促進。

これにより、1945年後半には既に戦後復興の兆しが見え始め、造船業を中心に生産が急回復した。横須賀、呉、佐世保の軍港は一部を残し、大半が商船建造ドックへと姿を変えていった。

この時期、まだ[大東亜共栄圏]や[ヨーロッパ共同体]という明確な陣営名称は存在せず、[東西冷戦]という言葉も生まれていなかった。世界は第二次世界大戦の終結による一時的な安堵と、未知の新秩序への期待と不安が入り混じる[冷戦直前]の混沌とした時期を迎えていたのである。

しかし、この短期間の軍縮と経済優先政策が、後に帝国を世界最大の経済大国へと押し上げる原動力となったことは、歴史の皮肉と言えよう。表向きの平和の裏で、新たな技術開発と静かな軍事力の蓄積が、密やかに始まっていたからである』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋

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