大日本帝国改造論
ようやく更新を再開します。
タイトルにもありますが、日本列島改造論のこの小説世界版になります。
そして史実と違いロッキード事件やそれに類する事件が起こる訳は無いので、田中角栄政権は長期政権になります。
『1973年9月11日に田中角栄内閣が成立した。田中角栄総理は就任の所信表明演説に於いて、自らの著作である[大日本帝国改造論]を内閣の取り組むべき政策だと表明した。この大日本帝国改造論は大日本帝国全土に於ける、大規模な再開発計画だった。
つまりは、工業再配置と交通・情報通信の全国的な形成をテコ入れして、人・カネ・モノの流れを巨大都市から地方に逆流させる[地方分散]を推進すること、が大日本帝国改造論の骨子だった。
当時大日本帝国では[太平洋工業地帯]に産業が集中し、過疎過密、インフラ整備や公害が問題となっていた。そこで大日本帝国改造論には、日本列島・朝鮮半島・台湾・シベリアを高速道路・新幹線・連絡橋などの高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、新幹線により空いた在来線に貨物列車を増発、過疎と過密の問題と公害の問題を同時に解決する、ハワイ県と南洋県(トラック諸島やマリアナ諸島・ミッドウェー島等の太平洋島嶼全体)・北洋県(アリューシャン列島)は観光地化と保養地化を強力に推し進めていく、などといった田中角栄総理の持論が展開されていたのである。
大日本帝国国土での大規模な工業地帯の新設、農業地帯の拡大、電力事業における火力発電から原子力発電への転換についても言及されている。
そして田中角栄総理は所信表明演説後に、私的諮問機関として[大日本帝国改造問題懇談会]を設置し、1973年9月12日の第1回を皮切りに会合を重ねた。当初85名だった懇談会の委員は途中で130名に増員された。
大規模年金保養基地構想は大日本帝国改造論に促されて具体化し、同年10月に内務省年金局と大蔵省理財局が大規模年金保養基地設置に合意した。同年11月には総理府政府広報室が列島改造論について「知っているか・主要点の賛否・期待」などについて面接聴取している。
青函連絡船の洞爺丸事故を機に1961年から建設中だった青函トンネル掘削工事は、異常出水などで多くの殉職者を出し困難な鉄道建設事業だったが、田中角栄総理の「本州から北海道まで、金に糸目をつけずに掘れ」の一言で予算が増額されたことで工事は徐々に軌道に乗り始め、18年を要して後に1979年に開通した。
田中角栄総理の目的は単純だった。[大日本帝国の経済力を高める事]ただそれだけを目的としていた。[今太閤]とも呼ばれ、ある種の強権的な総理であったが、[電算機付平土機(コンピューター付ブルドーザー)]と呼ばれるだけの事はあり機転を利かして素早く強引に政策を進めた。
大日本帝国改造論で開発の候補地に挙げられた地域は帝国情報保安局を始めとする、大日本帝国の諜報機関が徹底的に情報を秘匿。投機家によって土地の買い占めが行われ、不動産ブームが起き地価が急激に上昇するのを防ぐ為に、全ては極秘に行われた。
開発候補地の買収は土地地権者と極秘に直接やり取りが行われ、[金に糸目をつけるな]と田中角栄総理の方針に高額で買収していった。この方針により物価が上昇してインフレーションが発生し、物価高が社会問題化するのを防いだ。その為に大日本帝国改造論は無事に順調に推移し、高速道路や新幹線は多数整備され、工業地帯も新しく造設された。都市部の過密と地方の過疎は解消され、大日本帝国改造論は所得倍増計画とも言われたのである。
そんな中で田中角栄総理は国家安全保障会議に於いて、前福田赳夫内閣の緊張緩和政策と福田基本原則に懐疑的な意見を述べた。それには中曽根康弘国防大臣や軍部の全員が賛同していた。何と言っても世界最大の軍事大国たる大日本帝国が、弱腰になっていると軍部は思っていたのだ。
そこに田中角栄総理が懐疑的な意見をもっていた事は、軍部にはまさに僥倖だった。田中角栄総理はだからと言って、急に緊張緩和政策と福田基本原則を廃止するのは福田派が弱体化しているとはいえ、政争を招くとして慎重だった。
田中角栄総理は佐藤栄作元総理から引き継いだ旭日尊皇党最大派閥を率いていたが、その慎重さには中曽根康弘国防大臣や軍部は驚いた。そこで帝国情報保安局長官は、アフリカ大陸のアンゴラにて内戦勃発の気配があると語った。
それに中曽根康弘国防大臣も空軍の偵察衛星も、アンゴラで活発な動きがあると語ったのだ。それを聞いた田中角栄総理は、それを利用出来ると考えた。大日本帝国は現時点では緊張緩和政策と福田基本原則を堅持している事から、アンゴラ内戦に不介入とすれば世論でも緊張緩和政策と福田基本原則に懐疑的な声が高まるとしたのだ。
そして田中角栄総理はアンゴラを見捨てる事で、大日本帝国の緊張緩和政策と福田基本原則廃止を達成すると結論付けた。
そして1973年10月3日にアンゴラで内戦が勃発した。田中角栄内閣は先の国家安全保障会議での決定通り、表向きは緊張緩和政策と福田基本原則がある事から静観を決める。これはアンゴラが東側陣営に加盟しておらず単なる東側諸国寄りであるのと、田中角栄総理が緊張緩和政策と福田基本原則を廃止する理由付けにアンゴラ内戦を利用するとしたからであった。
これによりアンゴラ内戦はヨーロッパ共同体が支援する組織の勝利に終わり、1973年12月1日にアンゴラ共和国が成立した。これを受けて大日本帝国世論は緊張緩和政策と福田基本原則に懐疑的な声が高まり、それを田中角栄総理は利用し福田赳夫内閣の緊張緩和政策と福田基本原則を全て否定し「緊張緩和は失敗だった」と批判し、政策転換を断言する。
そして田中角栄総理は帝国議会で「緊張緩和は幻想だった。[力による平和]を再確立する」と宣言し、緊張緩和政策と福田基本原則を廃止し、軍備増強・西側強硬路線を高らかに表明した。これは福田赳夫前総理以下福田派を徹底的に糾弾する事になり、田中派が更に拡大する要因になったのである。
とはいえ大日本帝国の新たな戦略である[力による平和]は、大東亜共栄圏と東側陣営にとっては好意的に受け取られた。そして田中角栄総理は大日本帝国改造論による好景気の経済成長により国家予算が増大している事から、佐藤栄作元総理が策定した[かぐや補完計画]を更に強力に推進すると語った。
かぐや補完計画は[軌道基地きぼう]の更なる拡大と、宇宙空間と月面での各種実験拡大を策定していた。それを田中角栄総理はより大規模に強力にすると帝国議会で宣言した。
更にかぐや補完計画には国防省で策定されていた、[全地球測位装置(通称:みちびき)]を大規模に構築するとされた。[みちびき]は1970年に国防省で統合幕僚作戦司令本部以下、陸海空軍全ての合同軍事計画として進められていた。
そして1973年9月11日の田中角栄内閣成立により、国防大臣となった中曽根康弘が合同軍事計画を強力に推進するように田中角栄総理に求めたのである。
[みちびき]は全地球測位衛星を55個打ち上げ上空にある数個の衛星からの信号を、全地球測位装置受信機で受け取り三角測量により、受信者が自身の現在位置を知る装置となる。当初は完全に軍事利用だけを想定していたが、航空機や船舶で民生運用が出来るとの判断から民間への開放も決定された。
そして民生運用に足る精度を満たした[初期運用宣言]は1993年に、軍事運用可能な精度を満たした[完全運用宣言]は1995年に行うとの計画だった。
だが中曽根康弘国防大臣が田中角栄総理に強力に推進するように求め、田中角栄総理が帝国議会で宣言した事により計画は大幅に前倒しされる事になった。[初期運用宣言]は1980年に、[完全運用宣言]は1983年に行う事になった。
こうなると後は早かった。嘉手納宇宙基地から、K-1ロケットに全地球測位衛星を搭載し3日に1 回打ち上げられる事になった。[軌道基地きぼう]の更なる拡大と、宇宙空間と月面での各種実験拡大の為の[かぐや補完計画]の打ち上げも行われていた為に、実質的には毎日嘉手納宇宙基地ではK-1ロケットが打ち上げられていた。発射台が15基も存在する嘉手納宇宙基地だからこその、ある種異常な光景だった。
この広大過ぎる嘉手納宇宙基地の存在により沖縄は[基地の島]と言われており、田中角栄総理の大日本帝国改造論によりハワイ県と南洋県・北洋県が観光地化と保養地化に強力に推し進められる事になった事から、沖縄は観光地・保養地として見向きもされなくなっていき財政的に、嘉手納宇宙基地に勤務する軍人達に依存する事を加速させる事になった。
そして田中角栄総理は往還宇宙船の開発も更に強力に推進するとして、宇宙開発事業団の予算は更に拡大される事になった。大日本帝国改造論による好景気の経済成長により国家予算を拡大していたが、冷戦の最中ながら軍事費は現状維持とされていた。
これは田中角栄政権が軍事力を軽視していた訳では決して無く、寧ろ軍事力を最重要視していたからの決定だった。この時期に大日本帝国は国防省と外局である軍需庁が中心となり、陸海空軍の広範な基礎技術革新による新兵器開発を強力に推し進めていたのだ。その為にこの時期は大日本帝国は大規模な軍備増強を行っていなかったが、1980年代の[新冷戦]と呼ばれる時期に強大な軍備増強計画を遂行する事になったのである。
その大日本帝国に、大東亜共栄圏加盟国や東側諸国は付き従う事の正しさを再認識したのであった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




