大日本帝国の混迷
お盆休み前の繁忙期に入りますので、更新頻度が低下します。
未だに本編前の前史を長々と描写してますが、ご容赦下さい。
『ソマリア戦争と宇宙開発競争の終結は、大日本帝国の東西冷戦に於ける優位性を更に位置付けるものになった。佐藤栄作総理は[かぐや11号]の月着陸成功以後も、かぐや計画の続行を帝国議会で明言した。それにより[かぐや宇宙船]により毎月のように月面に、着陸船が着陸する事になった。
そして佐藤栄作総理は次なる目標として、[軌道基地きぼう]の更なる拡大と、宇宙空間と月面での各種実験拡大を策定した。[かぐや計画]よりは壮大な目標は無くどちらかと言えば、現状の拡大でしか無かった為に[かぐや補完計画]と佐藤栄作総理は名付けた。
これにより軌道基地きぼうという絶対的な中継地がある為に、R-7ロケットのような無駄に高額過ぎるロケットを廃止し、中型で集束式エンジンを搭載したK-1ロケットを実用化して宇宙開発を継続した。Kはセルゲイパーヴロヴィチコロリョフから名付けられた。大日本帝国ロケット開発・宇宙開発の立役者はロシア人技術者セルゲイパーヴロヴィチコロリョフと日本人技術者糸川英夫であるが、コロリョフ技術者は[かぐや11号]の月面着陸を見る事が叶わず、1966年1月14日に没していた。その為に残された糸川英夫技術者が、コロリョフ技術者に敬意を評して命名したのである。
K-1ロケットは3段式で大型エンジンを10基で1つとした集束式(クラスター式)エンジンを搭載し、全高85メートル、推力3000トン、打ち上げ重量1000トンの中型ロケットだった。
開発費用はR-7ロケットの7割、打ち上げ費用はR-7ロケットの半分という費用対効果に優れたロケットだった。それでいて宇宙空間に運搬出来る物資量は120トンを誇り、宇宙開発事業団のロケット開発能力の高さを見せ付けた。しかもこの時期から宇宙開発事業団は、[往還宇宙船]の開発を開始していたのだ。
大日本帝国は順風満帆だった。軍拡競争にも宇宙開発競争にも勝利し、大東亜共栄圏と東側諸国は大日本帝国の下に一致団結していた。だがだからこそ大日本帝国世論では、緊張緩和と西側諸国との関係改善を求める声が高まった。世論は軍拡競争にも宇宙開発競争にも勝利したからこそ、圧倒的な国力を有する大日本帝国が西側諸国に歩み寄れるのではないか、と政府に求め地球を何度も滅亡させられる核兵器を突きつけ合っている現状を、緩和しろというものだった。
この世論の高まりは政府与党の旭日尊皇党内で、壮絶な政争を巻き起こす事になった。つまりは旭日尊皇党の派閥間での抗争となったのである。旭日尊皇党は第二次世界大戦真っ只中の第21回衆議院議員総選挙の公示日前日の1942年5月3日に、当時の山本総理兼海相が突如として発表し結党されたものであった。その為に現役の海軍大将が党総裁を務める異例の政党になり、しかも東條陸相も旭日尊皇党副総裁に就任していた政党だった。そしてそれ以後大日本帝国の絶対的政権担当政党として、歴代の衆議院議員総選挙に勝利し続け帝国議会で過半数を維持し続けた。
そしてこの派閥間での抗争時、旭日尊皇党は帝国議会衆議院定数500議席の内320議席を占めており、過半数を遥かに上回り安定した政権運営が可能だった。そんな巨大与党での派閥間抗争は、実弾(現金)が飛び交う凄まじいものになった。それに加えて相手派閥を切り崩す為に、あらゆる手段を講じて相手の不祥事が明るみになり新聞・テレビに売り込まれた。
それは派閥間抗争の域を超えて、旭日尊皇党そのものの好感度を著しく低下させるものになっていた。そしてそんな与党の内紛は、野党が見逃す筈が無かった。最大野党の立憲政治同盟(立憲政友会と立憲民政党が合流して成立)は、帝国議会衆議院予算委員会で旭日尊皇党に不祥事が多い事について、佐藤栄作総理を厳しく追及した。
旭日尊皇党で相次いで発覚した不祥事により、旭日尊皇党への国民の信頼は失墜し永田町を[黒い霧]が覆っていると批判し、[黒い霧事件]と一連の不祥事事件を名付けた。
その後帝国議会では野党が激しい追及を行い、旭日尊皇党内での派閥間抗争は続いた。その為に低下した求心力回復を期し、局面の転換を図るべく、12月27日佐藤栄作総理は衆議院を解散した(黒い霧解散)。逆境下の選挙戦となった第31回総選挙は翌1967年1月29日に投票が行われたが、旭日尊皇党は善戦して予想外の微減(319議席で1議席減らしただけ)にとどまり、与党旭日尊皇党は安定多数を維持。だが公認候補の得票率が初めて5割を割り込み、旭日尊皇党にとって必ずしも十全な結果ではなかったが、逆風の中では概ね善戦勝利と受け止められた。
立憲政治同盟の議席もほぼ横ばいだったが、事前の期待には及ばず[敗北声明]を出した。とはいえ選挙に勝利した筈なのに、佐藤栄作総理の求心力は回復しなかった。そして遂に幹事長の福田赳夫から、公然と退陣要求が出る事態となった。それに辻政信等複数の衆議院議員が賛同し、[佐藤おろし]は加速した。
この事態に佐藤栄作総理は政局の安定を優先するとして、内閣総辞職を行った。そして行われた旭日尊皇党総裁選挙は本来なら大本命であった田中角栄が、金権政治の本丸であった事から黒い霧事件の影響を考慮して総裁選挙への出馬を見送った。
そうして総裁選挙は佐藤おろしを始める切っ掛けになった幹事長福田赳夫のみの出馬となり、無投票当選を果たし帝国議会での首班指名選挙で勝利し内閣総理大臣となった。これにより福田赳夫内閣が成立し、辻政信を国家安全保障問題特別補佐官として起用し、緊張緩和外交へと舵を切ったのである。
福田赳夫総理の外交方針は、大日本帝国による同盟国への防衛への直接関与を縮小し、同盟国に対して防衛費の負担を求めるという方針だった。これは[福田 基本原則]と名付けられた。
福田赳夫政権は、ヨーロッパ共同体に対しては交渉による融和に努め、この時期にヨーロッパ共同体が悪化していたアメリカ合衆国との関係に着目する。大日本帝国がアメリカ合衆国と接近すると、ヨーロッパ共同体の方から大日本帝国への接触が行われると考えられたのである。1968年に中華民国上海で開催された第31回世界卓球選手権で、大日本帝国とアメリカ合衆国の選手団が交流し、大日本帝国の選手団がアメリカ合衆国を訪問するなどの卓球外交により日米関係を改善させ、その後辻政信によって訪米が実現し、1969年7月15日、福田赳夫総理は訪米を公式発表する。そして1970年2月21日、福田赳夫は大日本帝国内閣総理大臣として初めて訪米を果たした。
福田赳夫総理のアメリカ合衆国訪問により、ヨーロッパ共同体の指導者ポンピドゥーは、焦りを感じ福田赳夫総理をパリへ招待し1971年5月、福田赳夫総理はヨーロッパ共同体を訪問する。
ヨーロッパ共同体を訪問した福田赳夫総理は戦略兵器制限交渉を行い、第一次戦略兵器制限交渉を締結する。第一次戦略兵器制限交渉によって、戦略兵器は制限された。その内訳は大日本帝国側は大陸間弾道弾1054基、潜水艦発射弾道弾656基、戦略爆撃機455機、ソ連は大陸間弾道弾1618基、潜水艦発射弾道弾740基、戦略爆撃機140機に制限された。
戦略爆撃機以外は大日本帝国が譲歩したように見えるが、多弾頭個別誘導弾は除外され、大日本帝国は多弾頭個別誘導弾を大量に持っていた。1972年6月には、ポンピドゥーが大日本帝国を訪問し、核戦争防止協定が締結された。こうして福田赳夫政権による緊張緩和が実現した。
1972年の大日本帝国の世論調査では、大日本帝国国民の7割が、大日本帝国とヨーロッパ共同体は平和のために協調できると考えており、大東亜共栄圏では冷戦は終わったと考えている者も多く、緊張緩和が進行していた。
そんな順調な政権運営を行っていた福田赳夫総理であるが1972年4月7日、1971年6月27日に行われた貴族院中間選挙の選挙活動中に、立憲政治同盟本部において不法侵入と盗聴器設置が発覚したのである。当初福田赳夫総理側は関与を否定したが新聞各社などの取材によって、政権内部の関与が明らかになり1973年8月8日、福田赳夫総理は首相官邸でのテレビ演説で辞任を発表した。これにより福田赳夫内閣は総辞職し、旭日尊皇党総裁選挙に満を持して田中角栄が出馬し見事に当選した。そして1973年9月11日に田中角栄内閣が成立し、長期政権を担う事になったのである。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




