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続・帝國連合艦隊〜世界最終戦争〜  作者: 007


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宇宙開発競争3

『[軌道基地きぼう]の初期目標達成により大日本帝国池田勇人総理は改めて、1960年代中に人類を月に送り込むと表明した。月面探査を人類史上始めて行うと、帝国議会衆議院本会議での演説により力強く断言したのだ。その演説は以下の通りだった。


「まず私は、今後1960年代以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国民が取り組むべきと確信しています。この期間のこのかぐや計画以上に、より強い印象を人類に残すものは存在せず、長きにわたる宇宙探査史においてより重要となるものも存在しないことでしょう。そして、このかぐや計画以上に完遂に困難を伴い費用を要するものもないでしょう。ですが私達は既に低高度軌道の衛星軌道上に、恒久的な宇宙基地を建設したのです。中継地は完成しました。後は月を目指すだけなのです。」



池田勇人総理の演説は、大日本帝国のみならず大東亜共栄圏を熱狂させた。もはや月に到達したようなものであり、大日本帝国の宇宙開発は世界でもずば抜けた規模だと認識された。何せ軌道基地が低高度軌道の衛星軌道上に存在するのである。地球上から打ち上げたロケットは軌道基地きぼうに結合ドッキングされ、人員や物資を積み降ろしして燃料補給をして月に向かうという流れになっていた。ヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国の月面探査計画では、地球上から打ち上げたロケットに搭載した司令船と探査船だけで地球と月の往復を行う、という物資や燃料も限られた量を遣り繰りして遂行しなければならないものだった。

それに比べて大日本帝国は先述したように、軌道基地きぼうが絶対的な中継地になるのだ。地球上を打ち上げたロケットは軌道基地きぼうだけを目指し、軌道基地きぼうから出発する月往還機(司令船・機械船+着陸船)は月との往復だけを目指し、軌道基地きぼうに月から帰還すれば最終的には地球に帰還するのみとなるのだ。物資や燃料、万が一の修理さえ可能な軌道基地きぼうの存在は、心理的な圧迫を軽減させるものになっていた。

こうして大日本帝国宇宙開発事業団の[かぐや計画]は1963年7月25日の[軌道基地きぼう]の初期目標達成を境に、更に尋常では無い速度で計画を推進する事になった。何せ[きぼう]は大日本帝国にとっては[宇宙の前線基地]として位置付けられたのだ。大日本帝国の工業力・組織力を活かした独自路線は、他の追随を許さないものになっていた。

こうして[かぐや計画]は新たな段階に到達した。R-7ロケットは[軌道基地きぼう]への月往還機(司令船・機械船+着陸船)と物資・乗員・燃料を輸送する事になった。[軌道基地きぼう]が安全な中継点になることで、乗員の負担軽減や緊急時の修理・補給が可能になるのが最大の利点だった。

恒久的な軌道基地により燃料補給、結合ドッキング技術の確立、月往還機の生命維持装置は大日本帝国の圧倒的な工業力・予算で実用化された。



1963年9月、茨城県つくば市(科学技術宇宙省、宇宙開発事業団が1953年4月に暫定成立した時に筑波研究学園都市として開発が進み、現在は日本国内最大の学術都市となっている。国や県の政策により、1955年に筑波郡谷田部町・大穂町・豊里町、新治郡桜村の3町1村が新設合併し、つくば市が誕生した。)の有人宇宙施設は月面着陸に向けた一連の飛行計画を発表した。以下の[イ]から[ト]の7種の任務は、それぞれ宇宙船の特定部分の性能や手順を確認するためのもので、次の段階に進むためには前段階の成功が必要であった。


イ- (無人)司令・機械船 試験飛行

ロ- (無人)月着陸船 試験飛行

ハ- (有人)司令・機械船 低高度地球周回軌道飛行 そして地球帰還

ニ- (有人)司令・機械船および月着陸船 低高度地球周回軌道飛行 そして地球帰還

ホ- (有人)司令・機械船および月着陸船 遠地点7400キロの楕円軌道飛行 そして地球帰還

ヘ- (有人)司令・機械船および月着陸船 月周回飛行 そして地球帰還

ト- (有人)月面着陸 そして地球帰還

後にはこれらに加え、短期間の滞在のうちに2度の月面船外活動を行う任務[チ]が追加され、さらに、より長い3日間月面に滞在し、月面車を使用して3度の船外活動を行う任務[リ]がこれに続くこととなった。

そして上記任務を行う事になる[かぐや宇宙船]が開発され、実用化される事になった。このかぐや宇宙船こそが人類史上初の月往還機(司令船・機械船+着陸船)であった。

宇宙船は使い捨て型で、かぐや司令・機械船とかぐや月着陸船から構成される事になった。司令船・機械船は、その名が示すとおり二つの部分から構成されている。司令船は飛行士が滞在し、宇宙船を操縦し地球に帰還させるために必要なすべての制御装置が搭載されている。

機械船は推進用の集束式エンジン1基と姿勢制御用の小ロケットエンジン16基およびその燃料、さらに宇宙滞在中に必要な酸素・水・食料・蓄電池などの消耗品などを搭載している。最終的に地球に帰還するのは司令船のみで、機械船は大気圏再突入時の高温・高圧力で大気圏内で破壊され、消滅する。

司令船は直径6.84メートル、高さ17.55メートルの円錐形で、前方(頂上)部には二基の姿勢制御用小型ロケット、月着陸船との結合装置及び乗り換え用のトンネル、地球帰還時に使用するパラシュートなどが搭載されている。後方(底辺)部には16基の姿勢制御用小型ロケットとその燃料タンク、水タンク、機械船との集合接続ケーブルなどがある。外壁は主にアルミニウムのハニカム構造によって構成されている。底面には6層のハニカムパネルを貼り合わせた耐熱シールドとなっており、大気圏再突入時にはこのシールドが徐々に融解することによって熱を逃がし、船体が熱破壊されることを防いでいる。仕様は乗員3名、全高17.55メートル、直径6.84メートル、総重量22トンとなっている。

機械船は与圧されていない直径6.9メートル、高さ17.85メートルの円筒形の構造物である。内部は中央部とそれを放射状に取り巻く12の外郭部によって構成されており、推進用ロケット・姿勢制御ロケットおよびその燃料、酸素、燃料電池、通信用のアンテナなどが配置され、科学探査機器なども搭載されていた。

前部覆いは高さが1175ミリで、機械船電算機、司令船との結合装置などが配置されている。結合装置はステンレス製で、司令船に分配するすべての電力や酸素・水などのホースやコード類はここに集中しており、切り離しの際には爆発ボルトが使用される。


着陸船は宇宙開発事業団が月面着陸の方法を直接降下方式ではなく、月軌道邂逅方式を採択したことによって開発が開始された。直接降下方式では宇宙船のすべての部分が月面に着陸するが、邂逅方式では着陸部分だけが月面に降りる。

直接降下方式の場合費用が莫大になるという点で、不採用となった。それに対して月軌道邂逅方式の場合は先の方式よりも対費用、効率性に優れていることから、この方式が採用されたのである。

開発は比較的余裕をもって進められた。宇宙へはR-7ロケットで打ち上げられるが、軌道基地きぼうのお陰でとにかく宇宙空間に運び込むと成功だったからだ。物資や燃料は軌道基地きぼうに結合してから補給し、月だけを目指せば良いのだ。その為に完成した着陸船は上昇段は乗員2名、全高15.76メートル、全幅7.5メートル。下降段は全高13.2メートル、全幅7.2メートル(着陸脚展開時10.7メートル)に及ぶものだった。

R-7ロケット打ち上げ重量2900トンにより実際に宇宙へ運搬出来る物資量は150トンであり、その為にかぐや宇宙船は開発は余裕のあるものになったのだ。

そして[かぐや1号]は1964年11月に軌道基地きぼうを出発し、地球周回飛行を成し遂げた。地球周回飛行は[かぐや6号]まで行われ、かぐや司令・機械船の性能が実証された。その後[かぐや7号]が1965年2月20日に史上初めて、月周回飛行を成し遂げた。これは人類が月を周回した歴史的な飛行だった。地球周回軌道を離れて外部の世界から人間が地球を見下ろしたのも、この飛行が初めてだった。実験は成功したが、飛行士が睡眠障害に陥ったり軽い病気にかかるなどした。

そして月周回飛行は[かぐや10号]まで行われ、軌道基地きぼうとの往復と月周回飛行を問題無く行われる事が実証された。

だが[かぐや8号]出発の直前に[かぐや計画]を始動させた池田勇人前総理が、1965年7月5日入院先の病院で没した。後任の佐藤栄作総理は池田勇人前総理の遺志を受け継ぎ、月面探査を必ず成し遂げると力強く宣言した。

そして1966年3月15日午前5時17分。大日本帝国のみならず大東亜共栄圏加盟国、そして全世界に衛星放送による同時中継が行われ人類が東西陣営を忘れて見守る中、[かぐや11号]が人類史上初めて月面に着陸した。

「嘉手納。こちら翁。姫は月に帰った。」

船長による着陸成功後のこの通信は、竹取物語の話に絡めて着陸成功を宣言する最適な名言となった。この宣言に大日本帝国中は熱狂し、大東亜共栄圏加盟国や世界各国で竹取物語が注目され、大日本帝国の文学が東西冷戦下であるにも関わらず世界で流行する事になった。それは現在に至るも世界中の大学に、[大日本帝国文学科]が存在する切っ掛けになったのだ。

月面着陸を成し遂げた[かぐや11号]から船長が、まずは月面に足を踏み入れた。

「この一歩は大日本帝国でも、大東亜共栄圏でも、東側陣営でも、西側陣営でも無く、人類にとって重要な一歩である。」

そのように船長は言って、月面に足を踏み入れた。着陸時といい、この船長の語彙力には作家の私でさえ凄いと思う程である。

その後[かぐや11号]は24時間に及ぶ月面探査を行い、月を離れ1966年3月18日午前9時28分に太平洋に着水した。そして[かぐや11号]は大日本帝国海軍連合艦隊の大型空母青龍級朱雀を発艦した、汎用回転翼機により回収された。こうして人類史上初の月面探査は成功に終わったのだ。

今となっては月面都市も建設され月には1時間弱で移動出来るようになり、私も船長の足跡を直接見てきた。だが1960年代という時代に於いて大日本帝国が成し遂げた業績はあまりにも偉大であり、長期的視野も有していた。

何せヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国がその後、大日本帝国の月面探査成功により宇宙開発競争に敗北したとして急速に宇宙開発に興味を失い、宇宙開発予算を軍拡競争に振り向けた。だが大日本帝国は軌道基地きぼうという絶対的な中継地がある為に、R-7ロケットのような無駄に高額過ぎるロケットを廃止し、中型で集束式エンジンを搭載したK-1ロケットを利用して宇宙開発を継続した。

Kはセルゲイパーヴロヴィチコロリョフから名付けられた。大日本帝国ロケット開発・宇宙開発の立役者はロシア人技術者セルゲイパーヴロヴィチコロリョフと日本人技術者糸川英夫であるが、コロリョフ技術者は[かぐや11号]の月面着陸を見る事が叶わず、1966年1月14日に没していた。その為に残された糸川英夫技術者が、コロリョフ技術者に敬意を評して命名したのである。

こうして宇宙開発競争も大日本帝国の勝利に終わったのであった。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋

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