ソマリア戦争
史実ベトナム戦争に相当します。
『1965年2月8日、池田勇人総理は前日の共和主義革命戦線による大日本帝国軍事顧問団基地攻撃の報復として、北ソマリア中枢への報復爆撃作戦を命令した。既にソマリア近海にはインド洋・アラビア海・ペルシャ湾を担当する第2艦隊(司令部:セイロン共和国トリンコマリー軍港)から、超弩級空母大鳳級3隻の大鳳・神鳳・天鳳を攻撃空母として主力とする、大鳳空母戦闘群(正規空母大鷹級隼鷹が補助空母)・神鳳空母戦闘群(正規空母大鷹級龍鷹が補助空母)・天鳳空母戦闘群(正規空母大鷹級千鷹が補助空母)という3個空母戦闘群が派遣され展開していた。
3隻の空母から次々と蒸気カタパルトで射出され出撃した、17式戦闘爆撃機秋水・20式戦闘爆撃機電光・23式攻撃機極星の空母艦載機は北ソマリアの首都を筆頭に空軍基地や陸軍基地を徹底的に爆撃した。3隻の補助空母からは早期警戒機や電子戦機も蒸気カタパルトで射出され出撃し、航空管制を行い北ソマリアのレーダーや通信を妨害したのである。
空母艦載機だけで無く3個空母戦闘群の護衛艦艇である、ミサイル巡洋艦・ミサイル駆逐艦・海防艦はSHKから巡航ミサイルを次々と発射していた。この圧倒的かつ大規模な攻撃は北ソマリアと、現地に軍事顧問団を派遣していたヨーロッパ共同体に衝撃を与えた。
大日本帝国が一切の躊躇無く、北ソマリアに全面的な空爆を行ったからだ。しかも空母戦闘群による空爆の翌日には、大日本帝国空軍の戦略爆撃機富嶽改・15式戦略爆撃機轟天・18式戦略爆撃機銀河が、戦略爆撃機基地であるディエゴガルシア・硫黄島・択捉島・グアム島からそれぞれ飛来し、大量の爆弾と空中発射型巡航ミサイルによる空爆を敢行した。西側諸国に対する[水爆哨戒]という24時間態勢の即応任務中の機体以外を投入したが、このような戦術任務にも戦略爆撃機を投入出来るだけの保有機数を誇るのが大日本帝国空軍のある種異常さだった。
15式戦略爆撃機轟天と18式戦略爆撃機銀河は初の実戦投入であり、特に15式戦略爆撃機轟天の巨大な両翼から発射される空中発射型巡航ミサイルによる攻撃は圧巻であり、記録映画に撮影され圧倒的な性能を世界に見せ付けた。
そしてサウジアラビア王国とイラン帝国の空軍基地からは、14式戦闘機月光・18式戦闘爆撃機雷電・15式戦闘機天雷・17式戦闘機閃電・20式戦闘爆撃機電光・20式攻撃機橘花・14式攻撃機桜花が続々と出撃し、北ソマリア各地に空爆を行ったのである。
1965年2月8日と9日の2日間に行われた空爆により、北ソマリア軍は陸空軍の半数以上を失う大打撃を受けた。現地に展開するヨーロッパ共同体軍事顧問団も大多数が供与兵器と共に、この世から消滅していた。北ソマリアとヨーロッパ共同体は、大日本帝国がここまで徹底的な空爆を行うとは想定していなかったのだ。その為に被害は北ソマリア全域に及び、壊滅的被害を受けたのである。そしてこの絶好の機会を逃す筈はなく、ソマリア連邦は祖国統一を掲げて一斉に北進を開始したのだ。それを支援するべく大日本帝国は北ソマリアへの北爆を更に強化し、しかも2月10日に池田勇人総理は帝国議会で地上部隊の派遣を明言した。
既に国防省では西竹一国防大臣(岸信介内閣から留任)の下で、統合幕僚作戦司令本部が地上部隊派遣の作戦を練っていた。統合幕僚作戦司令本部総長服部卓四郎元帥以下、海軍軍令部総長有賀幸作大将、連合艦隊司令長官神重徳大将、陸軍参謀総長瀬島龍三大将、空軍統合総長源田実大将、というサラワク危機を乗り切った軍首脳陣が久し振りの実戦に張り切っていた。
既に北爆を行っている海軍と空軍は血気盛んで、サラワク危機で常に強硬論を主張した空軍統合総長源田実大将は、更なる爆撃強化を空軍に命じていた。海軍も特に連合艦隊司令長官神重徳大将が爆撃強化に賛同しており、第2艦隊以外から更に空母戦闘群を派遣しソコトラ島近海を『空母常駐拠点(後に西側諸国が、忌まわしきサムライステーション、とプロパガンダ放送により酷評したが、それを大日本帝国は気に入り自分達でもサムライステーションと宣伝した)』として、空母戦闘群を常駐させる計画を述べていた。
そして海軍軍令部総長有賀幸作大将は海軍陸戦隊の4個陸戦師団全てを、北ソマリアへ派遣しソマリア連邦の侵攻を支援すると語った。陸軍参謀総長瀬島龍三大将は、本土戦略予備軍19個師団(機械化歩兵師団8個、空中機動師団2個、機甲師団5個、空挺師団3個、近衛師団1個)約38万人及び各種支援部隊の合計約40万人から、機械化歩兵5個、空中機動師団2個、機甲師団3個の10個師団、トルコ共和国駐留トルコ派遣軍(2個方面軍12個師団:機械化歩兵師団8個、機甲師団4個約24万人)及び支援部隊の合計約25万人から、機械化歩兵師団3個、機甲師団1個の4個師団、合計14個師団を派遣すると語った。
これにより大日本帝国は地上部隊を18個師団各種支援部隊合計約40万人を派遣する事になったのである。陸軍参謀総長瀬島龍三大将は一気呵成に大軍を派遣し、大胆に侵攻する事が戦争を泥沼化させずに終わらせる、と語った。
それを池田勇人総理は了承し更には統合幕僚作戦司令本部直轄である、特殊部隊を派遣するように命令した。これは大日本帝国特殊部隊の[正式な]本格的派遣となった。
ここまで本文を読まれている読者の方は、イタリア戦争やサラワク革命・サラワク危機に特殊部隊が派遣されているじゃないか、と思われた方もいるだろう。それは冷戦崩壊後の情報開示により派遣が公表された事から、執筆出来ているのである。
その為に東西冷戦下での特殊部隊派遣が公式発表されたのは、このソマリア戦争が初めてであったのだ。大日本帝国特殊部隊についての詳細は、次項で執筆するが先述したように大日本帝国特殊部隊は、統合幕僚作戦司令本部直轄となっていた。これはサラワク危機後の組織改編により実施され、それまでは陸海空軍が特殊部隊を保有していたが最高司令部が統合幕僚作戦司令本部として統合されている事から、特殊部隊は文字通り特殊任務に投入される為に統合運用した方が効率が良いと判断され、統合幕僚作戦司令本部直轄とされたのだ。
話を戻す。大日本帝国の不断の決意によるソマリア戦争への大軍派遣は、大東亜共栄圏加盟国にも軍事力派遣を表明させる切っ掛けになった。これにより中華民国は30個師団約60万人、 インド連邦は30個師団約60万人、ロシア連邦は20個師団約40万人、満州帝国は10個師団約20万人、オーストラリア共和国は5個師団約10万人、イラン帝国は5個師団約10万人、トルコ共和国は5個師団約10万人、イタリア王国は5個師団約10万人をソマリアに派遣する事になった。更に他の国々も1個旅団や1個大隊を派遣し、大東亜共栄圏加盟国全てが何かしらの地上部隊をソマリアに派遣する事になったのである。
これにより大東亜共栄圏は大日本帝国以下合計で約300万人にも及ぶ地上部隊をソマリアに投入する事になった。これだけの大軍を派遣するとなったが、大東亜共栄圏の大多数の国はまともな部隊輸送手段を持ち合わせていなかった。
その為に大日本帝国海軍連合艦隊は自分達の回転翼機揚陸艦・船渠型揚陸艦や戦車揚陸艦、そして各種支援艦艇として車輌貨物輸送艦・弾薬運搬艦・高速戦闘支援艦・補給艦を大量に保有していた事から、それらを全てそれこそ根刮ぎ動員しての大規模輸送作戦を開始した。
戦略予備艦隊と呼ばれる第二次世界大戦中に建造された保管艦状態の、戦標船も全て再就役させて大東亜共栄圏加盟国の地上部隊輸送を行った。それでも当然ながら足りない為に空軍の輸送機も動員し、更にはソマリア近海に派遣する空母戦闘群の空母の飛行甲板に無理やり地上部隊を載せて運搬された。
なりふり構わぬ輸送に東側諸国は驚いたが、大日本帝国のやや無茶な輸送により約300万人の地上部隊は、ソマリアに展開する事になったのであった。
それは1965年4月11日の事であった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




