ソマリア戦争直前の軍事力
まずは海軍です。
『ソマリア戦争直前の大日本帝国の軍事力は、世界最強であり他国を圧倒的に上回っていた。第二次世界大戦終結後に大規模軍縮を行ったが、その後の経済成長によりそれに相応しい国防費増額を行い、世界に冠たる大日本帝国軍を整備した。その戦力は圧倒的なものになっていた。何といっても最大の最強の戦力ともいえたのは、海軍連合艦隊であった。
この当時大日本帝国海軍連合艦隊はその空母30隻の他に、原子力ミサイル巡洋艦を筆頭にミサイル巡洋艦80隻、ミサイル駆逐艦220隻、海防艦(諸外国のフリゲート艦相当)570隻、攻撃型原子力潜水艦80隻、弾道弾原子力潜水艦55隻、補給艦・輸送艦・各種支援艦多数という世界最強海軍に相応しい陣容を誇っていた。
空母は超弩級空母大和級3隻(大和・武蔵・信濃)、正規空母雲龍級10隻(雲龍・海龍・天龍・神龍・轟龍・雷龍・地龍・黒龍・昇龍・赤龍)、重装甲空母秋津洲・超弩級空母大鳳級3隻(大鳳・神鳳・天鳳)、正規空母大鷹級4隻(神鷹・隼鷹・龍鷹・千鷹)、大型空母青龍級4隻(青龍・朱雀・白虎・玄武)、大型空母敷島級4隻(敷島・朝日・初瀬・三笠)、原子力空母鳳翔、という30隻保有していた。
大型空母青龍級4隻は1958年までに、大型空母敷島級4隻は1960年までに、原子力空母鳳翔は1961年に就役し、第二次世界大戦終結後に建造された空母となっていた。軽空母千歳級10隻(千歳・千代田・姫路・神戸・仙台・函館・高松・下関・大分・博多)は、大東亜共栄圏加盟国への軍事支援として供与された。正規空母大鷹級2隻(大鷹・沖鷹)は正規空母から『回転翼機揚陸艦』へと改装されていた。
大日本帝国海軍連合艦隊はイタリア戦争以後に、艦隊編成を変えていた。それまでは複数隻の空母から成る『機動艦隊』を編成していたが、それを廃止し海域別に『担当艦隊』を編成する事にした。連合艦隊は変わらず横須賀に海軍連合艦隊最高司令部として常置されたがその傘下に太平洋は第1艦隊(司令部:大日本帝国呉軍港)、インド洋・アラビア海・ペルシャ湾は第2艦隊(司令部:セイロン共和国トリンコマリー軍港)、地中海は第3艦隊(司令部:イタリア王国ガエータ軍港)、大西洋は第4艦隊(司令部:ガイアナ共和国ジョージタウン軍港)、をそれぞれ担当艦隊として編成設置した。
そして各担当艦隊傘下に空母戦闘群を配備したのである。その中で潜水艦隊(司令部:大日本帝国呉軍港)だけは海域に分ける事による担当艦隊別の編成は行わない、単一的な運用が行われる事になっていた。
空母戦闘群は空母2隻を主力にする、大規模な打撃力を有する存在だった。何故空母を2隻配備するのかといえば、それは艦載機の大型化が理由であった。大日本帝国海軍連合艦隊は第二次世界大戦中から艦載機をジェット機化させており、それは第二次世界大戦後には更なる大型ジェット機の開発と実用化に繋がった。だがそうなると問題は空母の船体は変わらないのに、次々と大型ジェット機が実用化され搭載されると格納庫容量が、レシプロ機のみの時に比べて1機辺りが大型化し艦載機総数が低下する事になったのだ。
その為に第二次世界大戦後に建造する空母は巨大化する事になり、1958年までに竣工した大型空母青龍級4隻で既に全長315メートル・満載排水量978000トンに達しており、1960年までに竣工した大型空母敷島級4隻は遂に全長323メートル・満載排水量106300トンに達した。1961年に竣工した原子力空母鳳翔に至っては、全長335メートル・満載排水量118200トンを誇っていた。
大日本帝国海軍連合艦隊はそれだけの超大型空母を建造する事で、今後の更なる艦載機の大型化に対応する事にしたのである。だが現時点で保有している空母は、艦載機総数の低下に対応する必要があった。そこで大日本帝国海軍連合艦隊は空母戦闘群の空母を『攻撃空母』と『補助空母』の2種類として配備する事にしたのである。
『攻撃空母』と定義されたのは原子力空母鳳翔・大型空母敷島級4隻・大型空母青龍級4隻・超弩級空母大和級3隻・超弩級空母大鳳級3隻の15隻、『補助空母』と定義されたのは重装甲空母秋津洲・正規空母雲龍級10隻・正規空母大鷹級4隻であった。
攻撃空母には戦闘機と攻撃機のみを搭載し、補助空母には早期警戒機・対潜哨戒機・電子戦機・輸送機・哨戒回転翼機・汎用回転翼機が搭載される事になった。この大胆で贅沢な2隻運用は大日本帝国海軍連合艦隊だけにしか、可能では無かった。何せ補助空母とされた空母であるが重装甲空母秋津洲は全長290メートル、正規空母雲龍級10隻と正規空母大鷹級4隻は全長280メートルという規模であり、普通の国なら当然のように主力空母として運用する規模だったのである。それをまさかの『補助空母』として運用する事に、大日本帝国海軍連合艦隊のある種異常さがあったのだ。これにより大日本帝国海軍連合艦隊は1個空母戦闘群に2隻の空母を配備する、尋常では無い空母戦闘群を15個保有していたのだ。
次は空母戦闘群の守護神たるミサイル巡洋艦であった。大日本帝国海軍連合艦隊は原子力ミサイル巡洋艦を筆頭に、ミサイル巡洋艦80隻を保有していた。第二次世界大戦後すぐにミサイル巡洋艦への統一改装が進められ、重巡洋艦黒姫級20隻、軽巡洋艦音羽級30隻、重巡洋艦翔鶴級23隻、軽巡洋艦阿賀野級26隻は対空・対艦ミサイルを主力兵器とした[浮かぶミサイルプラットフォーム]へと進化を遂げ、ミサイル巡洋艦に統一されていた。
だがその後にSHK(垂直発射口)が実用化され艦艇への搭載が進められる事になった。SHKは規格化され、潜水艦発射弾道弾は巨大である為に1門に1発装填だが、水上艦では各ミサイルによって変化していた。対空ミサイル(艦隊防空ミサイルと弾道弾迎撃ミサイルの2種類)は1門に4発、対艦ミサイルと巡航ミサイルは2発、対潜ミサイルは6発が、SHKに装填されていた。
そのSHK改装を行う時にミサイル巡洋艦黒姫級は船体規模から、将来的な発展性があると判断されて改装が行われるとなったが、ミサイル巡洋艦音羽級30隻、ミサイル巡洋艦翔鶴級23隻、ミサイル巡洋艦阿賀野級26隻はそれぞれの要因から改装せずに予備役にされる事になった。
ミサイル巡洋艦音羽級30隻とミサイル巡洋艦阿賀野級26隻は、その船体規模に原因があった。確かにミサイル巡洋艦音羽級は全長175メートル、ミサイル巡洋艦阿賀野級は全長185メートルと他国の巡洋艦より巨大(ミサイル巡洋艦黒姫級は全長240メートル)であったが、海軍連合艦隊はそれでも今は問題無くても将来的な発展性を考慮すれば船体規模は追い付かなくなる、として改装を見送ったのだ。
そしてミサイル巡洋艦翔鶴級は全長245メートルと船体規模は将来的な発展性を見越しても十分であったが、問題はその艦齢による老朽化だった。ミサイル巡洋艦翔鶴級は第二次世界大戦前の就役艦であり、船体の老朽化もだが艦内の設備や電装系統が旧式過ぎたのだ。その為に海軍連合艦隊は無理に改装をすると、将来的な発展性が無く電装系統のトラブルを招きそうなミサイル巡洋艦音羽級30隻、ミサイル巡洋艦翔鶴級23隻、ミサイル巡洋艦阿賀野級26隻は予備役にし新造艦を建造した方が予算的にも安くなると判断したのだ。こうしてミサイル巡洋艦の大増産が始まる事になったのである。
その大増産で何といっても最初の目玉は、原子力ミサイル巡洋艦青葉であった。原子力ミサイル巡洋艦青葉は、第二次世界大戦後の大日本帝国海軍が設計・建造した最初の巡洋艦として、1957年度計画において建造された。世界初の原子力水上戦闘艦であり、また建造時からミサイルを主兵装とする初の戦闘艦でもあった。実験艦的意味合いが強い為に、同型艦はない。
大日本帝国海軍は、1951年8月15日に原子力潜水艦北上(当時は伊500とされたが命名規則変更により、ミサイル巡洋艦を旧重巡洋艦から採用する事を決定した為に、潜水艦が原子力潜水艦となった事により軍艦に昇格させ、旧軽巡洋艦の名称を原子力潜水艦に採用する事になった。その後原子力潜水艦北上の発展改良型として、原子力潜水艦球磨も1953年9月2日に実用化されている)を実用化させ、核動力の時代に突入した。これに伴って水上艦部隊も核動力化が志向され原子力空母と共に、その直衛にあたる原子力艦の建造が検討されるようになったのである。
その中で当初は単に原子力艦としてある程度のSHKを搭載した、中型艦として建造が検討された。この時点ではミサイル巡洋艦音羽級30隻、ミサイル巡洋艦翔鶴級23隻、ミサイル巡洋艦阿賀野級26隻のSHK搭載の改装も検討されていた為に、当然といえば当然の流れだった。だが先述したように3種類のミサイル巡洋艦は予備役にされる事になり、計画は変更され原子力ミサイル巡洋艦青葉はミサイル巡洋艦黒姫級に匹敵する船体規模と武装を有する事になったのである。こうして原子力ミサイル巡洋艦青葉は、全長245メートル、最大幅30メートル、速力33ノット、武装・25センチ連装砲2基4門・150ミリ連装速射砲8基16門・80ミリ単装速射砲4基4門・SHK70門(対空ミサイル・対艦ミサイル・巡航ミサイル各20門、対潜ミサイル10門)・10連装短距離対空ミサイル発射機4基・330ミリ3連装短魚雷発射管2基・40ミリ4連装機関砲16基・20ミリ連装機関砲8基、搭載機対潜回転翼機6機、満載排水量37580トン、という重厚なる規模を誇ったのである。
原子力ミサイル巡洋艦というだけあって原子炉としては東京芝浦電機製Z1T(Z:巡洋艦、1:1世代目の炉心、T:東京芝浦電機製)が2基搭載された。これは加圧水型原子炉で、原子力空母鳳翔のK2T(K:空母、2:2世代目の炉心、T:東京芝浦電機製)との類似性が指摘されている。熱交換器(蒸気発生器)8基が搭載されて、石川島播磨重工業製蒸気タービン2基を駆動した。1回の核燃料搭載で、20ノット巡航であれば36万海里に相当する長大な航続距離を誇った。また電源容量は17000キロワットであった。
このように巨大で強大な武装を備えたミサイル巡洋艦となったが、連合艦隊内で「ミサイル巡洋艦まで原子力化する必要は無い」との意見が出て来たのである。その理由は単純に、「直接殴り合う可能性のあるミサイル巡洋艦に、原子炉を搭載する事自体が狂気の沙汰」だというものだった。それは見事に的を得た意見だった。
更に当初は燃料補給不要で長期航海可能であり、[連合艦隊原子力化計画]が推進されその第1号艦として建造された。だが青葉の建造は当時の水上戦闘艦としては異例の、非常に高額な費用を要したのである。世界初の原子力水上戦闘艦でありその原子力推進システムの開発と搭載、そして原子炉からの放射線を遮蔽するための構造は、通常の機関を持つ艦艇に比べて複雑で、設計・建造費が計画より大幅に上昇した。
更に新技術の集積もあり高度なレーダーシステムも高額であった。しかも搭載する原子炉の保守要員も必要となりそもそもの乗組員数増加により、運用経費も高騰する事になった。これにより海軍連合艦隊はこの艦の性能を評価したが、高額な建造費と運用経費の高騰から原子力巡洋艦を大量に建造・配備することは、帝国議会や国防省から承認を得る事が出来なかった。これにより連合艦隊原子力化計画はあまりにも費用がかかりすぎるため、原子力空母と原子力潜水艦のみに限定する方向に変更される事になったのである。原子力空母は蒸気カタパルトと高速航行・自艦の燃料が不要になり艦載機燃料と弾薬がその分搭載量が増大する点点、原子力潜水艦は燃料補給無しに理論上は無限に潜航可能な点、以上がそれぞれ評価された為に建造される事になった。
こうしてその後は通常動力型ミサイル巡洋艦の方が、費用対効果と運用の容易さで優れていると判断され海軍連合艦隊は高額な青葉級の量産を断念し、通常動力ミサイル巡洋艦の増産を決定したのである。そして建造されたのが『ミサイル巡洋艦加古級』である。建造費と運用経費削減の為に青葉よりは小型に設計され、全長200メートル・満載排水量19800トンの規模になり、同型艦5隻が建造された。その後ミサイル巡洋艦妙高級(全長210メートル・満載排水量19850トン・同型艦12隻)、ミサイル巡洋艦愛宕級(全長215メートル・満載排水量20000トン・同型艦12隻)、ミサイル巡洋艦天城級(全長220メートル・満載排水量20300トン・同型艦12隻)、ミサイル巡洋艦早池峰級(全長225メートル・満載排水量20570トン・同型艦10隻)、ミサイル巡洋艦蔵王級(全長230メートル・満載排水量22700トン・同型艦8隻)が建造され、大日本帝国海軍連合艦隊はミサイル巡洋艦80隻を保有するに至ったのである。
そして次はミサイル駆逐艦であった。ミサイル駆逐艦も第二次世界大戦後は戦時量産型の松級(60隻)と、戦前建造の秋月級(約35隻)は現役を維持し、防空・対潜・護衛任務の要として、近代化改装(ミサイル搭載、レーダー強化など)が重点的に施された。だがミサイル巡洋艦の時と同じ理由でSHK搭載の改装は松級だけとなり、戦前建造の秋月級が予備役にされる事になった。そしてミサイル駆逐艦も大量産が行われる事になった。
まず建造されたのがミサイル駆逐艦睦月級(全長133メートル・満載排水量4600トン・同型艦40隻)だった。大日本帝国海軍連合艦隊初の新造ミサイル艦であり、艦隊防空と対潜に特化していた。その次に建造されたのがミサイル駆逐艦初春級(全長138メートル・満載排水量5870トン・同型艦60隻)だった。そしてソマリア戦争時に最新鋭艦として配備されていたのが、ミサイル駆逐艦陽炎級(全長145メートル・7035トン・同型艦60隻)だった。従来の駆逐艦に比べて大型化し、万能型駆逐艦として設計されたのが陽炎級であった。
そして大日本帝国海軍連合艦隊が570隻という大量建造を行ったのが、海防艦であった。諸外国のフリゲート艦相当の艦艇であり、大日本帝国海軍連合艦隊は鎮守府配備の警備用と空母戦闘群の前衛哨戒用として建造した。
比較的小型(とはいえ全長115メートル・満載排水量3870トンであり、諸外国では十分に駆逐艦として運用される)の規模であり、それを第二次世界大戦中を彷彿とさせるように大量建造を行って配備した。量産性は極限までに高められており、各種レーダーやソナー・電算機等の高度な電子装備も兼ね備えた、汎用性の高い海防艦に仕上がっていた。
その次に原子力潜水艦となる。大日本帝国海軍連合艦隊は1951年8月15日に、原子力潜水艦北上(当時は伊500)を実用化させて以後、[攻撃型]と[弾道弾]を艦種名に付ける事により運用方法の違いを明確にしていた。
まずは攻撃型原子力潜水艦をみていく。1951年8月15日の当時は伊500とされた原子力潜水艦の実用化は、大日本帝国海軍連合艦隊に以後の潜水艦を原子力潜水艦とする事を決意させた。それは命名規則にも現れていた。
大日本帝国海軍連合艦隊は命名規則変更により、ミサイル巡洋艦を旧重巡洋艦から採用する事を決定した為に、必然的に旧軽巡洋艦の命名規則が余る事になった。その為に原子力潜水艦は軍艦に昇格させる事になり、旧軽巡洋艦の名称を原子力潜水艦に採用する事になったのである。こうして実用化当初は伊500だった原子力潜水艦は、北上と命名された。
その後原子力潜水艦北上の発展改良型として、原子力潜水艦球磨が1953年9月2日に実用化されている。この原子力潜水艦球磨は大日本帝国海軍連合艦隊にとって、ある種実験艦でもあった。原子力潜水艦北上はその船体自体は、第二次世界大戦時の伊号潜水艦と同じ形状をしていたのである。その旧来の設計による船殻が原子力潜水艦の利点を最大限に引き出し得なかった。伊400級譲りの大型の船体は原潜にとっての経済性を高めると判断されたが、船殻の設計そのものの見直しは急務とされた。そこで原子力潜水艦球磨は実験艦として、涙滴型船殻を初めて採用する事になった。この涙滴型船殻は流体力学的に優れており、核動力の強力な推進力との統合が最適であり原子力潜水艦の利点を最大限に引き出せる事が証明された。これにより歴代伊号潜水艦のような日本刀に似た船殻形状は廃止され、以後建造される原子力潜水艦は涙滴型船殻を採用するようになった。更に心臓部の原子炉も最新型のS5T(S:潜水艦、5:5世代目の炉心、T:東京芝浦電機製)原子炉が採用された。
そのS5T新型原子炉はこれまでの原子炉に比べて熱効率が改善され、核燃料棒の交換が容易になるという整備性が高められた。更に構造の単純化により信頼性が大幅に向上し、連続最大出力発揮時間は5500時間にも及ぶ事になった。涙滴型船殻の採用により原子力潜水艦球磨の水中速力は、29ノットにも達したのである。これにより原子力潜水艦球磨は完全なる新設計の原子力潜水艦即ち、水中戦に明確に指向された本格的な[真の潜水艦]の登場となり、これまでの単なる[可潜艦]から新時代の到来を告げた意義は大きく以後の大日本帝国海軍連合艦隊原子力潜水艦の、基礎を築き上げた重要な存在になるのである。
そして大日本帝国海軍連合艦隊はソマリア戦争までに、攻撃型原子力潜水艦は大井級と名取級を建造し攻撃型原子力潜水艦80隻を保有するに至ったのである。
次は弾道弾原子力潜水艦を見ていく。大日本帝国海軍連合艦隊はソマリア戦争時に弾道弾原子力潜水艦を55隻保有していた。それは大日本帝国の戦略核戦力に要として[平和の為の55隻]と呼ばれる弾道弾原子力潜水艦建造計画の成果だった。そして建造されたのが弾道弾原子力潜水艦黒潮級であった。世界初の潜水艦発射弾道弾搭載原子力潜水艦であり、強力の核戦力により圧倒的な抑止力を大日本帝国に齎す事になった。
もともと大日本帝国海軍連合艦隊は第二次世界大戦末期に潜水艦伊400級を、世界初の弾道弾潜水艦として運用した。潜水艦伊400級は竣工時は水上機を搭載し、その発艦用にカタパルトを装備する世界的にみても特殊な潜水空母だった。そんな伊400級に43式弾道弾をカタパルトから発射出来るように改装を行い、第二次世界大戦末期には潜水空母では無く弾道弾潜水艦として運用され、アメリカ合衆国やヨーロッパへの攻撃が行われた。そしてそれは第二次世界大戦終結後に、43式弾道弾に核弾頭を搭載する事で核抑止力として重宝される事になった。
その後第二次世界大戦末期に実用化した垂直発射式装填機構を、更に改良させた発射方式を確立させ[SHK(垂直発射口)]と呼ばれる区画上の発射装置として実用化された事が、派生型として潜水艦発射弾道弾の実用化に繋がった。そして実用化されたのが世界初の北極星潜水艦発射弾道弾(地球の自転軸を北極側に延長した天球面上の点天の北極近くにある輝星を北極星と呼ぶ事から、そのような極北まで到達するようなある種ゲン担ぎとして命名された)であった。
そして1960年7月20日には史上初の潜水艦からの発射試験が行われ、潜航中のSHKから行われた発射だった。黒潮級は16発のミサイルを搭載した最初の弾道弾潜水艦である。1962年5月6日には北極星弾道弾は核弾頭を搭載して実弾頭ミサイルの発射および核実験が行われた。これは大日本帝国において初めて実際の弾道核ミサイルを使用した試験となった。
これにより大日本帝国海軍連合艦隊は弾道弾原子力潜水艦黒潮級を55隻という、大量産を行い大日本帝国の[核抑止の三本柱]を確立する事に成功したのだ。
次は揚陸艦である。大日本帝国海軍連合艦隊は、回転翼機の発達に伴って、これを水陸両用作戦で活用するための研究に着手した。これは空中強襲の戦術的な利点と同時に、部隊の集結・散開を迅速に行えるために戦術核兵器の標的になりにくいこと、また放射性物質を含んだ津波の影響も避けやすいことにも着目したものであった。1947年12月には三菱重工製H-5を装備する実験飛行隊として、第1回転翼機飛行隊が編成され、同機の貧弱な輸送力にもかかわらず、1948年5月の上陸演習では改装戦標船を母艦とした空中強襲を実施して、その有用性を立証した。しかしながら戦後の軍事予算削減に加えて、水陸両用作戦という作戦形態の将来性が疑問視されたことから、回転翼機に関する研究はなかなか進捗しなかったのである。
その後1950年9月のアンツィオ上陸作戦で水陸両用作戦の価値が実証され、またイタリア戦争を通じて回転翼機の有用性が確認されたことから、1951年7月、海軍連合艦隊は回転翼機による空中強襲という構想を再検討することにした。これに伴い、その母艦となる回転翼機空母も検討されるようになった。
1954年8月には連合艦隊の水陸両用部隊は、空中強襲専用艦を建造するように提言した。これらの議論を受け空中強襲という構想の妥当性について検討するため、1955年には保管艦化されていた戦標船が、強襲回転翼機空母に改装された。これにより同艦は、世界で初めて回転翼機運用に適合させて改装された航空母艦となったのである。
だが強襲回転翼機空母という名称は更なる戦標船改装が計画された際にこれらの艦が、空母保有枠を圧迫するとの判断から『回転翼機揚陸艦』という新艦種が創設され改称された。しかし予算上の都合から戦標船の改装は中止されたものの、その後予算が編成され回転翼機揚陸艦が新造される事になった。それは世界初の新造回転翼機揚陸艦となった。また同級の竣工までの漸進策として、正規空母大鷹級2隻(大鷹・沖鷹)は正規空母から回転翼機揚陸艦へと改装される事になった。
正規空母大鷹級は全長280メートル、最大幅68メートル、速力33ノット、満載排水量68000トン、武装10センチ連装両用砲12基24門・40ミリ4連装機関砲40基・20ミリ4連装機関砲80基・10センチ20連装対空噴進砲20基、搭載機130機という巨大な空母だった。
その巨艦だからこそ回転翼機揚陸艦に改装される事になった。艦種変更に伴って施された改装は次の通りである。固定翼機の発着艦装置の撤去、主ボイラー・主機関の半減、両用砲の削減、機関砲の全廃、陸戦隊収容施設の設置(2000名)及び資材2000t収容場所の確保。更に前部エレベーターを潰して格納庫前半を2層に分け、資材・兵員用スペースを増設する改修も検討されたが、既に艦齢を重ねた艦であることから、これは断念された。
艦載回転翼機は当時の主力輸送回転翼機が想定され、45機が搭載された。
そして世界初の新造回転翼機揚陸艦として硫黄島級が建造された。硫黄島級は全長250メートルの船体に陸戦隊2000名と回転翼機40機、各種車輌が搭載可能で8隻が同時に建造された。
その回転翼機揚陸艦以外にも船渠型揚陸艦や戦車揚陸艦が多数建造されている。そして各種支援艦艇として車輌貨物輸送艦・弾薬運搬艦・高速戦闘支援艦・補給艦を海軍連合艦隊は大量に保有している。
そして大日本帝国海軍の特徴として、大規模な陸戦隊を有している事だった。第二次世界大戦までは海軍陸戦隊は上陸作戦では無く、鎮守府や艦艇警備を任務とするものだった。その後第二次世界大戦終結による大規模軍縮で、陸軍の師団数が削減され上陸作戦は陸軍の任務に於いては副次的なものにされた。
だがイタリア戦争勃発によるアンツィオ上陸作戦が行われ、上陸作戦ノウハウの維持は最優先事項だと判断された。そしてイタリア戦争後に国防省主導により軍事力の再査定が行われ陸軍師団数増加が決定したが、この時に陸軍が上陸作戦専従師団を配備するよりも、海軍陸戦隊を拡大して上陸作戦専従にする方が良いと結論付けられた。
こうして陸軍の上陸作戦専従師団からも人員が海軍陸戦隊に移籍し、海軍陸戦隊は4個陸戦師団を有する専門的な[水陸両用戦部隊]に生まれ変わる事になった。
これにより先述した回転翼機揚陸艦等を駆使して、上陸作戦の第一波として殴り込む部隊として先鋭的な存在に、海軍陸戦隊は組織される事になったのである。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




