表面的緊張緩和と新たな代理戦争
『サラワク危機』は大日本帝国とヨーロッパ共同体の全面核戦争一歩手前まで進んだが、両国の理性が最終的に危機を終結させる事になった。そして危機の切っ掛けになったサラワク共和国の核ミサイルをヨーロッパ共同体は全面的に撤去した。大日本帝国もトルコ共和国に配備していた準中距離弾道弾の撤去を開始した。
そこまではサラワク危機における両国の合意事項だったが、ヨーロッパ共同体は更にサラワク共和国駐留の軍事力を全て引き揚げたのである。そのある種サラワク共和国を見捨てるヨーロッパ共同体の行動に、大日本帝国は驚いた。だがヨーロッパ共同体にとってこの行動は、主にサラワク危機の間の2つの要因から結論付けられた行動だったのである。
まずは大日本帝国の圧倒的なまでの海軍連合艦隊の戦力と動員体制にあった。何せ大日本帝国海軍連合艦隊は30隻の空母の他に、原子力ミサイル巡洋艦を筆頭に巡洋艦80隻、ミサイル駆逐艦220隻、海防艦(諸外国のフリゲート艦相当)570隻、攻撃型原子力潜水艦80隻、弾道弾原子力潜水艦55隻、補給艦・輸送艦・各種支援艦多数という世界最強海軍に相応しい陣容を誇り、それが全てサラワク海上封鎖に投入されたのだ。ヨーロッパ共同体はサラワク共和国を大日本帝国の裏庭と言っても良い、南シナ海での楔として利用しようとしたが圧倒的な海軍戦力の前にはサラワク共和国の地政学上の位置では簡単に封じ込められるのが分かったからだ。
これがサラワク共和国がボルネオ島全体での国家なら利用価値はあったかもしれないが、ボルネオ島の南部はインドネシア領でありサラワク共和国はボルネオ島北部の一部にしか面しておらず、だからこそ簡単に大日本帝国により封じ込められると分かったのだ。
そして2つ目はサラワク危機に際してサラワク共和国の根拠無き強気の姿勢に、ヨーロッパ共同体が愛想を尽かしたからだ。サラワク危機の終幕にサラワク共和国からの書簡では、大日本帝国への核攻撃を求めていると解釈できる内容でこれはヨーロッパ共同体を怒らせた。ヨーロッパ共同体も事態が制御不能になりつつあることを恐れていた。そしてヨーロッパ共同体はもはや自らでは、サラワク共和国は制御出来ないと判断したのだ。その為にヨーロッパ共同体はサラワク共和国から核ミサイルを撤去すると、大日本帝国に対してサラワク共和国駐留の軍事力を引き揚げるという通告と実施を同時進行で行ったのだ。
これは大日本帝国にしてみれば、完全に予想外であった。あの核戦争直前までの危機は何だったのか、という意見は政府内のみならず国民世論等でも噴出した。だがこの千載一遇の好機を大日本帝国は見逃さなかった。台湾府に於いてサラワク王国亡命政府を樹立している、サラワク王国国王ヴァイナーブルックを岸信介総理が直々に訪問した。そしてサラワク共和国に特殊部隊と帝国情報保安局の特殊工作員を派遣し、共和主義勢力を物理的に排除し王政復古を行うと断言したのである。
サラワク王国国王ヴァイナーブルックにしてみれば、遂に待ち侘びた瞬間の到来であった。大日本帝国が亡命政府を支援していたが、当の本人達は何時までこの状態が続くのか心配だった。だが好機が訪れたのだ。こうして1962年11月11日に大日本帝国は攻撃型原子力潜水艦で、サラワク共和国に特殊部隊と帝国情報保安局の特殊工作員を派遣した。そこからは圧巻であった。
帝国情報保安局の特殊工作員は共和主義勢力を徹底的に炙り出し、王政復古派の支持率を上昇させた。そこに特殊部隊が共和主義勢力を物理的に排除していった。そうなると後は簡単であった。サラワク王国国王ヴァイナーブルック以下王族は、大日本帝国が用意した専用機に乗り込みサラワク共和国に堂々と降り立ったのである。そして国民は国王ヴァイナーブルックを熱烈に出迎えた。こうしてサラワク共和国は再びサラワク王国に戻り、大日本帝国にとって重要な大東亜共栄圏加盟国に戻ったのだ。全てはサラワク革命前に戻ったのである。
『ヨーロッパ共同体にとっては、ただただ不必要な出費が嵩んだだけだった。サラワク革命への支援、サラワク共和国成立後の経済支援と軍事支援、サラワク危機に於いての軍事力の展開と各種弾道弾配備、エスカレーション理論による軍事力の展開、サラワク共和国までの輸送船団派遣、等々ヨーロッパ共同体はサラワクに関連しては金をドブに捨てたようなものだった。
イタリア戦争に続いて、ヨーロッパ共同体は再び代理戦争に敗北してしまったのだ。だがヨーロッパ共同体は今回のサラワク危機に於いての最大の成果は、トルコ共和国から大日本帝国の準中距離弾道弾基地を撤去させた事だとしていた。これをヨーロッパ共同体は最大の成果だとしていたが、そもそもの南シナ海で楔を打ち込み大日本帝国に至近距離から脅威を与える、という目的には失敗していた。
そしてヨーロッパ共同体が最大の成果としていたトルコ共和国からの準中距離弾道弾撤去も、大日本帝国は[利点]でしか無かった。大日本帝国がトルコ共和国に配備していた準中距離弾道弾である[48式弾道弾]は、第二次世界大戦中に実用化した43式弾道弾の発展改良型であった。48式弾道弾も液体燃料を使用するものであり発射準備に時間が掛かり、ヨーロッパ共同体による先制攻撃に対して脆弱であり、軍事的には既に旧式化していたのである。
その為にこの当時大日本帝国は48式弾道弾の撤去を補って余りある、より強力で隠密性が極めて高い[北極星潜水艦発射弾道弾]を搭載した、弾道弾原子力潜水艦黒潮級を地中海に配備し始めていたのだ。しかも第二次世界大戦末期に実用化した垂直発射式装填機構を、更に改良させた発射方式を確立させ[SHK(垂直発射口)]と呼ばれる区画上の発射装置として潜水艦発射弾道弾を装備していた。SHKは規格化され、潜水艦発射弾道弾は巨大である為に1門に1発装填だが、水上艦では各ミサイルによって変化していた。対空ミサイルは1門に4発、対艦ミサイルと巡航ミサイルは2発、対潜ミサイルは6発が、SHKに装填されていた。
話が少し脱線したが、この北極星潜水艦発射弾道弾を搭載した弾道弾原子力潜水艦黒潮級の実用化により大日本帝国は、[核抑止の三本柱]を確立する事に成功していたのだ。核抑止の三本柱は、大陸間弾道弾・戦略爆撃機・潜水艦発射弾道弾の3種類になる。その中で潜水艦発射弾道弾は、海神潜水艦発射弾道弾を搭載した戦略型原子力潜水艦黒潮級の実戦配備により、三本柱で最も隠密性が高い核抑止力になったのだ。
何せ世界初の弾道弾原子力潜水艦伊400級は元々は水上機発艦用のカタパルトを流用して、43式弾道弾を発射可能としていたがその為には海面に浮上しなければならなかった。だが北極星潜水艦発射弾道弾は水中からの垂直発射を可能とし、隠密性と奇襲性が非常に高い核抑止になっていたのだ。この北極星潜水艦発射弾道弾を搭載した弾道弾原子力潜水艦黒潮級の地中海配備により、トルコ共和国は準中距離弾道弾基地撤去を了承したのだ。これにはイタリア王国も賛同した。何せ地中海というヨーロッパ共同体の下腹部に、大日本帝国の強力な核が配備されるのだ。その抑止力は計り知れないものであった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋
サラワク危機という危うく人類滅亡目前を体験した大日本帝国とヨーロッパ共同体は、緊張緩和の始まりとして日欧間の直接通信回線設置について議論を開始した。両国の外務省実務者協議として、アフリカや南米の第三世界諸国を開催地にして議論は深められた。
だがそんな状況で、いやだからこそ大日本帝国とヨーロッパ共同体による軍拡は加速された。大日本帝国は大陸間弾道弾や潜水艦発射弾道弾・戦略爆撃機を増強し、核兵器そのものの大威力弾頭を次々と量産した。威力が『メガトン』単位になる核弾頭が配備されるようになったのも、この時期からであった。これにはヨーロッパ共同体も追随し、核戦力の近代化と量産を急ぐ事になったのである。
この頃核保有国は大日本帝国とヨーロッパ共同体のみならず、イタリア王国・ロシア連邦・アメリカ合衆国にまで拡大していた。イタリア王国は代理戦争の舞台となった事とヨーロッパ共同体の南部に位置する事、ロシア連邦もヨーロッパ共同体の東部に位置する事が要因であり大日本帝国が核関連技術を提供して核保有国になった。アメリカ合衆国もヨーロッパ共同体による技術支援により核保有国となった。
その増大した核保有国の規律維持とサラワク危機の核戦争一歩手前にまでエスカレートする程激しく対立した苦い経験から、大日本帝国とヨーロッパ共同体は歩み寄り1963年8月5日に部分的核実験禁止条約(正式名は大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約という)に調印した。
この条約は地下を除く大気圏内、宇宙空間および水中における核爆発を伴う実験の禁止を内容とするものだった。大日本帝国とヨーロッパ共同体の緊張緩和に向けた動きだったが、核実験に伴う「死の灰」による健康被害・環境破壊への国際的な批判も背景となった。
この条約に関して大日本帝国池田勇人総理は、サラワク危機後の1963年3月10日東京帝国大学の卒業式での『平和のための戦略』という演説の中で、ヨーロッパ共同体と核実験禁止条約について話し合うことを明らかにした。この演説の後に部分的核実験禁止条約は結ばれることとなった。この条約は東西冷戦初の軍縮合意であり核開発競争が活発化しつつある中で、大日本帝国とヨーロッパ共同体の両大国が歩み寄り条件付きながら核開発を抑制する内容となっており、冷戦史上画期的な出来事と評されることもある。また技術力の低い国ではそもそも地下空間において核兵器の開発をすることは困難であったため、未開発国や後進国への核の拡散をある程度防ぐ効果があった。
そして大日本帝国とヨーロッパ共同体はサラワク危機での核戦争一歩手前の惨劇を、繰り返さない為にもホットラインを設置した。これにより大日本帝国とヨーロッパ共同体の間に直接通信回線が開設され、危機時の意思疎通が可能になった。
世界は東西両陣営が核兵器と通常兵器による軍拡競争、そして月レースと呼ばれる宇宙開発競争に狂奔しながらも表面的緊張緩和を迎えて、一時的に落ち着きを取り戻した筈だった。だが南北分断で固定化された筈の、ソマリアに於いて再び東西両陣営の代理戦争が勃発する事になった。それが1964年8月の『アデン湾事件』であった。
『1954年7月21日のソマリアの南北分断以後ソマリア連邦軍と大日本帝国軍は共同で、空挺降下や小型舟艇を使用したコマンド部隊による北ソマリアへの越境襲撃作戦(34甲作戦)を実行していた。それはソマリア分断以後もソマリアの地に眠る資源を巡る南北の対立が続いており、その情勢は混沌としたものであった。これにより大日本帝国海軍連合艦隊はインド洋・アラビア海・ペルシャ湾を担当する第2艦隊(司令部:セイロン共和国トリンコマリー軍港)から、ミサイル駆逐艦を派遣しアデン湾で哨戒行動を開始させていた。任務の公式目的は、領海を侵犯して北ソマリアの沿岸防衛能力に関する情報を得ることにあり、同様の任務はヨーロッパ共同体やアメリカ合衆国の沿岸でも行われていた行動であった。
ミサイル駆逐艦の他にも同様の任務に当たっている大日本帝国海軍連合艦隊艦艇があり、34甲作戦の一環として同時期に行われていたソマリア連邦のコマンド部隊による北ソマリア沿岸への襲撃作戦を支援していた。
7月30日、ソマリア連邦海軍の哨戒艇数隻がコマンド部隊を乗せて港を出港し、31日にアデン湾の北ソマリア軍基地2ヶ所を攻撃した。大日本帝国海軍連合艦隊第2艦隊のミサイル駆逐艦は攻撃を終えて帰還中のソマリア連邦海軍哨戒艇と遭遇し、アデン湾での哨戒を続けた。
8月2日、3隻の北ソマリア海軍魚雷艇がソマリア連邦海軍艦艇と間違え、大日本帝国海軍連合艦隊第2艦隊のミサイル駆逐艦に対し魚雷と機関銃による攻撃を行った。その攻撃に対してミサイル駆逐艦は直ちに反撃を行い、第2艦隊から万が一に備えてペルシャ湾に進出していた空母戦闘群の艦載機の支援も受け、魚雷艇のうち1隻を撃破、他の2隻にも損害を与えた。ミサイル駆逐艦は機関銃弾により軽微な損傷を受けただけであったが、別のミサイル駆逐艦と合流し、紅海へと撤退した。
8月4日より、ミサイル駆逐艦2隻による北ソマリア沿岸への哨戒行動があらためて開始された。4日夜間にミサイル駆逐艦は望遠鏡により北ソマリア軍が攻撃してくることを確認した。その後約2時間にわたり2隻のミサイル駆逐艦は北ソマリア軍艦艇と思われるレーダー目標に対して発砲した。
大日本帝国側は自国艦艇が公海において北ソマリア側から攻撃を受けたと発表したが、実際には北ソマリア側の主張する領海内に侵入していた。また8月4日の交戦は戦果確認ができず、誤認の可能性が指摘されたが隠蔽された。8月4日池田勇人総理は、海軍連合艦隊のミサイル駆逐艦がアデン湾で攻撃されたとの演説を行った。大日本帝国帝国議会は、貴族院248対2、衆議院500対0の圧倒的多数で、池田勇人総理が攻撃に対し相応の措置を取ることを認める決議(アデン湾決議)を行った。報復として北ソマリア海軍の魚雷艇基地に対する、大規模軍事作戦が行われる事になった。その主力はインド洋・アラビア海・ペルシャ湾を担当する第2艦隊の、空母戦闘群が担うことになった。
空母から飛び立つ夥しい数の航空機に及ぶ4 ヶ所の魚雷艇基地と、石油貯蔵施設に対する攻撃で大規模軍事作戦は構成された。この作戦で58隻の魚雷艇と石油貯蔵施設を破壊した。この大規模軍事作戦以後大日本帝国は空母戦闘群を使いソマリアにおける軍事活動を拡大させ続けた。そんな中で1964年の秋にヨーロッパ共同体は北ソマリアへの全面的な軍事援助の開始を表明し、ヨーロッパ共同体は軍事顧問団を派遣。1965年2月には首相が北ソマリア入りした。
これまで北ソマリア軍への軍事援助には軽火器の供給は豊富にあったが、重火器の供給はほとんどなかったため、北ソマリアはゲリラ的な攻撃しか行うことができなかった。これ以降ヨーロッパ共同体から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現する。
この時期に大日本帝国軍事顧問団は、共和主義革命戦線の兵力についての分析を行っていた。1965年当時大日本帝国軍の推定では、共和主義革命戦線の主力軍兵力は1961年1万7000人、1962年2万3000人、1963年2万5000人、1964年3万4000人でほぼ3年間に倍増し、この他の自衛民兵や地方の小部隊組織の総人数は1960年7000人と見積もっていたのが1964年には10万6000人に達すると推定されて、1964年時点での兵力は合計14万人と見ていたのである。
そんな中で1964年11月にソマリア連邦空軍基地が襲撃され大日本帝国の軍事顧問5人が死亡し、クリスマスイブにはモガディシュ市内のホテルで爆弾が仕掛けられて民間の日本人2人が殺害された。その後ヨーロッパ共同体の首相が北ソマリアを訪問していた1965年2月7日に、大日本帝国軍事顧問団基地が共和主義革命戦線によって攻撃され、駐留大日本帝国軍将兵のうち7名が死亡し109名が負傷した。
この襲撃は、総理補佐官と首相官邸アフリカ問題担当局長が大日本帝国の調査団としてモガディシュに到着した翌朝の出来事であったため、総理補佐官はこれを北ソマリア政府からの挑発であると受け取り、この時に既にソマリア連邦に派遣されていた陸軍部隊司令官と協議して軍事行動の強硬論に傾き、これが池田勇人総理が北爆(北ソマリアに対する爆撃)を決断するきっかけとなった。
しかし当時の北ソマリア軍側は前線部隊と司令部が綿密に連携するための通信能力をもっておらず、この攻撃は第五軍管区の一指揮官が独自判断で行った、わずか30名での遊撃的作戦に過ぎなかったことが後に判明している。
とはいえこれによりイタリア戦争より大規模な代理戦争である、ソマリア戦争が勃発したのである。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




