サラワク危機5
『26日午後10時に第二種警戒体制となり準戦時体制が敷かれた。ヨーロッパ共同体との全面戦争に備え大日本帝国国内の核弾頭搭載の弾道弾を発射準備態勢に置き、全ての基地のみならず大東亜共栄圏に駐留する大日本帝国軍基地も臨戦態勢に置いた。また核爆弾を搭載した戦略爆撃機や戦略型弾道弾原子力潜水艦が進出し、戦略爆撃機は空中給油機による空中給油を受けながら24時間体制でロシア連邦や北極近辺のヨーロッパ共同体空域近辺を複数機で飛行し続け、戦争勃発と攻撃開始に備えた。
この第二種警戒体制の発令を受けて[全面核戦争]の可能性を大日本帝国中のマスコミが報じたことを受け大日本帝国国民の多くが店舗へ、飲料水や食料などを買いに殺到する事態が起きたほか、『サラワクへの大日本帝国の介入』を非難する一部左翼団体のデモが行われた。
10月27日(土)
10月27日は後に「暗黒の土曜日」と呼ばれることになった。10月27日に危機は極限にまで達した。東京のヨーロッパ共同体大使館で、大使館員が書類を焼却する姿が目撃され開戦に備えているとの臆測が飛んだ。そしてサラワクの基地建設が進み、海上封鎖の封鎖線にヨーロッパ共同体船舶6隻と西側陣営の3隻の船舶が向かっているとの情報が入っていた。
この日の朝パリではヨーロッパ共同体はにわかに自信を深めつつあった。封鎖宣言から5日過ぎても大日本帝国は攻めてこない、ミサイル撤去の条件にサラワクを侵攻しない約束以上の譲歩も大日本帝国は考えているとの感触を得ていた。当時大日本帝国で著名な評論家であった人物が25日の新聞コラムで《サラワクのミサイル》と《トルコのミサイル》とを「体面を保ちつつ」取り引きするのはどうかと論じていたのである。評論家が岸信介政権の意思を代弁していたのかどうかは明らかではないが、ヨーロッパ共同体は大日本帝国の柔軟な対応を示唆するものと感じ取った。そして「トルコの大日本帝国軍基地の清算まで達成できれば我々の勝ちだ」と語った。早速昨日とは著しく内容を異にする書簡を準備し、前日送信に手間取って遅くになったことを考えてパリ放送で公表した。
そして東京時間でこの日の午前中に新たなヨーロッパ共同体の書簡の内容がラジオを通じて国家安全保障会議に入って来た。前日の内容に全く触れずにトルコにあるミサイルの撤去を交換条件として要求してきたのである。これを聞いた東京では前日届いた書簡が柔軟な内容であったのに、朝にラジオで聞いた今回の書簡の内容が強硬であったので戸惑っていた。トルコはヨーロッパ共同体と境界を接し、トルコ国内の核ミサイルが直接ヨーロッパ共同体領内に向けられているので、この時代のヨーロッパ共同体にとってトルコの大日本帝国軍のミサイルは脅威であった。
ただし1960年代に入ってトルコに配備しているミサイルはすでに旧型であり、大日本帝国では原潜などに移動型ミサイルの配備が進み、さらに日欧間のミサイルの保有数で圧倒的に大日本帝国が優位であり、必ずしも核ミサイルの固定基地が絶対必要という時代ではもうなかったが、簡単に撤去を了解するとヨーロッパ共同体の圧力に屈したことを印象づけ、他の同盟国との信頼が低下することを岸信介総理は懸念していた。
そしてこの日の昼頃、サラワク上空を偵察飛行していた大日本帝国空軍の偵察機がヨーロッパ共同体陸軍の地対空ミサイルで撃墜され、操縦していた少佐が死亡する事件が起こった。実は23日の会議で、もし偵察飛行中に空軍機が撃墜されるような事態が生じた場合は、地対空ミサイル基地に1回だけ報復攻撃を加え、その後も相手が攻撃を加えて来た場合は全面的に叩き潰す方針を決定していた。従ってこれに対する行動は国家安全保障会議のほぼ全員が地対空ミサイル基地の破壊で一致した。
しかし岸信介総理はこの決定を引き戻し、サラワクに対する攻撃は、イタリア王国や大日本帝国の準中距離弾道弾が配置されているトルコ共和国に対するヨーロッパ共同体の攻撃を誘発しかねないとしてきわめて慎重な姿勢を示し、すぐに反撃ではなく1日待つこととした。しかし統合幕僚作戦司令本部は一気に態度を硬化して即時空爆を主張、10月30日の時点で大規模空爆を仕掛け、即侵攻部隊を送るべきとの意見が強まった。事態の緊張がさらに進み、危機が制御不能な段階までエスカレートしてしまった時の重大な結末を岸信介総理は恐れていた。
さらに悪い事件が起こった。ロシア連邦を飛行中であった大日本帝国空軍偵察機が飛行中のミスにより、ヨーロッパ共同体領空に深く侵入する事態が生じた。ヨーロッパ共同体空軍の戦闘機がスクランブル発進したが幸い発砲はなく、偵察機はまもなく針路を取り戻して領空を出た。しかし岸信介総理は大日本帝国が核先制攻撃のための目標を調べているのではないかとヨーロッパ共同体に受け取られることを懸念した。結局この事件は余波を招く事はなかったが、後にヨーロッパ共同体側は戦闘態勢に入っている時に核爆撃機と誤認されかねない危険な事態であった、と述べている。
またヨーロッパ共同体海軍の4隻のディーゼル潜水艦 が1962年10月1日ツーロンを出港し、サラワク共和国の港へ向かっており、ちょうどサラワク危機の時に、大日本帝国海軍が設定した海上封鎖線近くにいた。4隻とも核魚雷を搭載し、もし攻撃を受けたら発射するよう口頭命令を受けていた。大日本帝国海軍連合艦隊はサラワク海域に向かう潜水艦を発見し、これに対してサラワク海域を離れるように警告しても従わない場合、被害のない程度の爆雷を投下して警告することになっていた。
10月27日昼頃、冷戦終結後になって分かったことだが、大日本帝国海軍連合艦隊は海上封鎖線上で警告を無視してサラワク海域に向かうヨーロッパ共同体海軍の潜水艦に対し、その艦が核兵器を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下した。
攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだったが、副艦長の強い反対によって発射を止め、また浮上して交戦の意思がないことを表し、その後海上封鎖線から去ることにより核戦争は回避された。
この日午後の会議で「トルコ共和国のミサイルで取り引きすれば、サラワク共和国のミサイルを片付けられるのに、苦労して血を流してもサラワク侵攻はうまくいかない。もし後世にそう記録されたら戦争をやってよかったとは言えない」と岸信介総理は呟いてい。しかし会議ではトルコのミサイル撤去に反対が多く、大東亜共栄圏が分裂しかねないと懸念する意見もあった。
そこでこの日に届いた書簡(トルコのミサイル撤去)を敢えて無視し、昨日届いた書簡にのみ回答して、その書簡の提案(サラワクを今後攻撃しない)を受け入れる案が出された。そして岸信介総理は前日に届いた柔軟な内容の書簡に対してのみ回答する方針を決め、佐藤栄作大蔵大臣と官房長官に回答の起草を命じた。そして大東亜大使が推敲して、同日午後8時に公表した。
この回答の中身は[3つの条件]
1.サラワクのミサイル基地建設の中止
2.攻撃型ミサイルの撤去
3.大東亜共栄圏の査察団受け入れ
を提示してこの条件を了解すれば、大日本帝国は海上封鎖を解き、サラワクを攻撃・侵攻しないと確約するものであった。
大日本帝国からの文書が送信された後、佐藤栄作大蔵大臣は岸信介総理の求めで駐日ヨーロッパ共同体大使と夜8時頃に密かに会うこととした。この駐日ヨーロッパ共同体大使との席で佐藤栄作大蔵大臣は、この文書は総理個人のものであり、軍部からの強硬な意見を無視した決断であること、空軍機の撃墜と操縦士の死亡は軍部を強く刺激してもはや平和的な解決を図るには時間が無くなったことを強調した。そして懸案のトルコのミサイル撤去について「サラワクのミサイル撤去が確認された段階で必ずトルコから撤去する」として、もしこの約束が漏れたら責任は全てヨーロッパ共同体側にあり、この提案全てが反故になると強く告げることを忘れなかった。
10月27日は終日会議に追われた。大日本帝国空軍機撃墜で空爆を主張するメンバーが増え、書簡の回答を作り終えて送信した後は、午後8時過ぎにいったん休憩をとり岸信介総理は食事となった。午後9時に再開してしばらくしてから明朝10時に会議を開くことでこの日は終わった。翌日の会議は10月30日に空爆か侵攻を行うかで開かれる予定であった。緊張と疲労がまじった中で、会議に出席した誰もが30日火曜日には戦争が起こると予測していた。西竹一国防大臣は後に「あの日見た夕日は美しく、その時この夕日を生きてもう一度眺めることができるのだろうか、と思った」と語っている。
実はこの日の夜、サラワク共和国はヨーロッパ共同体に躊躇いが生じているのではないか、と心配し始めていた。日欧間の取り引きも噂されていて、思い切ってヨーロッパ共同体を激励するつもりで書簡を送ることにした。そして駐サラワクヨーロッパ共同体大使を呼んで口述させた書簡をヨーロッパ共同体本国宛てに送った。この書簡は時差の関係からパリの28日朝に着いているが、この書簡がサラワク共和国の思いとは全く逆の効果を生じることになった。
この日の朝、パリでは悪い情報が入った。前述の大日本帝国空軍偵察機の撃墜があり、東京時間で夕方に岸信介総理が新たな声明を発表する準備をしているという観測があり、そこへサラワク共和国からの書簡が届いた。サラワク共和国からは大日本帝国への核攻撃を求めていると解釈できる内容でこれはヨーロッパ共同体を怒らせた。ヨーロッパ共同体も事態が制御不能になりつつあることを恐れていた。
パリ時間12時にヨーロッパ中央幹部会を招集して、事態が急速に進展する中で、岸信介総理からの新しい書簡と駐日大使から外務省を通じて指導部に宛てられた報告が届いていた。ヨーロッパ共同体はこのチャンスを逃すことなくその場で返信を口述した。そして大日本帝国にこの返信がすぐに届くように前回と同じくパリ放送を通じて早急に読み上げるよう命じた。この声明に関するニュースはまもなく世界に広がった。そして国防相はミサイル基地解体を駐サラワク共和国ヨーロッパ共同体軍総司令官に命じた。
東京時間10月28日午前9時、ヨーロッパ共同体はパリ放送でミサイル撤去の決定を発表し、同時に大日本帝国でもテレビ・ラジオで放送されて伝わった。ヨーロッパ共同体は大日本帝国がサラワク共和国に侵攻しないことと引き換えにサラワク共和国のミサイルを撤去することに同意したのであった。大多数の国民や閣僚達は自宅で朝のテレビ・ラジオで、夢かと思ったと語っている。国防省では前日の総理提案が拒否された場合の対応策を協議するために召集されていた。西竹一国防大臣は早朝に起きて「侵攻一歩手前の措置」について計画を作成していた。しかし統合幕僚作戦司令本部のメンバーはこの放送を疑い、空軍統合総長源田実大将らは30日に空爆をすべきだとの文書を岸信介総理にあらためて提出した。連合艦隊司令長官神重徳大将も不満を露わにして即時侵攻を主張した。しかし首相官邸は深い安堵感に包まれていた。
他方サラワク共和国は激怒していた。ヨーロッパ共同体から何ら事前の通告もなく、サラワク共和国はこれを降伏とみなした。サラワク共和国を攻撃および侵攻しないという約束のもとで自国に搬入したミサイルを撤去する空手形になるかも知れないものであり、サラワク共和国の安全保障を取引の材料にされた事に我が耳を疑った。この日ヨーロッパ共同体からのサラワク共和国宛ての書簡が届き、自制を求めるとともに大日本帝国の攻撃が差し迫っていたというサラワク共和国考えを肯定した上で岸信介総理によるサラワク不侵攻の確約は大きな勝利であり、これによりサラワクの安全が確保されたという評価を押し通して協議する時間が無かったのだと主張した。
この書簡には、トルコのミサイルの撤去とサラワクのミサイルの撤去とが取り引きされたことには触れなかった。サラワク共和国はその後、ミサイル撤去の際に様々な行動をすることになった。後の回想によれば、大日本帝国の度重なる偵察と海上封鎖に興奮したサラワク共和国はヨーロッパ共同体に大日本帝国を核攻撃するように迫ったとされ、ヨーロッパ共同体の方も核戦争をも厭わない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになっていった。
後の歴史学者の間では、当時のヨーロッパ共同体第一副首相の強い進言がサラワク共和国の核ミサイル撤去をヨーロッパ共同体に踏み切らせたと考えられている。
ヨーロッパ共同体は岸信介総理の条件を受け入れ、サラワクに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、早くも11月中には貨物船でヨーロッパ共同体に送り返した。岸信介総理もサラワク共和国への武力侵攻はしないことを約束、その後1963年4月トルコにある大日本帝国軍の中距離弾道弾の撤去を完了した。なお大日本帝国は偵察機をヨーロッパ共同体のミサイル撤去声明の直後より公然とサラワク共和国内や港湾上空に飛行させ、ミサイルが完全に撤去されたか否かを調査し、ヨーロッパ共同体軍もこれらの大日本帝国空軍の偵察機を撃墜することをヨーロッパ共同体軍の現地司令官やサラワク共和国軍に対し行わないように厳命している。
サラワク共和国は協力を拒み、大日本帝国とヨーロッパ共同体の間で合意した大東亜共栄圏監視下での兵器撤去の査察を妨げた。彼は査察条件について合意する前に自らと協議しなかったことで憤っていた。10月30日に現地査察についての取り組みを拒絶した。これによりヨーロッパ共同体は第一副首相をサラワク共和国に派遣した。第一副首相がサラワク共和国に行く前にサラワク共和国は大日本帝国に、
1.領空侵犯の全面的停止
2.海上封鎖および禁輸措置の解除
3.体制転覆活動の停止
4.海賊行為の中止
の4項目の要求を出したが、結局大日本帝国は無視した。
それどころか第一副首相が途中大東亜共栄圏本部に寄った際に、大日本帝国大東亜大使から新たに攻撃的兵器とみなしサラワク共和国から撤去を要求する表を手渡されて、その中に軽爆撃機も含まれていて、11月4日にヨーロッパ共同体は憤りをもって反対する返信を行っている。
そしてサラワク共和国に滞在して説得に難渋していた第一副首相も「ヨーロッパは大日本帝国の新たな要求に応じることはない」とサラワク共和国に明言していた。しかし結局11月20日にヨーロッパ共同体が軽爆撃機の撤去に同意し、岸信介総理はその同意をもって海上封鎖の終了を宣言した。国防省は軍の警戒態勢を解き、サラワク危機は幕を閉じた。
そしてこの事から冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになる(日欧緊張緩和)。この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれた。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




