サラワク危機2
『1962年10月9日、大日本帝国空軍は偵察機と偵察衛星によるサラワク共和国ロングサン一帯の偵察を提言した。サラワク共和国からの人的情報で特に怪しいと見た地域である。岸信介総理はすぐに許可したがこの任務は悪天候のため何日か延期となり、ようやく10月13日午後11時半に新南群島の空軍基地から偵察機が飛び立ち、偵察衛星も撮影を開始した。そして翌10月14日の朝までには偵察機と偵察衛星はサラワク共和国上空で偵察飛行と撮影を行い、偵察機は空軍基地に帰還し偵察衛星からはフィルムが投下された。
この偵察機と偵察衛星が撮影した写真について、翌15日月曜日の午前に帝都東京の国防省外局の国家写真解析局でフィルムの解析が行われた。技術仕様書や、ヨーロッパ共同体でミサイル搭載車がパレードした際の写真と見比べて解析した大日本帝国空軍と帝国情報保安局の解析班は、大日本帝国を射程内とするヨーロッパ共同体製準中距離弾道弾(MRBM)の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道弾(IRBM)を発見した。
これらの写真は10月16日朝に帝国情報保安局高官によって首相官邸に届けられた。岸信介総理は16日午前9時に国家安全保障担当補佐官から報告を受けて11時45分から緊急に国家安全保障会議を招集する決定を下した。しかもこの会議にはいつものメンバーに加えて、それ以外の顔ぶれを集めたので後に国家安全保障会議執行委員会と呼ばれることとなった。
主な参加者は内閣総理大臣が岸信介、国防大臣が西竹一(陸軍は退役している)、大蔵大臣が佐藤栄作、通商産業大臣が池田勇人、統合幕僚作戦司令本部総長が服部卓四郎元帥、海軍軍令部総長が有賀幸作大将、連合艦隊司令長官が神重徳大将、陸軍参謀総長が瀬島龍三大将、空軍統合総長が源田実大将、という強力な布陣だった。
この席で岸信介総理は直面する危険とこれに対処するあらゆる行動を即時徹底的に調査するように命じた。そして徹底した機密保持も命じた。この10月16日から13日間が歴史に深く刻まれ核戦争の寸前までいった[サラワク危機]の期間である。
そして16〜19日までの96時間が午前・午後・夜間を問わず会議の連続であったという。その間に新しい空中写真の分析が進み、近距離用攻撃用ミサイルが配置された地点が6カ所に上り、中距離弾道弾(IRBM)用の基地にするために掘られた個所が3カ所見つかった。
ここで国家安全保障会議執行委員会ではこれから行動に移す可能な手段として、6つの選択肢が提示された。
1.ヨーロッパ共同体に対して外交的圧力と警告および頂上会談(外交交渉のみ)
2.サラワク共和国への秘密裏の接触
3.海上封鎖
4.空爆
5.軍事侵攻
6.何もしない
以上の6つの選択肢だった。そして 1.の外交交渉のみと 6.の何もしないが最初から真剣に討議された。18日夜の段階でも外交交渉のみの案を支持するメンバー(主に外務省関係者)もいたが、岸信介総理は、1.と 6.のどちらも却下した。2.のサラワク共和国への接触も相手は、サラワク共和国ではなくヨーロッパ共同体が相手であることで却下となった。そして 5.の軍事侵攻も1人(空軍統合総長源田実大将)を除いて積極的な意見は出てこなかった。
岸信介総理の「侵攻は最後の手であって最初の手ではない」との意見が支持された結果だった。残るは 3.の海上封鎖か 4.の空爆で、最初は空爆が有力であった。少なくとも17日の段階まで岸信介総理も空爆に傾いていた。
西竹一国防大臣は、16日夕方の会議で海上封鎖をしてサラワク共和国の動きを見守り、その反応によってはヨーロッパ共同体と戦うと述べた。外務大臣は、事前警告無しの空爆は歴史に汚名を残すと述べ、この事前警告をした場合は逆にヨーロッパ共同体に反撃のチャンスを与え、かつ反撃に乗り出さざるを得ない状況に追い込んで、却って危険な状況となることが予想されると語った。
統合幕僚作戦司令本部総長服部卓四郎元帥は夕方までの間に他の参謀たちと協議して、1回の外科手術的空爆では不十分で、サラワク共和国の軍事的な目標全体を対象とした大規模な空爆が必要と認識していた。
17日の会議で外務大臣は「平和的解決手段がすべて無駄に終わるまで空爆などはしてはなりません」と岸信介総理に強く主張した。ここで空爆の前に事前警告の必要が議論の焦点となった。統合幕僚作戦司令本部のメンバーはサラワク共和国への空爆を支持していたが、西竹一国防大臣や佐藤栄作大蔵大臣は海上封鎖を主張した。帝国情報保安局長官は事前通告無しの空爆には反対であり、ヨーロッパ共同体に24時間の猶予を与えるべきで、この手順を踏んで、しかし最後通牒に応じない場合に攻撃を行うべきと主張した。連合艦隊司令長官神重徳大将は、発見されたミサイルを早急に破壊するための外科手術的空爆に賛成した。ここで岸信介総理は鳩山一郎前総理に電話で意見を聞いているが、前総理はサラワク共和国にある軍事目標全体への空爆を支持した。一方池田勇人通商産業大臣はトルコ共和国に配備した準中距離弾道弾と、サラワク共和国にある核ミサイルとを取り引きすることを検討するよう求めた。
18日の会議で佐藤栄作大蔵大臣は[5つの試案]として
1.1週間の準備と大東亜共栄圏加盟国への通告の後に24日に中距離弾道弾の施設を爆撃する
2.ヨーロッパ共同体への警告の後に中距離弾道弾の施設を爆撃する
3.ミサイルの存在・今後阻止する決意・戦争の決意・サラワク共和国侵攻の決意をヨーロッパ共同体に通告する
4.政治的予備会談を実施し失敗の場合に空爆と侵攻を行う
5.政治的予備折衝無しに空爆と侵攻を行う
以上の5つの選択肢を提示した。外務大臣は 1.に反対し、国防省関係者は 2.に反対した。外務省関係者は 3.に賛成であったが、ただし空爆の前提ではなく監視強化が前提であった。4.と 5.には意見は無かった。
この日にヨーロッパ共同体問題担当顧問で、後に総理となった大平正芳が出席して、ヨーロッパ共同体は何らかの取引を目的にミサイルを配備し、それは核ミサイル競争問題で何らかの譲歩を大日本帝国から引き出すためではないか、と考えてヨーロッパ共同体に交渉の機会を与えることが大事だと主張した。いきなりの軍事行動では報復を呼ぶだけであり、その後は予測も制御もできないとして、海上封鎖であればヨーロッパ共同体は封鎖を突破しないと考えるがミサイル基地の作業の中止および撤去は難しいとの懸念を示した。
前日空爆反対を唱えた外務大臣は岸信介総理に、サラワク共和国への攻撃はヨーロッパ共同体がトルコ共和国やイタリア王国に報復行動に出る可能性が高く、結果として核戦争になると強調した。
この段階で封鎖と空爆の2つの選択肢が残っていたが、実際は二者択一ではなく、海上封鎖から空爆へという考えと、どちらにせよ最後はサラワク共和国侵攻へという考えで、この会議に出席していたメンバーの大半は最後は侵攻する必要があることを理解していた。
そして海上封鎖の場合に、ヨーロッパ共同体が撤去に応じる代わりに要求してくる要素をさまざまに検討して、トルコ共和国の準中距離弾道弾が浮上してきた。また海上封鎖は厳密には戦争行為であるので、戦争に突入することなく海上封鎖を法的に正当化するためにどうするか、この問題では外務大臣が大東亜共栄圏の承認を得ることを提案し、また18日夜に外務省法律副顧問から[海上封鎖]を[隔離]と言い換える提案が出された。
ここまで強硬に空爆を主張してきた軍も、最初は封鎖してヨーロッパ共同体の出方によっては空爆か軍事侵攻も視野に入れることにその主張を後退させた。そして封鎖の場合に撤去させるのは攻撃用ミサイルだけとすることで、この日には岸信介総理は海上封鎖の選択に傾いた。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




