60年共和主義闘争2
東京帝国大学安田講堂事件は、大日本帝国世論を一変させた。共和主義勢力がデモで公然と掲げた『天皇制廃止』のスローガンは、大日本帝国国民の大多数に強い拒否反応を引き起こした。それまで一部の知識人や学生の間で語られていた共和主義は、突如として『国体を冒涜する危険思想』として認識されるようになったのである。
大日本帝国において、天皇・皇室・皇統は単なる『制度』ではなかった。それは大日本帝国の歴史そのものであり、大日本帝国が大日本帝国たる所以であった。諸外国の王政や帝政とは異なり、天皇は『制度として存在する』のではなく、『存在すること自体が大日本帝国の普遍的秩序』であった。皇統は連綿と続き、天皇陛下は現人神として更には、道義的・歴史的頂点として国民に君臨していた。
この国体の本質を、共和主義勢力は愚かにも『制度』と呼び捨ててしまったのである。これにより、世論は一気に反発した。新聞各紙は『天皇陛下を制度と呼ぶとは何事か』『大日本帝国の歴史を否定する不逞の輩』と連日論陣を張り、国民の間でも『共和主義は大日本帝国そのものを否定するものだ』という認識が急速に広がった。
この世論の変化を背景に、大日本帝国は共和主義勢力の逮捕を大規模に実施した。内務省警保局局長後藤田正晴の指揮のもと、警察は全国で一斉に摘発活動を展開した。陸軍機械化歩兵師団は都市部の主要部(国鉄主要駅、百貨店前、大通り交差点など)に展開し、治安維持を担当した。これにより警察部隊は逮捕活動に集中することが可能となった。
逮捕は徹底的かつ組織的に行われた。共和主義のシンパと目された者、学生運動の参加者、労働組合の活動家、さらには一部の知識人や地方政治家に至るまで、容赦なく拘束された。逮捕された者たちは公開の場で連行され、その無様な姿が新聞やラジオ・テレビで繰り返し報じられた。後藤田局長の狙い通り、共和主義勢力は『英雄』ではなく『犯罪者』としてのイメージを植え付けられていった。
この大規模な摘発により、共和主義勢力は急速に勢力を失った。組織は壊滅状態となり、残った者たちは山中へと逃走を余儀なくされた。彼らは最後の抵抗の場として、ある山荘を選んだ。その山荘の名は『あさま山荘』と呼ばれていた。
こうして1960年の春から夏にかけて、大日本帝国全土で展開された共和主義勢力駆逐は、帝国が戦後初めて経験する大規模な国内危機として歴史に刻まれることになった。表向きは鎮圧されたかに見えた共和主義運動であったが、その残党が山中に立て籠もったことで、新たな火種が残されることになるのであった。
『60年共和主義闘争の最終局面は、意外な場所で幕を閉じることになった。
サラワク革命後の大規模掃討により、共和主義勢力は急速に壊滅状態に追い込まれていた。しかしその残党5人——「全学共和闘争会議(全共闘)」と自称する過激派——は、長野県軽井沢の山中に位置する山荘[あさま山荘]に立て籠もり、3人の一般人を人質に取って最後の抵抗を試みた。
長野県庁警察部は即座にあさま山荘を包囲し、内務省警保局に応援を要請した。これを受けた後藤田正晴局長は、自ら現地に赴き陣頭指揮を執ることを決断した。局長は「共和主義残党を徹底的に逮捕し、その無様な姿を世間に晒す」との方針を貫いた。
長野県庁警察部は全県下の警察署に動員をかけ、道路封鎖、山狩り、主要幹線道路の一斉検問、国鉄各駅での厳重警備を実施した。内務省警保局も最新鋭の特殊武装戦術部隊(通称:特戦隊)を派遣し、陸軍機械化歩兵師団も山狩りに協力した。
後藤田局長の指示により、テレビ局・ラジオ局・新聞社が招かれ、事件は生中継された。これは共和主義勢力を[犯罪者集団]として徹底的に印象づけるための戦略であった。放水、催涙ガス弾の投入、大型クレーンによる鉄球での外壁破壊が繰り返され、世論は「帝国の秩序を守る警察の毅然たる対応」として支持した。
ついに特戦隊が山荘に突入した。激しい抵抗があったものの、警察は殺傷を極力避け、5人の全共闘残党を全員逮捕することに成功した。事件は警察側に負傷者を出したものの、死者を一人も出さずに解決した。
このあさま山荘事件の成功は、60年共和主義闘争の集束を決定づけた。合同の山狩りにより残党も次々と逮捕され、共和主義勢力は完全に壊滅状態に陥ったのである。
岸信介総理は事件解決後、次のように述べたと伝えられる。
「共和主義は帝国の国体を否定する幻想に過ぎない。我々は秩序を守り、国民と共に前進する。」
こうして1960年の激動は終わりを告げた。しかしこの闘争は、帝国に深い傷跡を残した。共和主義という思想は一時的に封じ込められたものの、冷戦の影が国内にまで及んでいることを、帝国国民に強く印象づけたのであった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




