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続・帝國連合艦隊〜世界最終戦争〜  作者: 007


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60年共和主義闘争

史実60年安保闘争と70年安保闘争をごちゃ混ぜにした騒乱です。

大日本帝国はサラワク革命後に国内や大東亜共栄圏加盟国での共和主義勢力を駆逐した。その共和主義勢力駆逐では、大日本帝国は『60年共和主義闘争』と呼ばれる程に規模が大きなものになっていた。国内の共和主義勢力駆逐の為にまず大日本帝国は、内務省警保局や帝国情報保安局のみならず陸軍憲兵隊を動員して国内の共和主義勢力について調査を行った。





『サラワク革命は、大日本帝国と大東亜共栄圏に深刻な衝撃を与えた。革命の成功は[共和主義は可能]という希望を、国内外の反体制派に与えたのである。大日本帝国政府は即座に、国内および加盟国における共和主義勢力の徹底駆逐を決定した。これが後に[60年共和主義闘争]と呼ばれる大規模な国内危機の序曲となった。

まず大日本帝国は、内務省警保局、帝国情報保安局、陸軍憲兵隊を総動員し、共和主義勢力の実態調査を開始した。想定では「一部の知識人や学生に限定的な動き」と見られていたが、調査の結果は帝国首脳部を震撼させた。

国内だけで数万規模の共和主義勢力が確認され、大学、労働組合、一部企業、地方政治家にまでネットワークが広がっていた。特に東京・京都・大阪などの大都市と、台湾・朝鮮の第二次世界大戦中の本土昇格正式併合地域で組織的な動きが顕在化した。サラワク革命の報道が[王族すら倒せる]という象徴を与え、潜在的な不満層を刺激したのである。

さらに大東亜共栄圏加盟国でも同様の兆候が確認された。何といっても君主政国家に於いて顕著であり、知識人や財界に共和主義思想が浸透していることが判明した。

岸信介総理は緊急閣議でこう述べたという。

「サラワクの悲劇を帝国全土に広げてはならない。共和主義は自由の名の下に秩序を破壊する毒である。我々は断固としてこれを排除せねばならない。」

こうして1959年後半から1960年にかけて、大日本帝国は戦後最大規模の治安対策に乗り出した。言論統制の強化、大学への監視強化、労働組合の粛清、反体制派の逮捕・思想教育が次々と実施された。

しかしこの強硬策は、逆に反発を呼び、学生デモや労働争議を激化させた。東京帝国大学や京都帝国大学を中心とした学生運動は[共和制移行][天皇制廃止]を公然と掲げ、帝国議会周辺で大規模デモを展開した。労働組合もストライキで呼応し、一時は帝都機能が麻痺する事態にまで発展した。

帝国情報保安局の報告書には[共和主義勢力は想像以上に根深く、単なる粛清では解決しない]との警告が記されていたという。

こうして1960年は、大日本帝国にとって戦後最も激動の年となった。サラワク革命が引き金となった[60年共和主義闘争]は、帝国の国内統治体制を根本から試すことになるのであった。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋





岸信介総理は緊急閣議において、強硬な方針を打ち出した。内務省警保局と帝国情報保安局に加え、陸軍憲兵隊を総動員して共和主義勢力の摘発を徹底するとともに、必要に応じて大日本帝国軍の出撃を命じるという内容であった。岸総理は「サラワクの教訓を帝国が繰り返してはならない。共和主義という毒は、早期に断ち切らねばならない」と述べ、戒厳令に準ずる措置の発動を決断した。

しかしこの決定は、思わぬ事態を引き起こした。1960年春、東京帝国大学を中心に学生たちが『共和制移行』を掲げてデモを激化させ、ついに安田講堂を占拠して立て籠もる事態に発展したのである。占拠した学生たちは「共和主義は自由の象徴であり、帝国の専制に抗う」と宣言し、外部との連絡を断って長期抵抗の構えを見せた。

岸総理は即座に陸軍機械化歩兵師団の出動を命じた。しかしここで予想外の困難が生じた。陸軍部隊は殺傷兵器しか所持しておらず、学生たちを『敵』とみなして強硬手段を取れば死傷者の発生は避けられなかった。部隊指揮官たちは「学生を射殺すれば、間違いなく殉教者として祭り上げられ、全国的な反発を招く」と判断し、対応に苦慮した。機械化歩兵師団は講堂周辺を包囲したものの、積極的な突入作戦には踏み切れず、膠着状態に陥った。

この状況を打開すべく、内務省警保局局長・後藤田正晴が岸総理のもとへ直談判に赴いた。後藤田局長はこう訴えた。

「総理、軍による強硬鎮圧は避けるべきです。共和主義勢力に死者を出せば、彼らは即座に殉教者として祀り上げられ、第2、第3の騒乱を誘発します。それこそが敵の望むところです。我々は彼らを『英雄』ではなく、『無様な反逆者』として世間に晒すべきなのです。逮捕し、公開の裁判にかけることこそが、共和主義勢力を根本から陥れる最善の方法です。」

岸総理は当初、軍の出動による早期鎮圧を優先する考えであった。しかし後藤田局長の説得は論理的かつ冷徹であった。「軍が死者を出せば、帝国は『学生を殺した専制国家』として内外から非難される。逆に警察が逮捕し、裁判でその無様さを晒せば、共和主義は『犯罪集団』としてイメージを損なう。長期的に見て、こちらの方が帝国の統治に資する」との主張に、岸総理は徐々に納得の色を見せた。

最終的に岸総理は方針を転換した。陸軍機械化歩兵師団には講堂周辺の封鎖と支援に徹するよう命じ、鎮圧の主導権を内務省警保局と警察に委ねることとした。逮捕を最優先とし、必要最小限の武力行使に留めるという決定であった。

この方針転換により、警察部隊が安田講堂への突入を開始した。学生たちは激しい抵抗を見せたが、殺傷を避けた警察の対応により、死傷者は最小限に抑えられた。占拠は数日で解除され、主要な学生リーダーは逮捕・起訴された。彼らの裁判は公開で行われ、大日本帝国のマスメディアを通じて『共和主義者の無様さ』が繰り返し報じられた。

しかしこの措置は、共和主義勢力の完全な鎮圧には至らなかった。安田講堂事件をきっかけに、学生運動は地下に潜り、地方都市や他の大学にも広がっていった。岸総理は『60年共和主義闘争』と呼ばれるこの一連の事態を、大日本帝国が戦後初めて直面した大規模な国内危機として認識することになったのである。

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