表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
続・帝國連合艦隊〜世界最終戦争〜  作者: 007


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/50

サラワク革命

史実キューバ革命に相当しますが、若干違います。

サラワク王国はボルネオ島北部に位置する、イギリス人探検家ジェームズ・ブルックにより建国された国家であった。ブルネイダルサラーム国とインドネシア連邦と国境線を接する位置に存在している。イスラム教徒国家を白人王が統治するという世界的にも異質な国家だった。サラワク王国は大英帝国保護国であったが1944年11月の大日本帝国政府の踏み込んだ政策である植民地独立支援宣言により、正式に独立国家となった。そしてその後大東亜共栄圏にサラワクは加盟し、大日本帝国はサラワク王国へ経済支援を開始した。大日本帝国もサラワク王国の特異性は理解しており、その立憲君主制国家としての確立を図った。

そしてそれはサラワク王国国王の、大日本帝国公式訪問で世界的にも宣伝された。新南群島を経由して西沙群島(作者注:現在の南沙諸島とパラセル諸島であり、史実と同じく1939年から台湾高雄州高雄市に編入)にある空軍基地から、大日本帝国が用意した専用機によりサラワク王国国王ヴァイナーブルックは初来日を果たした。天皇陛下との会談や晩餐会が行われ、国賓としてサラワク王国国王ヴァイナーブルックは歓待されたのである。イギリス人探検家が国王になるという特異な王国として、100年経過したが大日本帝国への国賓として招かれるまでになったのだ。この事はサラワク王国のマスメディアも大々的に報道し、国民達も自分達の白人国王が大日本帝国で国賓として招かれた事に、熱狂した。何せ世界を二分する東側陣営の盟主である大日本帝国に国賓として招かれたのだ。国威発揚としてこれ以上のものはなかった。だがこのサラワク王国国王ヴァイナーブルックの国賓による訪日が、ヨーロッパ共同体に目を付けられる切っ掛けになった。それまでサラワク王国はヨーロッパ共同体にとっては、単に『東南アジアにある小国』だった。だが大日本帝国の大々的な報道によりサラワク王国は瞬間的に、世界中にその知名度を広げた。

そしてサラワク王国の特異性まで、ヨーロッパ共同体は詳細を知る事になった。それを知ったヨーロッパ共同体は2つの理由により、サラワク王国での共和主義革命を画策する。まずは王国として100年しか経過していない事だった。白人王族がイスラム教徒を統治するという特異性は、僅か100年しか成り立っておらず共和主義革命は成功する可能性が高いと判断したのだ。そして2つ目は大日本帝国の懐だという事である。太平洋・日本海・東シナ海・南シナ海・インド洋に至る広大な大洋を大日本帝国は絶対的な支配下においており、その中で東南アジアの南シナ海に面するサラワク王国を共和主義革命を成功させ東側陣営から離脱させれたら、大日本帝国に与える打撃は計り知れなかった。

南シナ海を経由する海上輸送路を大幅に妨害出来る事にも繋がるのだ。これによりヨーロッパ共同体はアフリカや南米等の第三世界諸国を経由して、極秘裏にサラワク王国への干渉を開始した。それはまず初めはサラワク王国での反体制派との接触から行われた。国王の訪日により国威発揚となっていたサラワク王国であるが、どんな国にでも反体制派は存在した。それは大日本帝国にも共和主義者はいるし、ヨーロッパ共同体にも旧王国州を中心に王政復古派は存在した。だが大日本帝国とヨーロッパ共同体共に陣営の盟主である事から、警察や諜報機関を動員してまで反体制派を徹底的に弾圧していた。そしてヨーロッパ共同体はサラワク王国の反体制派に接触し、共和主義革命の支援を表明したのである。

そしてそこからは早かった。反体制派は『王政打倒による共和主義革命』を旗印に、サラワク王国各地で蜂起した。アフリカや南米等の第三世界諸国を経由して武器弾薬を送り込んでおり、反体制派は想像以上の重武装だった。

その重武装の反体制派に、サラワク王国はまともな対抗手段が無かった。サラワク王国の軍事力は陸軍は1個連隊で装甲車(大日本帝国陸軍からの供与。)10輌、海軍は海防艦(大日本帝国海軍からの供与。諸外国のフリゲート艦に相当。)3隻、空軍は戦闘機(大日本帝国空軍からの供与。)20機だけであった。警察も単なる治安維持能力しか有せず、拳銃だけしか装備していなかった。そんな弱小装備にサラワク王国の軍と警察に対して、ヨーロッパ共同体からの軍事支援により反体制派は自動小銃や対戦車ロケット弾等の重武装であったのである。

その為に反体制派の蜂起は枯れ草に燃え広がる炎のように、容易に拡大を続けた。この事態にサラワク王国は大日本帝国に対して、治安回復の為に支援を要請した。大日本帝国は帝国情報保安局の情報からも、サラワク王国での騒乱が看過できないものだと判断した。だがあまりにも事態が急過ぎた。そのあまりの急拡大に大日本帝国は、この騒乱がヨーロッパ共同体による工作により起きたものでは無いかと疑った。

それは陸軍の派遣準備を行いながら、帝国情報保安局に調査を行わせる事となった。そして反体制派の拠点に侵入した諜報員が、ヨーロッパ共同体陸軍の兵器を発見した。それは反体制派がヨーロッパ共同体から軍事支援を受けている、確固たる証拠だった。大日本帝国はその証拠を世界に公開し、ヨーロッパ共同体による卑劣な干渉であると非難した。だがその間にもサラワク王国での反体制派の支配地域は、拡大を続けていた。大日本帝国は陸軍のみならず海軍の出撃準備を始めたが、一番近い台湾から出撃しても反体制派の動きの方が早い、と結論付けられた。新南群島と西沙群島の空軍基地から戦闘機が離陸し、反体制派への空爆を少しばかり行っただけだった。大日本帝国はサラワク王国国王ヴァイナーブルック以下王族を、国外脱出させる事を決定したのである。首都近郊に反体制派は迫っており『共和主義革命』を掲げるからには、王族の逮捕最悪の場合はフランス革命やロシア革命のように、王族の処刑もあり得た。その為に後に国土奪還の大義名分と、国家主権者としてサラワク王国国王ヴァイナーブルック以下王族を確保する事を、大日本帝国は優先したのだ。その為に大日本帝国は陸海軍の特殊部隊を急遽サラワク王国に派遣する。大日本帝国本土から台湾と西沙群島・新南群島を経由して、サラワク王国に空挺降下させた。そして1958年12月31日反体制派が接近する首都の王宮に潜入し、サラワク王国国王ヴァイナーブルック以下王族やメイドに至る全ての関係者を、王宮から脱出させた。特殊部隊は全員を連れて海岸に派遣されていた、大日本帝国海軍連合艦隊の攻撃型原子力潜水艦に分乗させ無事にサラワク王国を脱出した。こうして1959年1月8日にサラワク王国国王ヴァイナーブルックは大日本帝国台湾府に於いて『サラワク王国亡命政府』の樹立を発表し、全土掌握を行った反体制派は『サラワク共和国』の成立を宣言した。こうしてサラワク王国は一瞬にして、大統領を国家元首とするサラワク共和国に体制変更を遂げた。ヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国以下西側陣営は即座にサラワク共和国を承認。大日本帝国と大東亜共栄圏以下東側陣営は、自らの陣営内での共和主義革命に騒然となった。そして大日本帝国主導により各国で、共和主義勢力駆逐が進められる事になった。

その為にサラワク共和国は一時的に放置される事になった。台湾のサラワク王国亡命政府には早期の奪還が約束したが、とにかく今は国内や各国で共和主義革命の勃発を阻止する事が優先された。それはサラワク王国国王ヴァイナーブルックにとっても同じであり、自国の悲劇が拡散するのは防ぎたかった。だがこのサラワク共和国の一時的放置が、後に世界が固唾を呑んで見守る『危機』へと繋がるのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ