ソマリア分断と宇宙開発競争
1955年のヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国による核実験成功による核保有は、大日本帝国に核の恫喝が不可能になったと判断させた。そしてこれにより東西両陣営は核兵器増産と軍備拡張を行いながらも、『宇宙開発競争』という新たな分野でイデオロギー対決を進める事になった。
特にヨーロッパ共同体はドイツ州のヴェルナーフォンブラウン技術者を、欧州宇宙機関の責任者として経済成長に比例して膨大な予算を投入した。そしてその膨大な予算によりブラウン技術者以下、ヨーロッパ全域から集結した技術陣は期待に応えた。大日本帝国から遅れる事僅か2年で欧州宇宙機関は、V-9ロケットにより人工衛星『コメット』を静止軌道上に打ち上げた。
それは大日本帝国に『コメットショック』と呼ばれる衝撃を与えた。自分達が絶対的に優位性を保っていると思っていた宇宙開発競争に於いて、ヨーロッパ共同体が猛追して来たのだ。このコメットショックは『ウサギとカメ』の逸話になぞらえて、大日本帝国の怠慢であると大東亜共栄圏や東側陣営からも不満の声が出た。
その為に大日本帝国は科学技術宇宙省の予算を増額し、宇宙開発事業団にさらなる高みを目指ささせる事になった。これにより大日本帝国の国家予算は暫くは軍事費と宇宙開発予算にかなりの比重を置くことになったのである。これは第二次世界大戦終結後に大日本帝国が、社会インフラ整備に重点を置き経済成長を加速させたからこその予算配分だった。だがこれにより大日本帝国は軍備拡張と宇宙開発に血眼になり、一時的に各地での影響力を低下させてしまった。
そしてそれこそがヨーロッパ共同体のもう一つの目的でもあった。
1954年7月21日、独立後から混乱が続いており政情不安となっていた『ソマリア連邦』が、南北に分断された。北ソマリアには親ヨーロッパ共同体の政権である『ソマリア共和国』が樹立され、南ソマリアには従来通り親大日本帝国政権であるソマリア連邦が政権を維持した。ソマリア連邦は1944年11月の大日本帝国政府の踏み込んだ政策である植民地独立支援宣言により、大英帝国領ソマリランドとイタリア王国信託統治領ソマリアが統合する形で独立した国家であった。
だがその独立後からソマリア連邦内での権力闘争が激化し、混乱状態となっていた。大日本帝国はソマリア連邦の政情不安に懸念を有していたが、とはいえ大東亜共栄圏内の国々の支援を優先する事にした。それは当時はヨーロッパ共同体が対外的に活発な動きを見せなかった事も、最大の理由であった。
とはいえ大日本帝国にとっては影響力低下が懸念されたが、隣国のエチオピア帝国への支援が優先される事になったのである。
だが大日本帝国の方針はイタリア戦争により転換された。イタリア戦争はヨーロッパ共同体がイタリア王国での共和主義勢力を支援し、イタリア共和国を建国して南北分断による、代理戦争へと発展した。イタリア戦争自体は大日本帝国の核の恫喝を含めた断固たる意思により、再び南北統一のイタリア王国が再建されたがソマリア連邦に於いても同じ事が懸念されたのである。
その為に大日本帝国はソマリア連邦に経済支援と軍事支援を開始した。だがヨーロッパ共同体の方がイタリア戦争での敗北を受けて、先に動き出していた。ソマリア連邦での共和主義勢力に経済支援と軍事支援を行い、分離独立を促進させたのだ。
大日本帝国も帝国情報保安局の情報により、ソマリア連邦への経済支援と軍事支援を拡大させたが、共和主義勢力の拡大は想像以上に早かった。そして大日本帝国の努力の甲斐なく1954年7月21日、独立後から混乱が続いており政情不安となっていた『ソマリア連邦』が、南北に分断されたのである。
大日本帝国はここでソマリアへの介入を検討したが、地理的にヨーロッパ共同体の方がソマリアに近い為に安易な兵力の投入では解決出来ないと判断した。介入するなら相応の準備期間を経て、大軍を一気呵成に投入するしか方法は無かった。だが宇宙開発に予算を投入し、この時は大規模な軍備拡張計画が進行中だった為に、ソマリア連邦とエチオピア帝国への経済支援と軍事支援を強化し、北ソマリアのこれ以上の侵食を阻止する事に注力したのである。
ヨーロッパ共同体も速成培養の北ソマリアの体制構築に尽力するべく、ここに東西両陣営の思惑が合致してソマリアは南北分断国家のまま一時的に放置される事になった。
だがこの後にソマリアの地に眠る資源を巡る南北の対立と衝突から、東西両陣営のイタリア戦争以来の代理戦争となり、第二次世界大戦終結後では最大規模の激戦が繰り広げられる事になるのであった。
そして1954年のソマリア連邦南北分断から、東西両陣営は軍備拡張と宇宙開発での競争に明け暮れた。大日本帝国は宇宙開発事業団がR-2ロケット、R-3ロケットと続々と大型ロケットを開発し打ち上げていった。どちらも3段式で、大型エンジンを8基で1つとした集束式(クラスター式)エンジンを搭載していた。この集束式ロケットエンジンはIHI(1953年に石川島播磨重工業から名称変更)が開発した新型エンジンだった。
ロケットのエンジン構成において単一の巨大エンジン(大型エンジン)か、エンジンを複数束ねる(クラスター式)かのどちらが優れているかは、そのロケットの設計目的、開発コスト、およびリスク許容度によって決まる。そしてそれぞれに明確な利点と欠点があった。
集束式の利点と欠点は、まずは利点として『開発コストの抑制』があった。小さなエンジンを量産すれば、巨大なエンジンをゼロから新規開発するよりも低コストで済むのだ。そして2つ目は』冗長性(安全性)』だった。複数のエンジンがあれば、仮に1基が飛行中に故障しても、他のエンジンで推力を補って任務を継続できる可能性が高かった。 3つ目は『姿勢制御』となる。多数のエンジンがあれば、推力偏向による姿勢制御の自由度が増すのだ。
そして欠点は次の通りだった。最大の欠点は『重量増と複雑化』だった。配管、バルブ、制御系がエンジンごとに必要となり、構造が複雑になるからだ。パイプの継ぎ目など、故障が発生しうるポイント(単一故障点)が増える事になった。2つ目は『燃焼振動・干渉』だった。複数のエンジンが密集して動くため、排気流が干渉し合ったり、振動が複雑に伝わったりして、制御が非常に困難になるのだ。
そして大型単一エンジンの利点と欠点は次の通りだった。まず利点として『高い推力重量比』があった。エンジン単体の配管や制御系がシンプルになるため、システム全体を軽量化しやすく、効率的な設計が可能だった。2つ目は『信頼性の追求』となる。構造がシンプルであれば、試験を繰り返すことで完成度を極限まで高めることが出来るのだ。
そして欠点は『開発リスクの極大化』があった。エンジンが大きくなればなるほど、燃焼室の熱負荷や圧力制御が非常に難しくなります。失敗した際のリスクが大きく、開発期間も長引きがちだった。2つ目は『開発費の膨大さ』だった。全てが特注の大規模コンポーネントになるため、一点豪華主義のコストが必要不可欠だった。
その集束式と大型単一エンジンの利点欠点を考慮し、宇宙開発事業団はいいとこ取りとして集束式をロケットエンジンに採用したのだ。それは何といっても『リスク分散』と『冗長性』にあった。
集束式の最大の利点は、『エンジンが1基死んでも、他が補える』という冗長性だった。集束式ロケットエンジンなら打ち上げ直後に1基が故障しても、残りのエンジンが燃焼時間を自動調整して補い、任務を成功させる事が出来るからだった。それに対してもし巨大エンジン1基だけで推力を賄う設計だった場合、その1基に不具合が発生した時点で『即任務失敗(爆発)』となるのだ。
宇宙開発事業団は将来的に月面着陸を目指しており、そのような極めて危険な任務において、この欠点は致命的だった。
何といっても将来的な月ロケットのような有人探査では、信頼性が全てだった。設計段階で『エンジンが数基停止しても、軌道投入や着陸ができる』という能力を持たせることは、設計の正当性を飛躍的に高める事になる。集束式であれば、『エンジンが1基止まったら、推力が足りなくなるから、あらかじめ計算した補正で飛行を続ける』という対応が可能になるのだ。
帝国議会で野党等は『なぜ大型エンジンを開発できるのに集束式にするのか』と政府と宇宙開発事業団を批判した。だがその批判は的外れであり、大型エンジンを作れる技術力があるからこそ、それを集束にする利点があった。
まずは『開発期間の短縮』だった。超巨大エンジンを新規にゼロから作ると、燃焼不安定性(燃焼室が大きすぎて爆発する現象など)に悩まされ、数年単位の遅延が起きることがあった。しかし既に完成した大型エンジンを複数束ねる方式なら、信頼性が確立された物を並べるだけなので、ロケット全体の完成が早まるのだ。 2つ目は『物流・整備の効率化』だった。エンジンのパーツ(ポンプ、インジェクター、燃焼室)を全て統一できるため、予備部品の管理や整備の手間が圧倒的に楽になるのだ。
そして宇宙開発事業団の帝国議会での答弁は、野党を黙らせ国民世論の支持を得た。
「我々は単一の巨大エンジンを開発できるだけの冶金技術を持っている。しかし将来的に月に人間を送る以上、『1%の確率で爆発する巨大エンジン』よりも、『10%の確率で故障するが、3基止まっても飛べる集束式エンジン』の方が、統計的にはるかに安全だ」
以上の論理で集束式を採用するのは、非常に技術的で説得力があった。『大型エンジンのパワー』と『クラスターのリスク分散』の両取りこそが、月へ行くための王道だったのである。これにより大日本帝国は集束式ロケットエンジンを採用したのであった。
これに対してヨーロッパ共同体は超大型ロケットエンジン1 基を搭載した、V-11ロケットを実用化した。そのV-11ロケットを利用して次々と人工衛星を打ち上げたのである。大日本帝国も数多くの人工衛星を打ち上げ、宇宙開発競争の中で人工衛星開発競争も行われた。
大日本帝国は通信衛星のみならず、偵察衛星や気象衛星、放送衛星等様々な人工衛星を打ち上げた。これにより大日本帝国は国内で衛星放送や大東亜共栄圏各国とのリアルタイム通信を可能にし、天気予報がテレビ放送や新聞で行われるようになった。偵察衛星はヨーロッパ共同体やアメリカ合衆国の西側諸国への偵察に投入された。
ヨーロッパ共同体は通信衛星と放送衛星に尽力し、偵察衛星や気象衛星は後回しにされた。偵察衛星は特に初期型である為に画質も粗く、何といっても撮影フィルムを宇宙空間から投下した物を回収する手間があった。その為にヨーロッパ共同体とアメリカ合衆国は技術革新により、データとして送信出来るようになるまでは偵察衛星は研究用のみで良いと判断したのである。
だがそれは後の危機に於いて、大日本帝国が偵察衛星を有効活用した事から見直される事になった。




