代理戦争の明暗
イタリア戦争終結後、東西両陣営では差が如実に現れていた。それは東側陣営、特に大日本帝国では戦後軍縮で一時的に軍需が縮小していたところに、イタリア戦争が適度な需要創出として機能しつまりは、『良性な公共投資』となったのだ。軍事費が経済成長を牽引する良性循環として大日本帝国のみならず大東亜共栄圏の好景気を更に促進させる事になった。
それに対して西側陣営、特にヨーロッパ共同体はイタリア戦争での軍事費が重荷になり、復興を遅らせる悪性負担となっていた。アメリカ合衆国も同じであり、両国は当初の見積もり以上の負担により大日本帝国の核の恫喝に寧ろ感謝していた。
大日本帝国はイタリア戦争での単なる軍事勝利だけでなく、『経済的勝利』としても位置づけられ大日本帝国の強さが多角的に強調される事になっていた。
この良性な公共投資は大日本帝国は『イタリア戦争特需』と称され、第二次世界大戦終結の大規模軍縮で縮小していた軍需産業(造船・航空機・兵器・電子機器)の生産が急増した。そして大東亜共栄圏加盟国の義勇軍向けの物資輸出や、軍事援助が円の国際的信用を高めた。
復員軍人の再雇用が進み、戦後軍縮で一時的に生まれた『余剰労働力』が吸収された。結果としてイタリア戦争は1950年内で終結したにも関わらず、1953年までのGDP成長率がさらに押し上げられ、高度経済成長の『第二波』として機能したのである。
このイタリア戦争は大日本帝国にとっては東西冷戦に於いて、自らの優位性を維持させる事を強く決意させた。その優位性を更に確立させたのは、イタリア戦争後の1951年8月15日であった。その日大日本帝国瀬戸内海から、呉の潜水艦隊司令部・横須賀の海軍連合艦隊総司令部・市ヶ谷の国防省と国防省統合幕僚作戦司令本部に一つの同じ電文がもたらされる。
『オハヨウ大日本帝国、本艦ハ原子力ニテ航行中』
世界初の原子力潜水艦伊500からの通信であり、大日本帝国海軍連合艦隊が海中の新たな覇者を自らの隷下に置いた証だった。大日本帝国での核開発(G計画)は第二次世界大戦前から開始されておりそれは核爆弾としての開発では無く、膨大な動力としての原子力機関・原子力発電での開発だった。その為に大日本帝国の核開発は海軍主導で商工省と共同で行われていたのである。だがその核開発は第二次世界大戦中に核爆弾開発に注力され、大日本帝国は世界初の核兵器実用化により第二次世界大戦を終結させた。そして第二次世界大戦終結後にG計画は再び原子力機関・原子力発電での開発に注力され、その結果が原子力潜水艦伊500の実用化だった。
更に1951年9月2日には大日本帝国はG計画で建設した原子炉(茨城県東海村、G計画推進で建設地点として制定され村松村と石神村が合併し、東海村が発足した)を発電用とした、世界初の原子力発電所を稼働させた。これにより膨大な電力供給を可能にしたのである。
大日本帝国は第二次世界大戦終結後の1945年に『原子力基本法』を制定し、そして1947年に原子力発電も含めた『大日本帝国国有発電機構(国電)』が設立された。国電は大日本帝国中の電力企業全てを国営として統合し設立され、これは運輸通信省の外局とされた。更に運輸通信省の外局としては、『電信電話法』制定による『大日本帝国国有電信電話機構(国信)』と、『鉄道輸送法』制定による『大日本帝国国有鉄道機構(国鉄)』も設立されていた。
この国電・国信・国鉄の3機構は完全なる国有であり全てが運輸通信省の予算、つまりは国家予算により運営され電気代・電信電話代・鉄道代は全て無料とされた。この国家予算投入による無料化は、帝国議会での議論で野党が反対論を展開した。だが時の内閣はその反対論を一笑に付したのである。そして「それなら軍隊も警察も消防も救急も有料なのか?」と尋ねた。それに野党は一切反論出来なかった。
当然であろう。これにより国家の福祉公共サービスとして、電力・電信電話・鉄道は運営されていく事になった。電力会社が国有とされたのは経済成長による電力需要増大により、電気代が民間の負担にならないようにする為であった。この電気代無料により企業は生産活動での電気代を考慮する事無く、生産体制を整える事が可能になった。民間に於いても各家庭でのラジオやテレビ等の電化製品が爆発的に普及する理由の一助となった。都市部では店舗のネオンが無駄に明るくなり過ぎる、という弊害も一部あったが電気代無料化は企業の生産体制が拡大する最大の要因となっていた。
そして鉄道代の無料化は大日本帝国全土での物流革命となった。特に戦時中に完成していた新幹線も無料になった事は、大日本帝国全土での移動が容易になる要因になっていた。更に対馬海峡に海底トンネルを掘削し、満洲帝国の首都新京や中華民国の北京までの直通列車を走らせるという計画や、大東亜共栄圏加盟国のトルコ共和国までの鉄道敷設となるシベリア鉄道に代わるアジアからヨーロッパまでの鉄道敷設を目指した『中央アジア横断鉄道計画』も強力に推進されていた。東西冷戦による東側陣営の国威発揚にも紐付けられ、膨大な予算が投入されて建設されていた。
国鉄の完全なる国家予算での運用は地方での不採算路線廃止が行われなくなった事により、社会インフラとしての重要性が再認識された。利用者が少く採算が合わないからという理由で路線廃止を行う事は、公共サービスとしては不適切だったからだ。これにより大日本帝国ではどんな田舎でも都市部と変わらない鉄道運用が成されるようになった。
そして3機構設立の翌年には、『航空輸送法』制定による『大日本帝国国有航空機構(国航)』が、運輸通信省外局に更に設立された。これにより航空機による旅客貨物航空便も国家予算投入による無料化が行われた。こうして4機構を有する運輸通信省の予算は大幅に増加したが、その経済波及効果の方が更に数倍に増加していた。何せ無料化により企業活動や旅行需要が大幅に増加し、相乗効果として利益の方が多くなったのだ。
『大日本帝国に対してヨーロッパ共同体は、イタリア戦争は大きな負担となった。大日本帝国・東側陣営との全面戦争を避ける為に、陸軍は義勇軍として80個師団規模の派遣を行ったがその補給兵站線維持が財政を圧迫した。更に北イタリアへの経済支援や軍事援助が復興予算を食い潰す事になった。そして挙句の果てに大日本帝国によるアンツィオ上陸作戦により陸軍義勇軍は南北に挟撃され、更に被害が拡大し敗走を余儀なくされ大日本帝国による再びの核の恫喝でイタリアから撤退する事になった。
結果としてヨーロッパ共同体は代理戦争そのものを失い、国内復興が遅れ、失業や社会不安が増大する事になってしまった。その為にヨーロッパ共同体は本腰を入れて、経済再建に取り組む事を決意した。それは実を結び1952年から早くもヨーロッパ共同体は経済成長を開始した。何せヨーロッパ全域を傘下に収めている事から、大方針を確固たるものにすれば後は早かった。ヨーロッパ共同体は[巻き返し政策]と呼称し、経済成長と軍備拡張に邁進する事になった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




