第四話「光の罠」
序章 鏡と猫
その日の朝、私はいつものように城門をくぐり、本館へと向かった。
廊下を歩いていると、奥方様のお部屋の前で、妙な音が聞こえてきた。
笑い声だ。
奥方様の、くすくすという笑い声。
滅多に聞かない声なので、私は思わず足を止めた。何事だろう。扉の前に立って、軽くノックしてから開けると。
奥方様が、小さな手鏡を手に持って、壁に光の点を当てていた。
白い光の点が、壁をゆらゆらと動く。
そして、カイザーが。
その光の点を、尻尾をぴんと立てて、目を輝かせて、真剣な顔で追いかけていた。
前足でぺたっと押さえようとする。光はするりと逃げる。今度は跳びかかる。また逃げる。奥方様が手首をくるりと動かすと、光が壁の隅に走る。カイザーが全速力で追いかける。
奥方様は、くすくすと笑いながら光をあちこちに動かしていた。
「奥方様」
私が声をかけると、奥方様がこちらを向いた。少し照れたような顔をした。
「あら、アンナ。おはようございます」
「おはようございます。カイザーが、楽しそうですね」
「飽きないのですよ。もう随分やっているのに」
カイザーは光が止まると、きょろきょろと辺りを見回して、また光を探し始めた。尻尾が、苛立たしそうに揺れている。
「その手鏡、いつもお部屋にあるのですか?」
「ええ。普段は棚の上に置いてあるのですが、今日はカイザーが棚に飛び乗ってしまって」
奥方様が鏡を傾けると、光の点が床をすうっと走った。カイザーが横っ飛びに跳んだ。
私は思わず笑った。
奥方様も、カイザーも、本当に楽しそうだ。いつも静かなお部屋が、今日はなんだか明るい気がした。
「では、今日のお仕事を始めましょうか」
「ええ」
奥方様は手鏡を棚に戻した。カイザーはしばらく棚の下でうろうろしていたが、やがて諦めたように丸まった。
その後、仕事の合間に、私は奥方様に言った。
「明後日が休みなので、広場でのんびりしようかと思っています」
「良いですね」
奥方様は窓の外を見た。春の日差しが、城の石畳を温かく染めている。
「良いお天気が続いていますから、気持ち良いでしょう」
「はい。お菓子でも買って、ゆっくりしようかと」
「楽しんできてください」
奥方様は微笑んだ。
この時の私には、あの手鏡が後に大きな謎の鍵になるとは、思いもしなかった。
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第一章 休日の広場
二日後の昼下がり、私は城下町の広場にいた。
春の日差しが降り注ぐ、のんびりとした午後だ。広場のベンチに腰を下ろして、市場で買ったアーモンドの砂糖がけを食べながら、行き交う人々を眺めていた。
広場は賑やかだった。市場の店主たちが声を上げ、子供たちが走り回り、港から帰ってきたらしい船乗りたちが笑い声を上げている。メーレスブルクの春の午後は、こんなふうに穏やかで活気があって、私は好きだった。
ふと、広場の中心に立つ時計台を見上げた。
先月、修理されたばかりだ。古くなった文字盤が新しいものに取り替えられて、青銅の表面がぴかぴかに磨き上げられている。太陽の光を受けて、今もきらきらと輝いていた。
(きれいだな)
私はアーモンドをもう一つ口に入れて、目を細めた。
その時だった。
「ぎゃあ!」
すぐ近くで、大きな叫び声が上がった。
私は驚いて振り返った。
華やかな身なりの商人が、帽子を頭から叩き落として、地面を踏みつけている。四十がらみの恰幅の良い男で、鮮やかな青い上着を着て、大きな羽飾りのついた帽子をかぶっていた。いや、かぶっていた、というべきか。今その帽子は地面の上にあって、羽飾りから白い煙が上がっていた。
羽が、焦げていた。
「また起きた!もう何日続けてだと思っている!」
商人は踏みつけるのをやめて、焦げた羽飾りを掴んで振り回した。
「この広場には悪魔がいる!昼になると必ずこういうことが起きる!おかしいと思わないか!」
人々が集まってきた。焦げた羽を見て、どよめきが起きた。
「悪魔の仕業だ」
「いや、妖精のいたずらだろう」
「この広場には最近、変なことが起きる」
「三日前も、市場の布地が焦げたという話を聞いたぞ」
「確かに!うちのパン袋も昨日燃えかけた!」
人々の声が重なって、広場がざわめいた。
「テレジア奥方様に相談しよう」
誰かがそう言った。
「そうだ!奥方様なら、こういう不思議なことをご存知だ」
「お城に頼みに行こう」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがはっきりした。
(違う)
奥方様に頼むのは、簡単だ。奥方様なら、きっと答えを知っている。
でも。
お父様のことを思い出した。
あの時、私は自分の足で動いた。商人のディートマールに会いに行って、ミュラーという名前を聞き出して、鍛冶屋を訪ねて、鞘職人を一軒一軒回った。怖かった。間違えるかもしれないと思った。でも、やった。だから、お父様の天秤は守られた。
あの時、私は決めたはずだ。守られるだけではなく、守る側になると。自分で動くと。
奥方様はいつも言う。「知識は人を守る武器になる」と。では、まず自分で調べてみよう。自分の目で見て、自分の頭で考える。
(やってみよう)
(必ず、理由がある)
(悪魔でも妖精でもない。私が、見つける)
私は立ち上がり、アーモンドの包みを鞄にしまった。
のんびりとした休日は、終わりだ。
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まず、帽子を焦がされた商人に話しかけた。
「あの、失礼ですが。先ほどの帽子のこと、少し聞かせていただけますか」
商人は焦げた羽飾りをまだ握ったまま、私を見た。
「何だ、お嬢さん。城の人間か?」
「はい。メーレスブルク城に仕えています。アンナと申します」
「ふん。では城の者に聞いてもらおう。この広場は呪われている!何とかしてもらわないと困る!」
「何日前から起きているのですか?」
「四日前からだ。毎日、昼過ぎになると決まって何かが燃える。昨日は俺の羽で、一昨日はどこかの店の紙袋で、その前は布地が焦げたと聞いた」
「毎日、昼過ぎに」
「そうだ。時計台の鐘が三回鳴った少し後、いつもそれくらいの時間だ」
「その時、あなたはどのあたりに立っていましたか?」
商人は広場を見渡して、指を差した。
「この辺りだ。ちょうどここら辺に立っていると、決まって何かが起きる」
私は商人が指した場所を確認した。時計台から見て、斜め前。広場の東側あたりだ。
「ありがとうございます」
私はメモを取りながら、次の人に声をかけた。
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第二章 アンナの調査
その日から、私は調べ始めた。
城の仕事が終わった後、あるいは休みの時間を使って、広場に出かけた。発火を目撃した人々に話を聞いて回った。
最初は、皆が面倒くさそうな顔をした。
「城の侍女が何を調べているんだ」
「テレジア奥方様に頼めばいいじゃないか」
そう言われるたびに、私は心の中でぐっと堪えた。
(自分でやる)
(もう少しだけ、自分でやってみる)
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聞き込みの一日目
市場の布地屋の店主が、四日前のことを話してくれた。
「昼過ぎに、店先に広げていた生地が突然焦げ始めてな。最初は火の粉でも飛んできたかと思ったが、近くに火の気はなかった。気がついたら、円く焦げていた」
「円く?」
「ああ、丸い焦げ跡だった。不思議だろう」
私はメモに書き込んだ。円く焦げている。
「どのあたりに生地を広げていましたか?」
「広場の東側、ちょうど時計台の前辺りだ。いつもあそこで広げているんだがな」
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果物屋の老人は、三日前のことを教えてくれた。
「干し草が少し燃えた。荷車の上に積んでいたんだが、昼過ぎにぱっと煙が出て。慌てて叩いたら消えたが、びっくりしたよ」
「何時頃でしたか?」
「時計台の鐘が三回鳴った後だったかな。そう、三時頃だ」
「場所は?」
「広場のこっち側だよ」
老人が指した場所は、やはり広場の東側だった。
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パン屋の女性は、二日前のことを話してくれた。
「紙袋が燃えた。積み上げておいた紙袋の一番上が、いきなり焦げて。水をかけて消したけれど、本当に怖かった。悪魔の仕業に違いないと思って、お祈りしたわ」
「お気持ちはわかります。場所はどのあたりでしたか?」
「広場の東の端よ。いつもそこで売っているから」
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夜、私は家に帰ってから集めた情報を整理した。
紙の上に書き並べる。
```
四日前 昼過ぎ三時頃 広場東側 布地が焦げた(丸い焦げ跡)
三日前 昼過ぎ三時頃 広場東側 干し草が燃えた
二日前 昼過ぎ三時頃 広場東側 紙袋が焦げた
昨日 昼過ぎ三時頃 広場東側 商人の帽子の羽が燃えた
```
並べてみると、はっきりした。
毎日、同じ時間。毎日、同じ場所。
(これは偶然じゃない)
私の胸が高鳴った。
(法則性がある!)
燃えるものも、布地、干し草、紙袋、羽飾りと違うが、共通点がある。どれも軽くて、火がつきやすいもの。
でも。
なぜ、その場所だけ?
なぜ、その時間だけ?
(現場に行って、確かめよう)
---
現場での観察
翌日、昼が近くなった頃、私は広場の東側に立った。
時計台の鐘が鳴るのを待ちながら、周りをゆっくり観察した。
まず、上を見た。空は晴れている。雲一つない、春の青空だ。太陽は南の空に高く上がっていて、じわじわと降り注いでいる。
次に、周りを見た。市場の店が並んでいる。石畳が続いている。特に変わったものは見当たらない。
地面を見た。ただの石畳だ。変わった跡もない。
(では、なぜここだけ発火するのか)
もう一度、上を見た。
空。
そして時計台。
その時。
「あ」
思わず声が出た。
時計台の新しい文字盤が、太陽の光を受けてまぶしく輝いていた。それ自体はいつも見ている光景だ。でも今日は、その光が自分の方に向かって来ているような、そんな気がした。
私はじっと見ようとして、思わず目を細めた。まぶしすぎて、直視できない。
でも、確かに、文字盤からの光がこちらに向かっている。
足元を見ると、石畳の一点が、他の場所より少し明るく見えた。いや、気のせいかもしれない。
私はしゃがんで、その場所に手を当てた。
(...少し暖かい?)
立ち上がって、二歩横に移動した。手を地面に当てる。
こちらはそうでもない。
また元の場所に戻る。手を当てる。
やはり、少し暖かい気がする。
(この場所だけ、光が集まっている?)
(時計台の文字盤が...この場所に光を送っている?)
(でも、なぜ?ただの文字盤が、なぜ光を集めるの?)
時計台の鐘が、ごーん、ごーん、ごーんと三回鳴った。
その瞬間、私のすぐ横に置いてあった枯れ葉が、ぱっと煙を上げた。
私は飛び退いた。
枯れ葉が、円く焦げていた。
(やはり、この場所だ)
(この時間だ)
(文字盤の光が、ここに集まっている)
(それが、発火を起こしている)
でも。
なぜ光が火を起こすのか。
光は光だ。暖かいとは思うが、燃やすほどの力があるのか。
文字盤はただの青銅だ。なぜ光を「集める」ことができるのか。
(わからない)
---
三日間の観察と限界
私はさらに三日間、同じ時間に同じ場所に立ち続けた。
一日目。やはり同じ場所が暖かく、同じ時間に燃えやすいものが焦げた。
二日目。曇りの日だったので、文字盤はそれほど輝かず、発火もなかった。
(晴れた日だけ起きるのか!)
これは大きな発見だった。太陽の光が関係していることは、もはや間違いない。
三日目。また晴れた日で、やはり同じ場所が暖かく、発火が起きた。
私は毎日、記録をつけた。
```
一日目 晴れ 昼三時頃 文字盤が輝く 発火あり
二日目 曇り 昼三時頃 文字盤くもり 発火なし
三日目 晴れ 昼三時頃 文字盤が輝く 発火あり
```
晴れの日だけ、太陽が特定の角度になる時間だけ、文字盤が輝き、光が広場の東側の一点に集まり、発火が起きる。
これだけのことは、分かった。
でも。
なぜ文字盤が光を集めるのか。
なぜ集まった光が火を起こすのか。
三日間考えても、分からなかった。
夜、家に帰って紙の前に座って、ぼんやりしていた。
悔しかった。
ここまで来た。法則性を見つけた。現場で確かめた。でも、最後の一歩が届かない。
(もっと本を読めば分かるかもしれない)
次の日、城の図書室を探した。光に関する本、鏡に関する本。でも、それらしいものは見つからなかった。
(誰かに聞けば...)
城の職人に聞いてみた。
「鏡が光を集めることってありますか?」
「鏡?光は反射するが、集めるというのは聞かないな」
鍛冶屋に聞いてみた。
「青銅の文字盤が、光を特定の場所に当てることってありますか?」
「さあ...わからんな。磨けば光るのは知っているが」
誰も、答えを持っていなかった。
その夜、私はもう一度紙の前に座った。
(これ以上は、私には無理かもしれない)
その考えが浮かんだ時、胸の奥がちくりと痛んだ。
悔しい。もっと自分でできると思っていた。でも、知識が足りない。経験が足りない。今の私では、ここが限界だ。
(認めよう)
奥方様はあの時、言っていた。「自分の限界を認めることも、大切なことです」と。
そして、「助けを求めることは、弱さではありません」とも。
(お父様の時だって、奥方様の力を借りた)
(一人でできないことがあっても、恥ずかしくない)
(大切なのは、諦めないことだ)
私は立ち上がった。
明日、奥方様に相談しよう。自分が調べたことを全部持って。そこから先を、一緒に考えてもらおう。
それが、正しい判断だと思った。
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第三章 テレジアへの相談
翌朝、私は城に着くなり、まっすぐ奥方様のお部屋に向かった。
扉をノックすると、いつものように「どうぞ」と声がした。
部屋に入ると、奥方様は窓辺の椅子で本を読んでいた。カイザーが膝の上で丸まって眠っている。穏やかな朝の光景だった。
「アンナ、どうしたのですか?少し顔色が悪いわ」
「実は...ご相談したいことがあって」
私は少し躊躇してから、続けた。
「ここ数日、一人で調べていたことがあります」
「一人で?」
「はい。奥方様に最初から頼るのではなく、自分でやってみようと思って」
奥方様は本を閉じた。私を見る目が、いつもと少し違った。何か、静かな期待のようなものがある気がした。
「聞かせてください」
私は、記録した紙を取り出して、最初から全部話した。
休日の広場で商人の帽子の羽が燃えたこと。周囲が「悪魔だ、妖精だ、奥方様に頼もう」と騒いだこと。でも私は自分で調べようと決めたこと。
聞き込みで分かった法則性。毎日昼過ぎの三時頃、広場の東側で、軽いものが発火すること。
現場での観察。時計台の文字盤がまぶしく輝いていること。その場所だけ、なぜか少し暖かいこと。
曇りの日は発火しないこと。
でも、そこから先が分からないこと。
なぜ文字盤が光を集めるのか。なぜ集まった光が発火させるのか。図書室でも調べたが答えが見つからなかったこと。
話しながら、自分でも改めて気づいた。これだけのことを、私は一人で調べた。
奥方様は最後まで、一言も口を挟まずに聞いていた。
話し終わると、しばらく沈黙があった。
奥方様が口を開いた。
「よく調べましたわね、アンナ」
穏やかな声だった。
「特定の時間、特定の場所、曇りの日は起きない。それを全部自分で見つけた。素晴らしいことです」
私の胸に、温かいものが広がった。
「ありがとうございます」
「それに」
奥方様は続けた。
「自分の限界を認めて、ここに来た。それも、とても大切な判断です」
そう言ってから、奥方様は少し間を置いた。
「一つだけ、聞かせてください」
「はい」
「文字盤の光を...直接、目で見ましたか?」
「はい。まぶしくて、目を細めましたが...何度か、じっと見てしまいました」
奥方様の顔が、わずかに曇った。
「目は、今も大丈夫ですか?痛みや、見えにくいところはありませんか?」
「はい、何ともないですが...なぜですか?」
「今回は良かった」
奥方様は静かに、でもはっきりと言った。
「集まった光を直接見ると、目を傷めることがあります。場合によっては、二度と見えなくなることも」
「え...!」
「今回はまだ光が完全に一点に集まっていなかったので、大丈夫だったのでしょう。でも、もし文字盤の真正面でその光を直接見ていたら」
私は背筋が寒くなった。
あの時、何度もまぶしい光を見た。もっと近くで、もっと長く見ていたら、どうなっていたか。
「...知りませんでした」
「だから言うのです」
奥方様は優しく続けた。
「調べることは素晴らしい。でも、知識がないまま危険に近づくことは、勇気ではなく無謀になってしまう」
「知識は、真実を明らかにするためだけでなく、自分を守るためにもあるのです」
私は深く頷いた。
「...すみませんでした」
「謝らなくていいのです」
奥方様は微笑んだ。
「知らなかっただけです。今、知りましたね。それで十分です」
カイザーが、奥方様の膝の上で伸びをした。
---
「では、何が起きていたか、説明しましょう」
奥方様は立ち上がって、棚に向かった。そこから取り出したのは、あの手鏡だった。
カイザーがすぐに顔を上げた。尻尾の先が、ぴくぴく動いている。
「アンナ、あなたも鏡を持って」
もう一枚の手鏡を渡された。
「はい」
「まず、私がやってみます。よく見ていてください」
奥方様は窓の前に立ち、手鏡を傾けた。窓から差し込む日光を受けて、壁の一点に光を当てた。
白い光の点が、壁に浮かぶ。
カイザーが床から立ち上がり、光の点に向かって歩き始めた。
「では、アンナ、同じ場所に光を当ててみてください」
私は鏡を傾けて、壁の同じ場所を狙った。
「もう少し上...右に少し...そうです。もう少し」
二つの光の点が、少しずつ近づいて、重なった。
「そのまま、動かさないで」
二人は鏡を固定して、じっと待った。カイザーが光の点に近づいてきた。壁に前足を当てて、ぺたぺたと触る。
「一分ほどこのまま」
私は鏡を持つ手を動かさないように気をつけながら、壁の光の点を見つめた。二つが重なったところが、少し明るく輝いている。
一分ほどが過ぎた頃、奥方様が言った。
「では、鏡を外して」
二人同時に鏡を下ろした。
「壁を触ってみてください」
私は恐る恐る、光が当たっていた場所に指先を当てた。
「...熱い!」
思わず手を引いた。
石の壁が、はっきりと熱くなっていた。
「二枚の鏡で光を重ねただけで、これだけ熱くなります」
奥方様は静かに言った。
「光は、集まると熱を持つのです」
私は壁の温かい場所を、もう一度そっと触った。
たった二枚の手鏡で、この熱さだ。
「では、時計台の文字盤を考えてみましょう」
奥方様は続けた。
「新しく取り付けられた文字盤は、ピカピカに磨かれています。表面が鏡のようになっている。だから光を反射します」
「はい」
「そして、もしその表面が、少しでも曲がっていたら」
奥方様は手鏡を軽く傾けた。光の点が、壁の一点に向かって動く。
「光が一点に集まります。この鏡のように」
「...!」
「建物の壁ほどの大きさの文字盤が、太陽の光を全面で受けて、一点に集めたとしたら」
「羽や布が...燃える」
「ええ」
奥方様は手鏡を下ろした。
「誰も悪くありません。ただ、光の性質がそうさせた。自然の現象です」
私の頭の中で、全てがつながった。
(あの鏡だ)
カイザーが追いかけていた、あの光だ。
あの手鏡が光を反射させて、壁に点を作るように、時計台の文字盤が太陽の光を反射させて、広場の一点に集めていた。
だから特定の時間だけ。太陽が特定の角度になる時間だけ、光が広場の東側の一点に集まって、発火が起きた。
曇りの日は太陽がないから、発火しなかった。
全部、つながった。
「奥方様、では文字盤が本当に曲がっているかどうか、どうやって確かめるのですか?あんな高いところに」
「良い質問ですね」
奥方様は裁縫箱を取り出して、中から一本の糸を取り出した。
糸をピンと張って見せる。
「これをご覧なさい。真っ直ぐでしょう?」
「はい」
「この糸を、文字盤の表面に当てます。もし平らなら、糸は面全体に触れます」
奥方様は糸の一点を指で押さえて、少し弓なりに曲げた。
「でも、少しでも曲がっていたら、糸と面の間に隙間ができます」
「なるほど...!それだけで分かるのですか?」
「ええ。真っ直ぐなものは、嘘をつきません」
私は改めて糸を見た。たった一本の糸。でも、これで確かめられる。
「でも、時計台に登って確かめるのは、私には」
「ギュンターに頼みましょう。職人を手配してもらえます」
奥方様はそう言ってから、ふと私を見た。
「アンナ」
「はい」
「一人で調べようとしたこと、どう思いますか?今になって」
私は少し考えた。
「...正しかったと思います」
「なぜ?」
「自分で動いたから、法則性が見つかった。自分で現場に行ったから、文字盤の光に気づいた。もし最初から奥方様に頼っていたら、私は何も考えないまま答えをもらっていた」
「ええ」
「でも、限界もありました。知識がなくては、最後の一歩が届かなかった」
「そうです」
奥方様は頷いた。
「自分で動く力と、助けを求める判断力。両方が必要なのです」
「はい」
「そして、知識は後からついてきます。今日、あなたは光について知りました。次からは、もっと遠くまで一人で行けるようになる」
私は深く頷いた。
少し目が、熱くなった。
「ありがとうございます、奥方様」
「いいえ」
奥方様は微笑んだ。
「一つだけ、覚えておいてください」
「危険な時は、早く来てください。私はここにいます。いつでも」
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終章 真実の光
ギュンター様に事情を話すと、すぐに動いてくれた。
「文字盤の検査か。なるほど、テレジアの推察は正しいかもしれない。職人を呼ぼう」
翌朝、時計台の修理を担当した職人が呼ばれた。四十がらみの、手の大きな男だった。私も立ち会いを許してもらった。
職人は時計台の内側から梯子を上がっていった。
待つこと、しばらく。
「確認できました!」
上から声が降りてきた。
「やはり、少し膨らんでいます!糸と面の間に、隙間があります!」
その場にいた全員が、顔を見合わせた。
「なんということだ」
ギュンター様が呟いた。
「新しく取り付けた文字盤が、わずかに凸面になっていたのか」
「申し訳ありません!」
職人が梯子を降りてきて、深く頭を下げた。
「気がつきませんでした。まさか文字盤の曲がりが、こんなことを引き起こすとは」
「あなたのせいではありません」
ギュンター様は言った。
「知らなかっただけだ。直せるか?」
「はい。文字盤の取り付け角度を変えれば、光が広場に向かわなくなります。すぐに対処します」
私は(やはり、そうだったんだ)と思いながら、胸の奥で何かが温まるのを感じた。
奥方様の推察が、正しかった。
でも。
法則性を見つけたのは、私だ。現場で確かめたのも、私だ。糸で確認するという方法を引き出したのも、私がわからないと言ったからだ。
この解決は、私が関わって生まれた。
(それで、いい)
工事はその日のうちに行われた。文字盤の取り付け角度がわずかに調整されて、光が広場の東側に向かわなくなった。
翌日から、発火現象は起きなくなった。
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数日後、私は商人のベルンハルトを探した。
市場の近くで、新しい帽子をかぶった商人を見つけた。羽飾りは控えめになっていたが、相変わらず派手な青い上着を着ている。
「覚えていらっしゃいますか?先日、帽子の羽が焦げた時に話しかけた者です」
「ああ、城の娘か。どうした?」
「原因が分かりました。そして、解決しました。もう発火は起きません」
商人は眉を上げた。
「悪魔でも妖精でもなかったのですか?」
「はい。時計台の新しい文字盤が、太陽の光を一点に集めていたのです」
私は、できる限り分かりやすく説明した。鏡が光を反射すること。曲がった面は光を集めること。集まった光は熱を持つこと。
商人はしばらく黙って聞いていた。
「つまり...悪魔の仕業でも何でもなく、ただの文字盤のせいだったと?」
「そうです」
「呆気ないな」
商人は苦笑いした。
「しかし、帽子の羽は焦げてしまった。弁償は?」
「それは...ギュンター伯爵様にご相談ください。城として、何らかの対応があるかと思います」
後日、ギュンター様が帽子の羽の代金を補償してくれた。
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広場の人々は、最初は半信半疑だった。
「悪魔じゃなかったのか」
「妖精のいたずらじゃないのか」
「では、なぜ燃えたのだ?」
私は何度でも説明した。光が集まれば熱くなること、文字盤の曲がりがそれを引き起こしていたこと、角度を直したから今後は起きないこと。
説明するたびに、少しずつ人々の顔から不安が消えていった。
「なんだ、そういうことか」
「文字盤一枚でそんなことが起きるのか。不思議だな」
「でも、理由が分かればなんてことはない」
そうだ、と私は思った。
理由が分かれば、怖くない。
知ることは、怖くない。
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その夜、私はテレジア奥方様のお部屋に報告に行った。
「解決しました。文字盤の角度を変えて、発火は止まりました」
「それは良かった」
奥方様は窓の外を見た。夕暮れの空が、茜色に染まっている。
「今回の事件は、ほとんどあなた一人でやり遂げましたわね」
「でも、最後は奥方様のお力を借りました」
「借りるべき時に借りた。それで良いのです」
カイザーが、どこからか部屋に入ってきた。奥方様の足元に来て、にゃあと短く鳴く。
奥方様が手鏡を取り出すと、カイザーがぴんと耳を立てた。尻尾の先が、ぴくぴく動いている。
壁に光の点が走った。
カイザーが飛んだ。
私は思わず笑った。
「カイザーは、全然懲りませんね」
「猫ですから」
奥方様も微笑んだ。
「でも、カイザーは光を目で追いかけるけれど、その光を直接じっと見ようとはしない。本能で、距離を保っているのでしょう」
「人間より賢い」
「かもしれませんね」
二人で笑った。
壁の上で光の点が踊り、カイザーがそれを追いかける。奥方様の顔に、さっき見た子供のような笑顔が戻っていた。
私は窓の外を見た。
夕日が、北海の向こうに沈みかけている。
光は、知れば怖くない。
知れば、こんなにも美しい。
(今日も、いい一日だった)
今日のメーレスブルクに、穏やかな一日が終わっていく。
すこし、いつもと違うフォーマットでお送りしています。感想など聞かせていただければ嬉しいです。




