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メーレスブルクの秘録  作者: ヒロセカズヒ
光の罠
16/28

第四話「光の罠」


序章 鏡と猫

 その日の朝、私はいつものように城門をくぐり、本館へと向かった。

 廊下を歩いていると、奥方様のお部屋の前で、妙な音が聞こえてきた。

 笑い声だ。

 奥方様の、くすくすという笑い声。

 滅多に聞かない声なので、私は思わず足を止めた。何事だろう。扉の前に立って、軽くノックしてから開けると。

 奥方様が、小さな手鏡を手に持って、壁に光の点を当てていた。

 白い光の点が、壁をゆらゆらと動く。

 そして、カイザーが。

 その光の点を、尻尾をぴんと立てて、目を輝かせて、真剣な顔で追いかけていた。

 前足でぺたっと押さえようとする。光はするりと逃げる。今度は跳びかかる。また逃げる。奥方様が手首をくるりと動かすと、光が壁の隅に走る。カイザーが全速力で追いかける。

 奥方様は、くすくすと笑いながら光をあちこちに動かしていた。

「奥方様」

 私が声をかけると、奥方様がこちらを向いた。少し照れたような顔をした。

「あら、アンナ。おはようございます」

「おはようございます。カイザーが、楽しそうですね」

「飽きないのですよ。もう随分やっているのに」

 カイザーは光が止まると、きょろきょろと辺りを見回して、また光を探し始めた。尻尾が、苛立たしそうに揺れている。

「その手鏡、いつもお部屋にあるのですか?」

「ええ。普段は棚の上に置いてあるのですが、今日はカイザーが棚に飛び乗ってしまって」

 奥方様が鏡を傾けると、光の点が床をすうっと走った。カイザーが横っ飛びに跳んだ。

 私は思わず笑った。

 奥方様も、カイザーも、本当に楽しそうだ。いつも静かなお部屋が、今日はなんだか明るい気がした。

「では、今日のお仕事を始めましょうか」

「ええ」

 奥方様は手鏡を棚に戻した。カイザーはしばらく棚の下でうろうろしていたが、やがて諦めたように丸まった。

 その後、仕事の合間に、私は奥方様に言った。

「明後日が休みなので、広場でのんびりしようかと思っています」

「良いですね」

 奥方様は窓の外を見た。春の日差しが、城の石畳を温かく染めている。

「良いお天気が続いていますから、気持ち良いでしょう」

「はい。お菓子でも買って、ゆっくりしようかと」

「楽しんできてください」

 奥方様は微笑んだ。

 この時の私には、あの手鏡が後に大きな謎の鍵になるとは、思いもしなかった。

---

第一章 休日の広場

 二日後の昼下がり、私は城下町の広場にいた。

 春の日差しが降り注ぐ、のんびりとした午後だ。広場のベンチに腰を下ろして、市場で買ったアーモンドの砂糖がけを食べながら、行き交う人々を眺めていた。

 広場は賑やかだった。市場の店主たちが声を上げ、子供たちが走り回り、港から帰ってきたらしい船乗りたちが笑い声を上げている。メーレスブルクの春の午後は、こんなふうに穏やかで活気があって、私は好きだった。

 ふと、広場の中心に立つ時計台を見上げた。

 先月、修理されたばかりだ。古くなった文字盤が新しいものに取り替えられて、青銅の表面がぴかぴかに磨き上げられている。太陽の光を受けて、今もきらきらと輝いていた。

 (きれいだな)

 私はアーモンドをもう一つ口に入れて、目を細めた。

 その時だった。

「ぎゃあ!」

 すぐ近くで、大きな叫び声が上がった。

 私は驚いて振り返った。

 華やかな身なりの商人が、帽子を頭から叩き落として、地面を踏みつけている。四十がらみの恰幅の良い男で、鮮やかな青い上着を着て、大きな羽飾りのついた帽子をかぶっていた。いや、かぶっていた、というべきか。今その帽子は地面の上にあって、羽飾りから白い煙が上がっていた。

 羽が、焦げていた。

「また起きた!もう何日続けてだと思っている!」

 商人は踏みつけるのをやめて、焦げた羽飾りを掴んで振り回した。

「この広場には悪魔がいる!昼になると必ずこういうことが起きる!おかしいと思わないか!」

 人々が集まってきた。焦げた羽を見て、どよめきが起きた。

「悪魔の仕業だ」

「いや、妖精のいたずらだろう」

「この広場には最近、変なことが起きる」

「三日前も、市場の布地が焦げたという話を聞いたぞ」

「確かに!うちのパン袋も昨日燃えかけた!」

 人々の声が重なって、広場がざわめいた。

「テレジア奥方様に相談しよう」

 誰かがそう言った。

「そうだ!奥方様なら、こういう不思議なことをご存知だ」

「お城に頼みに行こう」

 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがはっきりした。

 (違う)

 奥方様に頼むのは、簡単だ。奥方様なら、きっと答えを知っている。

 でも。

 お父様のことを思い出した。

 あの時、私は自分の足で動いた。商人のディートマールに会いに行って、ミュラーという名前を聞き出して、鍛冶屋を訪ねて、鞘職人を一軒一軒回った。怖かった。間違えるかもしれないと思った。でも、やった。だから、お父様の天秤は守られた。

 あの時、私は決めたはずだ。守られるだけではなく、守る側になると。自分で動くと。

 奥方様はいつも言う。「知識は人を守る武器になる」と。では、まず自分で調べてみよう。自分の目で見て、自分の頭で考える。

 (やってみよう)

 (必ず、理由がある)

 (悪魔でも妖精でもない。私が、見つける)

 私は立ち上がり、アーモンドの包みを鞄にしまった。

 のんびりとした休日は、終わりだ。

---

 まず、帽子を焦がされた商人に話しかけた。

「あの、失礼ですが。先ほどの帽子のこと、少し聞かせていただけますか」

 商人は焦げた羽飾りをまだ握ったまま、私を見た。

「何だ、お嬢さん。城の人間か?」

「はい。メーレスブルク城に仕えています。アンナと申します」

「ふん。では城の者に聞いてもらおう。この広場は呪われている!何とかしてもらわないと困る!」

「何日前から起きているのですか?」

「四日前からだ。毎日、昼過ぎになると決まって何かが燃える。昨日は俺の羽で、一昨日はどこかの店の紙袋で、その前は布地が焦げたと聞いた」

「毎日、昼過ぎに」

「そうだ。時計台の鐘が三回鳴った少し後、いつもそれくらいの時間だ」

「その時、あなたはどのあたりに立っていましたか?」

 商人は広場を見渡して、指を差した。

「この辺りだ。ちょうどここら辺に立っていると、決まって何かが起きる」

 私は商人が指した場所を確認した。時計台から見て、斜め前。広場の東側あたりだ。

「ありがとうございます」

 私はメモを取りながら、次の人に声をかけた。

---

第二章 アンナの調査

 その日から、私は調べ始めた。

 城の仕事が終わった後、あるいは休みの時間を使って、広場に出かけた。発火を目撃した人々に話を聞いて回った。

 最初は、皆が面倒くさそうな顔をした。

「城の侍女が何を調べているんだ」

「テレジア奥方様に頼めばいいじゃないか」

 そう言われるたびに、私は心の中でぐっと堪えた。

 (自分でやる)

 (もう少しだけ、自分でやってみる)

---

聞き込みの一日目

 市場の布地屋の店主が、四日前のことを話してくれた。

「昼過ぎに、店先に広げていた生地が突然焦げ始めてな。最初は火の粉でも飛んできたかと思ったが、近くに火の気はなかった。気がついたら、円く焦げていた」

「円く?」

「ああ、丸い焦げ跡だった。不思議だろう」

 私はメモに書き込んだ。円く焦げている。

「どのあたりに生地を広げていましたか?」

「広場の東側、ちょうど時計台の前辺りだ。いつもあそこで広げているんだがな」

---

 果物屋の老人は、三日前のことを教えてくれた。

「干し草が少し燃えた。荷車の上に積んでいたんだが、昼過ぎにぱっと煙が出て。慌てて叩いたら消えたが、びっくりしたよ」

「何時頃でしたか?」

「時計台の鐘が三回鳴った後だったかな。そう、三時頃だ」

「場所は?」

「広場のこっち側だよ」

 老人が指した場所は、やはり広場の東側だった。

---

 パン屋の女性は、二日前のことを話してくれた。

「紙袋が燃えた。積み上げておいた紙袋の一番上が、いきなり焦げて。水をかけて消したけれど、本当に怖かった。悪魔の仕業に違いないと思って、お祈りしたわ」

「お気持ちはわかります。場所はどのあたりでしたか?」

「広場の東の端よ。いつもそこで売っているから」

---

 夜、私は家に帰ってから集めた情報を整理した。

 紙の上に書き並べる。

```

四日前 昼過ぎ三時頃 広場東側 布地が焦げた(丸い焦げ跡)

三日前 昼過ぎ三時頃 広場東側 干し草が燃えた

二日前 昼過ぎ三時頃 広場東側 紙袋が焦げた

昨日  昼過ぎ三時頃 広場東側 商人の帽子の羽が燃えた

```

 並べてみると、はっきりした。

 毎日、同じ時間。毎日、同じ場所。

 (これは偶然じゃない)

 私の胸が高鳴った。

 (法則性がある!)

 燃えるものも、布地、干し草、紙袋、羽飾りと違うが、共通点がある。どれも軽くて、火がつきやすいもの。

 でも。

 なぜ、その場所だけ?

 なぜ、その時間だけ?

 (現場に行って、確かめよう)

---

現場での観察

 翌日、昼が近くなった頃、私は広場の東側に立った。

 時計台の鐘が鳴るのを待ちながら、周りをゆっくり観察した。

 まず、上を見た。空は晴れている。雲一つない、春の青空だ。太陽は南の空に高く上がっていて、じわじわと降り注いでいる。

 次に、周りを見た。市場の店が並んでいる。石畳が続いている。特に変わったものは見当たらない。

 地面を見た。ただの石畳だ。変わった跡もない。

 (では、なぜここだけ発火するのか)

 もう一度、上を見た。

 空。

 そして時計台。

 その時。

「あ」

 思わず声が出た。

 時計台の新しい文字盤が、太陽の光を受けてまぶしく輝いていた。それ自体はいつも見ている光景だ。でも今日は、その光が自分の方に向かって来ているような、そんな気がした。

 私はじっと見ようとして、思わず目を細めた。まぶしすぎて、直視できない。

 でも、確かに、文字盤からの光がこちらに向かっている。

 足元を見ると、石畳の一点が、他の場所より少し明るく見えた。いや、気のせいかもしれない。

 私はしゃがんで、その場所に手を当てた。

 (...少し暖かい?)

 立ち上がって、二歩横に移動した。手を地面に当てる。

 こちらはそうでもない。

 また元の場所に戻る。手を当てる。

 やはり、少し暖かい気がする。

 (この場所だけ、光が集まっている?)

 (時計台の文字盤が...この場所に光を送っている?)

 (でも、なぜ?ただの文字盤が、なぜ光を集めるの?)

 時計台の鐘が、ごーん、ごーん、ごーんと三回鳴った。

 その瞬間、私のすぐ横に置いてあった枯れ葉が、ぱっと煙を上げた。

 私は飛び退いた。

 枯れ葉が、円く焦げていた。

 (やはり、この場所だ)

 (この時間だ)

 (文字盤の光が、ここに集まっている)

 (それが、発火を起こしている)

 でも。

 なぜ光が火を起こすのか。

 光は光だ。暖かいとは思うが、燃やすほどの力があるのか。

 文字盤はただの青銅だ。なぜ光を「集める」ことができるのか。

 (わからない)

---

三日間の観察と限界

 私はさらに三日間、同じ時間に同じ場所に立ち続けた。

 一日目。やはり同じ場所が暖かく、同じ時間に燃えやすいものが焦げた。

 二日目。曇りの日だったので、文字盤はそれほど輝かず、発火もなかった。

 (晴れた日だけ起きるのか!)

 これは大きな発見だった。太陽の光が関係していることは、もはや間違いない。

 三日目。また晴れた日で、やはり同じ場所が暖かく、発火が起きた。

 私は毎日、記録をつけた。

```

一日目 晴れ 昼三時頃 文字盤が輝く 発火あり

二日目 曇り 昼三時頃 文字盤くもり 発火なし

三日目 晴れ 昼三時頃 文字盤が輝く 発火あり

```

 晴れの日だけ、太陽が特定の角度になる時間だけ、文字盤が輝き、光が広場の東側の一点に集まり、発火が起きる。

 これだけのことは、分かった。

 でも。

 なぜ文字盤が光を集めるのか。

 なぜ集まった光が火を起こすのか。

 三日間考えても、分からなかった。

 夜、家に帰って紙の前に座って、ぼんやりしていた。

 悔しかった。

 ここまで来た。法則性を見つけた。現場で確かめた。でも、最後の一歩が届かない。

 (もっと本を読めば分かるかもしれない)

 次の日、城の図書室を探した。光に関する本、鏡に関する本。でも、それらしいものは見つからなかった。

 (誰かに聞けば...)

 城の職人に聞いてみた。

「鏡が光を集めることってありますか?」

「鏡?光は反射するが、集めるというのは聞かないな」

 鍛冶屋に聞いてみた。

「青銅の文字盤が、光を特定の場所に当てることってありますか?」

「さあ...わからんな。磨けば光るのは知っているが」

 誰も、答えを持っていなかった。

 その夜、私はもう一度紙の前に座った。

 (これ以上は、私には無理かもしれない)

 その考えが浮かんだ時、胸の奥がちくりと痛んだ。

 悔しい。もっと自分でできると思っていた。でも、知識が足りない。経験が足りない。今の私では、ここが限界だ。

 (認めよう)

 奥方様はあの時、言っていた。「自分の限界を認めることも、大切なことです」と。

 そして、「助けを求めることは、弱さではありません」とも。

 (お父様の時だって、奥方様の力を借りた)

 (一人でできないことがあっても、恥ずかしくない)

 (大切なのは、諦めないことだ)

 私は立ち上がった。

 明日、奥方様に相談しよう。自分が調べたことを全部持って。そこから先を、一緒に考えてもらおう。

 それが、正しい判断だと思った。

---

第三章 テレジアへの相談

 翌朝、私は城に着くなり、まっすぐ奥方様のお部屋に向かった。

 扉をノックすると、いつものように「どうぞ」と声がした。

 部屋に入ると、奥方様は窓辺の椅子で本を読んでいた。カイザーが膝の上で丸まって眠っている。穏やかな朝の光景だった。

「アンナ、どうしたのですか?少し顔色が悪いわ」

「実は...ご相談したいことがあって」

 私は少し躊躇してから、続けた。

「ここ数日、一人で調べていたことがあります」

「一人で?」

「はい。奥方様に最初から頼るのではなく、自分でやってみようと思って」

 奥方様は本を閉じた。私を見る目が、いつもと少し違った。何か、静かな期待のようなものがある気がした。

「聞かせてください」

 私は、記録した紙を取り出して、最初から全部話した。

 休日の広場で商人の帽子の羽が燃えたこと。周囲が「悪魔だ、妖精だ、奥方様に頼もう」と騒いだこと。でも私は自分で調べようと決めたこと。

 聞き込みで分かった法則性。毎日昼過ぎの三時頃、広場の東側で、軽いものが発火すること。

 現場での観察。時計台の文字盤がまぶしく輝いていること。その場所だけ、なぜか少し暖かいこと。

 曇りの日は発火しないこと。

 でも、そこから先が分からないこと。

 なぜ文字盤が光を集めるのか。なぜ集まった光が発火させるのか。図書室でも調べたが答えが見つからなかったこと。

 話しながら、自分でも改めて気づいた。これだけのことを、私は一人で調べた。

 奥方様は最後まで、一言も口を挟まずに聞いていた。

 話し終わると、しばらく沈黙があった。

 奥方様が口を開いた。

「よく調べましたわね、アンナ」

 穏やかな声だった。

「特定の時間、特定の場所、曇りの日は起きない。それを全部自分で見つけた。素晴らしいことです」

 私の胸に、温かいものが広がった。

「ありがとうございます」

「それに」

 奥方様は続けた。

「自分の限界を認めて、ここに来た。それも、とても大切な判断です」

 そう言ってから、奥方様は少し間を置いた。

「一つだけ、聞かせてください」

「はい」

「文字盤の光を...直接、目で見ましたか?」

「はい。まぶしくて、目を細めましたが...何度か、じっと見てしまいました」

 奥方様の顔が、わずかに曇った。

「目は、今も大丈夫ですか?痛みや、見えにくいところはありませんか?」

「はい、何ともないですが...なぜですか?」

「今回は良かった」

 奥方様は静かに、でもはっきりと言った。

「集まった光を直接見ると、目を傷めることがあります。場合によっては、二度と見えなくなることも」

「え...!」

「今回はまだ光が完全に一点に集まっていなかったので、大丈夫だったのでしょう。でも、もし文字盤の真正面でその光を直接見ていたら」

 私は背筋が寒くなった。

 あの時、何度もまぶしい光を見た。もっと近くで、もっと長く見ていたら、どうなっていたか。

「...知りませんでした」

「だから言うのです」

 奥方様は優しく続けた。

「調べることは素晴らしい。でも、知識がないまま危険に近づくことは、勇気ではなく無謀になってしまう」

「知識は、真実を明らかにするためだけでなく、自分を守るためにもあるのです」

 私は深く頷いた。

「...すみませんでした」

「謝らなくていいのです」

 奥方様は微笑んだ。

「知らなかっただけです。今、知りましたね。それで十分です」

 カイザーが、奥方様の膝の上で伸びをした。

---

「では、何が起きていたか、説明しましょう」

 奥方様は立ち上がって、棚に向かった。そこから取り出したのは、あの手鏡だった。

 カイザーがすぐに顔を上げた。尻尾の先が、ぴくぴく動いている。

「アンナ、あなたも鏡を持って」

 もう一枚の手鏡を渡された。

「はい」

「まず、私がやってみます。よく見ていてください」

 奥方様は窓の前に立ち、手鏡を傾けた。窓から差し込む日光を受けて、壁の一点に光を当てた。

 白い光の点が、壁に浮かぶ。

 カイザーが床から立ち上がり、光の点に向かって歩き始めた。

「では、アンナ、同じ場所に光を当ててみてください」

 私は鏡を傾けて、壁の同じ場所を狙った。

「もう少し上...右に少し...そうです。もう少し」

 二つの光の点が、少しずつ近づいて、重なった。

「そのまま、動かさないで」

 二人は鏡を固定して、じっと待った。カイザーが光の点に近づいてきた。壁に前足を当てて、ぺたぺたと触る。

「一分ほどこのまま」

 私は鏡を持つ手を動かさないように気をつけながら、壁の光の点を見つめた。二つが重なったところが、少し明るく輝いている。

 一分ほどが過ぎた頃、奥方様が言った。

「では、鏡を外して」

 二人同時に鏡を下ろした。

「壁を触ってみてください」

 私は恐る恐る、光が当たっていた場所に指先を当てた。

「...熱い!」

 思わず手を引いた。

 石の壁が、はっきりと熱くなっていた。

「二枚の鏡で光を重ねただけで、これだけ熱くなります」

 奥方様は静かに言った。

「光は、集まると熱を持つのです」

 私は壁の温かい場所を、もう一度そっと触った。

 たった二枚の手鏡で、この熱さだ。

「では、時計台の文字盤を考えてみましょう」

 奥方様は続けた。

「新しく取り付けられた文字盤は、ピカピカに磨かれています。表面が鏡のようになっている。だから光を反射します」

「はい」

「そして、もしその表面が、少しでも曲がっていたら」

 奥方様は手鏡を軽く傾けた。光の点が、壁の一点に向かって動く。

「光が一点に集まります。この鏡のように」

「...!」

「建物の壁ほどの大きさの文字盤が、太陽の光を全面で受けて、一点に集めたとしたら」

「羽や布が...燃える」

「ええ」

 奥方様は手鏡を下ろした。

「誰も悪くありません。ただ、光の性質がそうさせた。自然の現象です」

 私の頭の中で、全てがつながった。

 (あの鏡だ)

 カイザーが追いかけていた、あの光だ。

 あの手鏡が光を反射させて、壁に点を作るように、時計台の文字盤が太陽の光を反射させて、広場の一点に集めていた。

 だから特定の時間だけ。太陽が特定の角度になる時間だけ、光が広場の東側の一点に集まって、発火が起きた。

 曇りの日は太陽がないから、発火しなかった。

 全部、つながった。

「奥方様、では文字盤が本当に曲がっているかどうか、どうやって確かめるのですか?あんな高いところに」

「良い質問ですね」

 奥方様は裁縫箱を取り出して、中から一本の糸を取り出した。

 糸をピンと張って見せる。

「これをご覧なさい。真っ直ぐでしょう?」

「はい」

「この糸を、文字盤の表面に当てます。もし平らなら、糸は面全体に触れます」

 奥方様は糸の一点を指で押さえて、少し弓なりに曲げた。

「でも、少しでも曲がっていたら、糸と面の間に隙間ができます」

「なるほど...!それだけで分かるのですか?」

「ええ。真っ直ぐなものは、嘘をつきません」

 私は改めて糸を見た。たった一本の糸。でも、これで確かめられる。

「でも、時計台に登って確かめるのは、私には」

「ギュンターに頼みましょう。職人を手配してもらえます」

 奥方様はそう言ってから、ふと私を見た。

「アンナ」

「はい」

「一人で調べようとしたこと、どう思いますか?今になって」

 私は少し考えた。

「...正しかったと思います」

「なぜ?」

「自分で動いたから、法則性が見つかった。自分で現場に行ったから、文字盤の光に気づいた。もし最初から奥方様に頼っていたら、私は何も考えないまま答えをもらっていた」

「ええ」

「でも、限界もありました。知識がなくては、最後の一歩が届かなかった」

「そうです」

 奥方様は頷いた。

「自分で動く力と、助けを求める判断力。両方が必要なのです」

「はい」

「そして、知識は後からついてきます。今日、あなたは光について知りました。次からは、もっと遠くまで一人で行けるようになる」

 私は深く頷いた。

 少し目が、熱くなった。

「ありがとうございます、奥方様」

「いいえ」

 奥方様は微笑んだ。

「一つだけ、覚えておいてください」

「危険な時は、早く来てください。私はここにいます。いつでも」

---

終章 真実の光

 ギュンター様に事情を話すと、すぐに動いてくれた。

「文字盤の検査か。なるほど、テレジアの推察は正しいかもしれない。職人を呼ぼう」

 翌朝、時計台の修理を担当した職人が呼ばれた。四十がらみの、手の大きな男だった。私も立ち会いを許してもらった。

 職人は時計台の内側から梯子を上がっていった。

 待つこと、しばらく。

「確認できました!」

 上から声が降りてきた。

「やはり、少し膨らんでいます!糸と面の間に、隙間があります!」

 その場にいた全員が、顔を見合わせた。

「なんということだ」

 ギュンター様が呟いた。

「新しく取り付けた文字盤が、わずかに凸面になっていたのか」

「申し訳ありません!」

 職人が梯子を降りてきて、深く頭を下げた。

「気がつきませんでした。まさか文字盤の曲がりが、こんなことを引き起こすとは」

「あなたのせいではありません」

 ギュンター様は言った。

「知らなかっただけだ。直せるか?」

「はい。文字盤の取り付け角度を変えれば、光が広場に向かわなくなります。すぐに対処します」

 私は(やはり、そうだったんだ)と思いながら、胸の奥で何かが温まるのを感じた。

 奥方様の推察が、正しかった。

 でも。

 法則性を見つけたのは、私だ。現場で確かめたのも、私だ。糸で確認するという方法を引き出したのも、私がわからないと言ったからだ。

 この解決は、私が関わって生まれた。

 (それで、いい)

 工事はその日のうちに行われた。文字盤の取り付け角度がわずかに調整されて、光が広場の東側に向かわなくなった。

 翌日から、発火現象は起きなくなった。

---

 数日後、私は商人のベルンハルトを探した。

 市場の近くで、新しい帽子をかぶった商人を見つけた。羽飾りは控えめになっていたが、相変わらず派手な青い上着を着ている。

「覚えていらっしゃいますか?先日、帽子の羽が焦げた時に話しかけた者です」

「ああ、城の娘か。どうした?」

「原因が分かりました。そして、解決しました。もう発火は起きません」

 商人は眉を上げた。

「悪魔でも妖精でもなかったのですか?」

「はい。時計台の新しい文字盤が、太陽の光を一点に集めていたのです」

 私は、できる限り分かりやすく説明した。鏡が光を反射すること。曲がった面は光を集めること。集まった光は熱を持つこと。

 商人はしばらく黙って聞いていた。

「つまり...悪魔の仕業でも何でもなく、ただの文字盤のせいだったと?」

「そうです」

「呆気ないな」

 商人は苦笑いした。

「しかし、帽子の羽は焦げてしまった。弁償は?」

「それは...ギュンター伯爵様にご相談ください。城として、何らかの対応があるかと思います」

 後日、ギュンター様が帽子の羽の代金を補償してくれた。

---

 広場の人々は、最初は半信半疑だった。

「悪魔じゃなかったのか」

「妖精のいたずらじゃないのか」

「では、なぜ燃えたのだ?」

 私は何度でも説明した。光が集まれば熱くなること、文字盤の曲がりがそれを引き起こしていたこと、角度を直したから今後は起きないこと。

 説明するたびに、少しずつ人々の顔から不安が消えていった。

「なんだ、そういうことか」

「文字盤一枚でそんなことが起きるのか。不思議だな」

「でも、理由が分かればなんてことはない」

 そうだ、と私は思った。

 理由が分かれば、怖くない。

 知ることは、怖くない。

---

 その夜、私はテレジア奥方様のお部屋に報告に行った。

「解決しました。文字盤の角度を変えて、発火は止まりました」

「それは良かった」

 奥方様は窓の外を見た。夕暮れの空が、茜色に染まっている。

「今回の事件は、ほとんどあなた一人でやり遂げましたわね」

「でも、最後は奥方様のお力を借りました」

「借りるべき時に借りた。それで良いのです」

 カイザーが、どこからか部屋に入ってきた。奥方様の足元に来て、にゃあと短く鳴く。

 奥方様が手鏡を取り出すと、カイザーがぴんと耳を立てた。尻尾の先が、ぴくぴく動いている。

 壁に光の点が走った。

 カイザーが飛んだ。

 私は思わず笑った。

「カイザーは、全然懲りませんね」

「猫ですから」

 奥方様も微笑んだ。

「でも、カイザーは光を目で追いかけるけれど、その光を直接じっと見ようとはしない。本能で、距離を保っているのでしょう」

「人間より賢い」

「かもしれませんね」

 二人で笑った。

 壁の上で光の点が踊り、カイザーがそれを追いかける。奥方様の顔に、さっき見た子供のような笑顔が戻っていた。

 私は窓の外を見た。

 夕日が、北海の向こうに沈みかけている。

 光は、知れば怖くない。

 知れば、こんなにも美しい。

 (今日も、いい一日だった)

 今日のメーレスブルクに、穏やかな一日が終わっていく。

すこし、いつもと違うフォーマットでお送りしています。感想など聞かせていただければ嬉しいです。

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