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メーレスブルクの秘録  作者: ヒロセカズヒ
東の国の剣
15/28

第三話「東の国の剣」 終章 偽りの銘

 取引の当日、私は朝から落ち着かなかった。

 奥方様のお部屋に挨拶に行くと、奥方様はいつもの窓辺の椅子に座って本を読んでいた。

「アンナ、準備はいいですか?」

「はい」

「緊張していますか?」

 正直に答えた。

「少し」

「それで良いのです」

 奥方様は本を閉じて、私を見た。

「緊張している時の方が、丁寧に話せます。調べたことをそのまま伝えればいい。あなたの調査は正しい。信じなさい」

「はい」

「では、行ってらっしゃい」

 私は深呼吸をして、応接室へ向かった。

---

 応接室には、既に全員が揃っていた。

 上座にギュンター伯爵様。エッカート男爵様は右手の椅子に腰を下ろし、ディートマールとヨハン父は向かい合う形で立っている。クラウス船長は壁際に控えており、フリードリヒ執事が入口近くに立って記録の準備をしていた。衛兵が二人、扉の脇に立っている。

 テーブルの中央に、あの剣が置かれていた。

 私は部屋の隅に立った。父が私に気づいて、少し不思議そうな顔をした。なぜ娘がここにいるのか、という顔だ。私は小さく頷いた。

「では、取引を」

 男爵様が口を開いた。その顔には期待と興奮がある。三年越しの念願が、ようやく叶うのだという喜びがにじみ出ていた。

「少々お待ちください」

 ギュンター様が静かに言った。

 男爵様が怪訝そうな顔をした。

「この剣について、確認したいことがあります。アンナ、報告を」

 私は一歩前に出た。

 全員の目が私に向いた。ディートマールの顔が、わずかに曇った。

 (大丈夫。調べたことを、そのまま話すだけ)

「この剣の製作に、ハンス・ミュラーという鍛冶職人が関わっています」

 部屋の空気が、少し変わった。

 フリードリヒ執事が眉を動かした。

「ハンス・ミュラー...!」

「知っているか、フリードリヒ」

 ギュンター様が執事を見た。

「はい。この地方でよく知られた鍛冶職人です。腕は確かですが...模造品作りで名を知られています。ご自分の作品には必ず銘を入れます。これは模造品であると、誰にでも分かるように」

「どこに銘を入れる?」

「鞘や柄など、見える場所に。アルファベットで『HANS MUELLER』と」

 私は続けた。

「この剣には鞘がありません。商人のディートマール様は、運搬中に傷んだとおっしゃっていました。しかし、城下町の鞘職人の誰も、修理の依頼を受けていません」

 ディートマールの顔が青くなった。

「つまり」

 ギュンター様が静かに、しかしはっきりと言った。

「鞘は捨てられた。ミュラーの銘を隠すために」

「そ、それは...」

「しかし」

 ギュンター様は立ち上がり、剣の前に歩いた。

「念入りな職人なら、鞘だけでなく他の場所にも銘を入れているかもしれない」

 剣の柄に手をかけた。

「お待ちください!」

 ディートマールが声を上げた。

「なぜ困る」

 ギュンター様は振り返らずに言った。

「本物なら、何も問題ないはずだが」

 ディートマールは何も言えなくなった。

 ギュンター様はゆっくりと、『東方諸国見聞録』の図解を横に広げ、それを参照しながら柄を外した。

 茎が露わになった。

 部屋の全員が、テーブルに近づくように前のめりになった。

 そこに刻まれていたのは。

「HANS MUELLER 1515」

 アルファベットで、くっきりと彫られた文字だった。

 沈黙が落ちた。

 最初に声を上げたのは、クラウス船長だった。

「これは...我々の文字ではないか。アルファベットだ」

「やはり、ミュラーの作でしたか」

 執事が静かに言った。

「念には念を入れて、茎にも銘を入れておいたのでしょう。鞘に入れ、茎にも入れる。二重の証明です」

「職人の誠実さが」

 ギュンター様は剣を置いた。

「今回の詐欺を暴きました」

 男爵様は目を丸くしていた。

「ディートマール、説明してもらおうか」

 ギュンター様の声は穏やかだったが、有無を言わせない重さがあった。

 ディートマールは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと肩が落ちた。

「...認めます」

 絞り出すような声だった。

「偽物です。ミュラーに、東の国の剣に似せて作るよう依頼しました。鞘に銘が入っていることは知っていました。だから鞘を捨てた。しかし...まさか茎にも入れてあるとは、思いませんでした」

「自業自得だな」

 ギュンター様は短く言った。

---

「ディートマール、お前の罪は重い」

 ギュンター様は静かに、しかし厳かに告げた。

「偽物と知りながら売ろうとした。それは商人としての信頼を根本から裏切る行いだ。お前をこの地から追放する。メーレスブルクで商いをすることは、二度と許さない」

「...はい」

 ディートマールは頭を垂れた。

「フリードリヒ」

「はっ」

「ディートマールの店から、取引用の天秤を持ってきなさい」

 執事の顔に、一瞬驚きが走った。しかし、すぐに頷いて部屋を出た。

 天秤、という言葉に、私の胸が鋭く反応した。

 しばらくして、執事が戻った。重そうに抱えているのは、真鍮製の立派な天秤だった。磨き込まれた金属が、部屋の灯りを受けて鈍く光っている。

 ギュンター様はそれを受け取った。

 両手でしっかりと持ち、一度ディートマールを見た。

「これが、お前の商人としての証だった」

 ディートマールの顔が歪んだ。

「だが、お前はそれを自ら裏切った」

 ギュンター様は、天秤を高く掲げた。

 そして。

 床に、叩きつけた。

 ガシャン!

 金属が石床に砕ける音が、応接室の壁に響いた。

 天秤の皿が外れ、支柱が曲がり、もう二度と使い物にならない形に歪んでいた。

 ディートマールが声を上げて泣いた。

「ああ...ああ...」

 それは、ただの泣き声ではなかった。何年もかけて築いてきた商人としての人生が、目の前で終わった時の声だった。

 部屋の全員が、黙って見ていた。

 私は父を見た。

 父の顔は、血の気が引いたように真っ白だった。壊れた天秤を、目を離せない様子でじっと見ていた。

 (もし、私が...)

 父の唇が、音もなく動いた。

「連れて行け」

 ギュンター様の言葉に、衛兵がディートマールの両腕を取った。

 ディートマールは壊れた天秤を振り返り振り返りしながら、引きずられるように部屋を出て行った。

 重い沈黙が残った。

---

「ヨハン!」

 男爵様が父に向き直った。

「君も共犯か!」

「いいえ!」

 父はすぐに言った。

「私は何も知りませんでした。本物だと信じて、仲介をお引き受けしたのです」

「ヨハンに悪意はありませんでした」

 ギュンター様が言った。

「アンナの調査によって、それは明らかです。むしろ、ヨハンは真相の解明に協力してくれた」

「...そうか」

 男爵様は少しの間考えてから、深くため息をついた。

「ヨハン、疑って悪かった。それに、アンナ、よく調べてくれた。感謝する」

「いえ、私は当然のことを」

 その時、父がゆっくりと私の方を向いた。

 父の目に、涙が浮かんでいた。

「もし...もし私があのまま取引を進めていたら」

 父の声は震えていた。

「あの天秤を壊されていたのは、私だった。祖父の代から使ってきた天秤を...商人としての命を...」

「お父様」

「お前が気づいてくれたから」

 父は私に歩み寄り、両手をしっかりと握った。

「お前が動いてくれたから、私は守られた。ありがとう、アンナ」

 私は、涙が出そうになった。ぐっとこらえた。

「ギュンター伯爵、本当にありがとうございました」

 父がギュンター様に深く頭を下げた。

「ヨハン、これからも誠実に商いを続けなさい」

 ギュンター様は穏やかに言った。

「その天秤が輝き続けるように」

「はい。肝に銘じます」

---

 男爵様が帰り際、ギュンター様と短く言葉を交わした。

「伯爵、奥方様によろしくお伝えください。真相を見抜かれた洞察力、見事でした」

「ありがとう。妻にも伝えよう」

「実は...私も少し悔しい」

 男爵様は苦笑いをした。

「三年探して、やっと手が届きそうになったのに、また振り出しに戻った。本物の日本刀は、まだどこかにあるはずなのだが」

「諦めずに探し続けてください」

「ええ。ところで、奥方様も日本に興味がおありとか?」

 ギュンター様が少し表情を和らげた。

「妻が先ほど、もし日本のものを手に入れたら見せてほしいと申しておりました。伝言をお願いできますか」

「もちろんです!喜んで。奥方様が興味を持ってくださるとは嬉しい。ぜひ、本物が見つかった際にはご一緒に確かめましょう」

 男爵様は晴れ晴れとした顔で部屋を出た。クラウス船長も後に続いた。

 応接室に残ったのは、ギュンター様と、父と、私だけになった。

---

 テレジアのお部屋の扉を叩くと、すぐに「どうぞ」と声があった。

 奥方様は窓辺に立っていた。遠くから微かに聞こえた、あの音を聞いていたのかもしれない。

「奥方様、報告します」

「ええ、聞かせてください」

 私は順を追って話した。茎に刻まれていた銘のこと、執事がミュラーのことを知っていたこと、ディートマールが認めたこと。そして、天秤が壊されたこと。お父様が救われたこと。男爵様からの伝言のこと。

 奥方様は静かに、最後まで聞いていた。

「よく頑張りましたわね、アンナ」

「奥方様が、調べる方向を示してくださったから」

「いいえ」

 奥方様は首を振った。

「動いたのはあなたです。商人に会いに行き、町の人に聞いて回り、鞘職人まで訪ねた。私にはできなかったことを、あなたがやり遂げた」

「奥方様...」

「あなたは成長しましたわ、アンナ」

 奥方様は穏やかに、でもはっきりと言った。

「守るということは、時に怖いことです。間違っていたら、と思う。相手を傷つけてしまったら、と思う。それでも動かなければならない時がある。あなたは今日、それをやり遂げました」

「でも、私は...ただ、お父様を守りたかっただけで」

「それで良いのです」

 奥方様は微笑んだ。

「大切な人を守りたいという気持ちが、人を動かす。あなたはもう、守られるだけの子供ではありません。守ることができる人です」

 涙が出そうになった。今度は、こらえられなかった。一粒だけこぼれたのを、急いで拭いた。

「ありがとうございます、奥方様」

「私こそ、ありがとう」

 奥方様は窓の外に目をやった。

「外に出られない私の代わりに、あなたが歩いてくれた。あなたの目で見て、あなたの足で調べてくれた。だから真実が明らかになった」

 しばらく、二人で黙っていた。

「男爵様からの伝言ですが」

 私は思い出して言った。

「日本のものが見つかったら、ぜひお見せしたいと」

 奥方様の肩が、わずかに動いた。

「...本当に?」

「はい。伯爵様が伝えてくださって。『お互いに確かめ合いましょう』とおっしゃっていたそうです」

 奥方様は何も言わなかった。ただ、窓の外を見ていた。

 夕日が、北海の向こうに沈みかけていた。茜色に染まった雲が、静かに流れている。

 (奥方様はなぜ、そんなに日本に興味があるのだろう)

 私には、まだわからなかった。でも、奥方様の目に宿っているものが何か、その時の私には名前がつけられた気がした。

 希望だ。

 小さな、でも確かな希望。

 テレジアは窓の外を見つめていた。

 (偽物だった)

 (でも、良かった)

 (この世界の本物の日本刀は、まだどこかにある)

 (本物の銘は、きっと私が知っている形の文字で刻まれているはずだ)

 (この世界の日本は...もしかしたら、私の知っている日本と同じかもしれない)

 (いつか、男爵様が見つけてくれたら)

 (その時、わかるかもしれない)

 外の風が、窓ガラスを静かに揺らした。

「奥方様」

 私は言った。

「いつか、一緒に外を歩きましょう。私が一緒にいますから」

 奥方様は振り返り、私を見た。

 それから、ゆっくりと笑った。

「...ええ」

「いつか、きっと」

 夕日が沈んでいく。

 でも、窓辺に立つ二人の心の中には、小さな灯りがともっていた。

 今は、それだけで十分だった。


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