第三話「東の国の剣」 終章 偽りの銘
取引の当日、私は朝から落ち着かなかった。
奥方様のお部屋に挨拶に行くと、奥方様はいつもの窓辺の椅子に座って本を読んでいた。
「アンナ、準備はいいですか?」
「はい」
「緊張していますか?」
正直に答えた。
「少し」
「それで良いのです」
奥方様は本を閉じて、私を見た。
「緊張している時の方が、丁寧に話せます。調べたことをそのまま伝えればいい。あなたの調査は正しい。信じなさい」
「はい」
「では、行ってらっしゃい」
私は深呼吸をして、応接室へ向かった。
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応接室には、既に全員が揃っていた。
上座にギュンター伯爵様。エッカート男爵様は右手の椅子に腰を下ろし、ディートマールとヨハン父は向かい合う形で立っている。クラウス船長は壁際に控えており、フリードリヒ執事が入口近くに立って記録の準備をしていた。衛兵が二人、扉の脇に立っている。
テーブルの中央に、あの剣が置かれていた。
私は部屋の隅に立った。父が私に気づいて、少し不思議そうな顔をした。なぜ娘がここにいるのか、という顔だ。私は小さく頷いた。
「では、取引を」
男爵様が口を開いた。その顔には期待と興奮がある。三年越しの念願が、ようやく叶うのだという喜びがにじみ出ていた。
「少々お待ちください」
ギュンター様が静かに言った。
男爵様が怪訝そうな顔をした。
「この剣について、確認したいことがあります。アンナ、報告を」
私は一歩前に出た。
全員の目が私に向いた。ディートマールの顔が、わずかに曇った。
(大丈夫。調べたことを、そのまま話すだけ)
「この剣の製作に、ハンス・ミュラーという鍛冶職人が関わっています」
部屋の空気が、少し変わった。
フリードリヒ執事が眉を動かした。
「ハンス・ミュラー...!」
「知っているか、フリードリヒ」
ギュンター様が執事を見た。
「はい。この地方でよく知られた鍛冶職人です。腕は確かですが...模造品作りで名を知られています。ご自分の作品には必ず銘を入れます。これは模造品であると、誰にでも分かるように」
「どこに銘を入れる?」
「鞘や柄など、見える場所に。アルファベットで『HANS MUELLER』と」
私は続けた。
「この剣には鞘がありません。商人のディートマール様は、運搬中に傷んだとおっしゃっていました。しかし、城下町の鞘職人の誰も、修理の依頼を受けていません」
ディートマールの顔が青くなった。
「つまり」
ギュンター様が静かに、しかしはっきりと言った。
「鞘は捨てられた。ミュラーの銘を隠すために」
「そ、それは...」
「しかし」
ギュンター様は立ち上がり、剣の前に歩いた。
「念入りな職人なら、鞘だけでなく他の場所にも銘を入れているかもしれない」
剣の柄に手をかけた。
「お待ちください!」
ディートマールが声を上げた。
「なぜ困る」
ギュンター様は振り返らずに言った。
「本物なら、何も問題ないはずだが」
ディートマールは何も言えなくなった。
ギュンター様はゆっくりと、『東方諸国見聞録』の図解を横に広げ、それを参照しながら柄を外した。
茎が露わになった。
部屋の全員が、テーブルに近づくように前のめりになった。
そこに刻まれていたのは。
「HANS MUELLER 1515」
アルファベットで、くっきりと彫られた文字だった。
沈黙が落ちた。
最初に声を上げたのは、クラウス船長だった。
「これは...我々の文字ではないか。アルファベットだ」
「やはり、ミュラーの作でしたか」
執事が静かに言った。
「念には念を入れて、茎にも銘を入れておいたのでしょう。鞘に入れ、茎にも入れる。二重の証明です」
「職人の誠実さが」
ギュンター様は剣を置いた。
「今回の詐欺を暴きました」
男爵様は目を丸くしていた。
「ディートマール、説明してもらおうか」
ギュンター様の声は穏やかだったが、有無を言わせない重さがあった。
ディートマールは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと肩が落ちた。
「...認めます」
絞り出すような声だった。
「偽物です。ミュラーに、東の国の剣に似せて作るよう依頼しました。鞘に銘が入っていることは知っていました。だから鞘を捨てた。しかし...まさか茎にも入れてあるとは、思いませんでした」
「自業自得だな」
ギュンター様は短く言った。
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「ディートマール、お前の罪は重い」
ギュンター様は静かに、しかし厳かに告げた。
「偽物と知りながら売ろうとした。それは商人としての信頼を根本から裏切る行いだ。お前をこの地から追放する。メーレスブルクで商いをすることは、二度と許さない」
「...はい」
ディートマールは頭を垂れた。
「フリードリヒ」
「はっ」
「ディートマールの店から、取引用の天秤を持ってきなさい」
執事の顔に、一瞬驚きが走った。しかし、すぐに頷いて部屋を出た。
天秤、という言葉に、私の胸が鋭く反応した。
しばらくして、執事が戻った。重そうに抱えているのは、真鍮製の立派な天秤だった。磨き込まれた金属が、部屋の灯りを受けて鈍く光っている。
ギュンター様はそれを受け取った。
両手でしっかりと持ち、一度ディートマールを見た。
「これが、お前の商人としての証だった」
ディートマールの顔が歪んだ。
「だが、お前はそれを自ら裏切った」
ギュンター様は、天秤を高く掲げた。
そして。
床に、叩きつけた。
ガシャン!
金属が石床に砕ける音が、応接室の壁に響いた。
天秤の皿が外れ、支柱が曲がり、もう二度と使い物にならない形に歪んでいた。
ディートマールが声を上げて泣いた。
「ああ...ああ...」
それは、ただの泣き声ではなかった。何年もかけて築いてきた商人としての人生が、目の前で終わった時の声だった。
部屋の全員が、黙って見ていた。
私は父を見た。
父の顔は、血の気が引いたように真っ白だった。壊れた天秤を、目を離せない様子でじっと見ていた。
(もし、私が...)
父の唇が、音もなく動いた。
「連れて行け」
ギュンター様の言葉に、衛兵がディートマールの両腕を取った。
ディートマールは壊れた天秤を振り返り振り返りしながら、引きずられるように部屋を出て行った。
重い沈黙が残った。
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「ヨハン!」
男爵様が父に向き直った。
「君も共犯か!」
「いいえ!」
父はすぐに言った。
「私は何も知りませんでした。本物だと信じて、仲介をお引き受けしたのです」
「ヨハンに悪意はありませんでした」
ギュンター様が言った。
「アンナの調査によって、それは明らかです。むしろ、ヨハンは真相の解明に協力してくれた」
「...そうか」
男爵様は少しの間考えてから、深くため息をついた。
「ヨハン、疑って悪かった。それに、アンナ、よく調べてくれた。感謝する」
「いえ、私は当然のことを」
その時、父がゆっくりと私の方を向いた。
父の目に、涙が浮かんでいた。
「もし...もし私があのまま取引を進めていたら」
父の声は震えていた。
「あの天秤を壊されていたのは、私だった。祖父の代から使ってきた天秤を...商人としての命を...」
「お父様」
「お前が気づいてくれたから」
父は私に歩み寄り、両手をしっかりと握った。
「お前が動いてくれたから、私は守られた。ありがとう、アンナ」
私は、涙が出そうになった。ぐっとこらえた。
「ギュンター伯爵、本当にありがとうございました」
父がギュンター様に深く頭を下げた。
「ヨハン、これからも誠実に商いを続けなさい」
ギュンター様は穏やかに言った。
「その天秤が輝き続けるように」
「はい。肝に銘じます」
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男爵様が帰り際、ギュンター様と短く言葉を交わした。
「伯爵、奥方様によろしくお伝えください。真相を見抜かれた洞察力、見事でした」
「ありがとう。妻にも伝えよう」
「実は...私も少し悔しい」
男爵様は苦笑いをした。
「三年探して、やっと手が届きそうになったのに、また振り出しに戻った。本物の日本刀は、まだどこかにあるはずなのだが」
「諦めずに探し続けてください」
「ええ。ところで、奥方様も日本に興味がおありとか?」
ギュンター様が少し表情を和らげた。
「妻が先ほど、もし日本のものを手に入れたら見せてほしいと申しておりました。伝言をお願いできますか」
「もちろんです!喜んで。奥方様が興味を持ってくださるとは嬉しい。ぜひ、本物が見つかった際にはご一緒に確かめましょう」
男爵様は晴れ晴れとした顔で部屋を出た。クラウス船長も後に続いた。
応接室に残ったのは、ギュンター様と、父と、私だけになった。
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テレジアのお部屋の扉を叩くと、すぐに「どうぞ」と声があった。
奥方様は窓辺に立っていた。遠くから微かに聞こえた、あの音を聞いていたのかもしれない。
「奥方様、報告します」
「ええ、聞かせてください」
私は順を追って話した。茎に刻まれていた銘のこと、執事がミュラーのことを知っていたこと、ディートマールが認めたこと。そして、天秤が壊されたこと。お父様が救われたこと。男爵様からの伝言のこと。
奥方様は静かに、最後まで聞いていた。
「よく頑張りましたわね、アンナ」
「奥方様が、調べる方向を示してくださったから」
「いいえ」
奥方様は首を振った。
「動いたのはあなたです。商人に会いに行き、町の人に聞いて回り、鞘職人まで訪ねた。私にはできなかったことを、あなたがやり遂げた」
「奥方様...」
「あなたは成長しましたわ、アンナ」
奥方様は穏やかに、でもはっきりと言った。
「守るということは、時に怖いことです。間違っていたら、と思う。相手を傷つけてしまったら、と思う。それでも動かなければならない時がある。あなたは今日、それをやり遂げました」
「でも、私は...ただ、お父様を守りたかっただけで」
「それで良いのです」
奥方様は微笑んだ。
「大切な人を守りたいという気持ちが、人を動かす。あなたはもう、守られるだけの子供ではありません。守ることができる人です」
涙が出そうになった。今度は、こらえられなかった。一粒だけこぼれたのを、急いで拭いた。
「ありがとうございます、奥方様」
「私こそ、ありがとう」
奥方様は窓の外に目をやった。
「外に出られない私の代わりに、あなたが歩いてくれた。あなたの目で見て、あなたの足で調べてくれた。だから真実が明らかになった」
しばらく、二人で黙っていた。
「男爵様からの伝言ですが」
私は思い出して言った。
「日本のものが見つかったら、ぜひお見せしたいと」
奥方様の肩が、わずかに動いた。
「...本当に?」
「はい。伯爵様が伝えてくださって。『お互いに確かめ合いましょう』とおっしゃっていたそうです」
奥方様は何も言わなかった。ただ、窓の外を見ていた。
夕日が、北海の向こうに沈みかけていた。茜色に染まった雲が、静かに流れている。
(奥方様はなぜ、そんなに日本に興味があるのだろう)
私には、まだわからなかった。でも、奥方様の目に宿っているものが何か、その時の私には名前がつけられた気がした。
希望だ。
小さな、でも確かな希望。
テレジアは窓の外を見つめていた。
(偽物だった)
(でも、良かった)
(この世界の本物の日本刀は、まだどこかにある)
(本物の銘は、きっと私が知っている形の文字で刻まれているはずだ)
(この世界の日本は...もしかしたら、私の知っている日本と同じかもしれない)
(いつか、男爵様が見つけてくれたら)
(その時、わかるかもしれない)
外の風が、窓ガラスを静かに揺らした。
「奥方様」
私は言った。
「いつか、一緒に外を歩きましょう。私が一緒にいますから」
奥方様は振り返り、私を見た。
それから、ゆっくりと笑った。
「...ええ」
「いつか、きっと」
夕日が沈んでいく。
でも、窓辺に立つ二人の心の中には、小さな灯りがともっていた。
今は、それだけで十分だった。




