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メーレスブルクの秘録  作者: ヒロセカズヒ
東の国の剣
13/28

第三話「東の国の剣」第一章 違和感

 取引の三日前、エッカート男爵様がメーレスブルク城を訪れた。

 正式な取引の前に、品物を確認したいというお申し出で、ギュンター伯爵様が城の応接室でお迎えになった。父とディートマールも剣を持って城に来た。奥方様から「一緒に来てください」と言われていた私も、部屋の隅に控えた。

 剣は応接室の長テーブルの上に置かれた。窓から差し込む光の中で、湾曲した刃が鈍く輝いている。

 男爵様は剣を見るなり目を輝かせた。

「これが...日本刀か」

 男爵様はそっと剣を手に取り、感嘆の息をついた。

「素晴らしい。確かに、書物に描かれていた形に似ている」

 父もディートマールも、安心したように顔をほころばせた。

 奥方様は、その場の少し後ろに立っておられた。剣を見た瞬間、私には奥方様の肩がかすかに固まるのが見えた。

 男爵様が剣を置くと、奥方様が静かに前に出た。

「少しよろしいでしょうか」

 奥方様は丁寧に両手で剣を持ち上げた。そして、しばらくじっと見つめた。

 私には、奥方様が何を考えているのかわからなかった。ただ、その目がとても静かなのに、内側で何かが激しく動いているような、そんな気がした。

「美しい剣ですね」

 奥方様はそう言って、ゆっくりと剣を置いた。

「確認したいことがございますので、少しの間お預かりしてもよろしいでしょうか」

 男爵様は快く頷いた。

「もちろんです。では、三日後に正式に」

 ディートマールも父も、嬉しそうに頷いた。取引はほぼ決まったも同然、という顔だった。

 父は私を見て、にっこり笑った。

 私も笑い返したが、なぜか胸の奥がざわざわしていた。

---

 その後、奥方様は私を図書室へ使いに出した。

「東の国に関する書物を、何か持ってきてもらえますか。旅行記や見聞録のようなものを」

 図書室で司書の老人に頼むと、しばらく棚を探して一冊の本を出してきた。

「東方に関する書物ですと、これになりますかな。『東方諸国見聞録』。五十年ほど前に、商人が書いたものです」

 分厚く、革の表紙が使い込まれた本だった。私はそれを奥方様のお部屋に持ち帰った。

 奥方様は受け取るなり、素早くページをめくり始めた。目次を確かめて、ある章を開く。

「東の国の武器」という章だった。

 挿絵がある。粗雑な線で描かれた、湾曲した剣。私が昨日父の店で見た剣と、確かに似ている。説明文にはこう書いてあった。

「東の国の戦士は、独特の湾曲した剣を使う。刃は鋭く、鉄をも切ると言われる。特徴的なのは、柄の下の部分、すなわちなかごと呼ばれる箇所に、製作者の名が刻まれていることである」

 柄の下の部分。なかご

 挿絵には、柄を取り外した状態の図も描かれていた。細長い金属の棒の部分に、何か文字のようなものが刻まれている。

 奥方様は本を閉じ、しばらく考えるような顔をしていた。

「奥方様、この本で何かわかりましたか?」

「...少し。アンナ、一緒に来てください」

 奥方様は立ち上がった。

---

 奥方様が向かったのは、城の廊下だった。

 本館の正面、城門へと続く廊下。足早に歩く奥方様の後を追いながら、私は首を傾げた。もしかして城の外へ行くつもりだろうか。父の店に行って、剣をもっとよく見たいということだろうか。

 廊下の突き当たりに、城門が見えてきた。

 その時。

 奥方様の足が、ぴたりと止まった。

「奥方様?」

 応答がない。

 私は隣に並んで、奥方様の顔を見た。

 真っ青だった。

 唇がかすかに開いて、呼吸が浅く速くなっている。城門を見つめたまま、目が動かない。そして、手が、肩が、体全体が、小刻みに震えていた。

「奥方様!」

 私は慌てて奥方様の腕を支えた。

「だ、大丈夫...です...」

 声まで震えていた。

「大丈夫ではありません。戻りましょう、今すぐ」

「でも...」

 奥方様はもう一歩前に進もうとした。一歩、踏み出す。しかし体がそれを拒んでいた。足がまるで石になってしまったように、動かない。

 城門はあと十歩もないところにある。なのに、奥方様は進めなかった。

 私は奥方様の腕をしっかり取って、来た道を引き返した。最初は奥方様も抵抗するようだったが、やがて力が抜けて、私に寄りかかるように体を任せてくれた。

 お部屋まで戻ると、奥方様はそのまま椅子に座り込んだ。深く、長い息をつく。しばらくの間、何も言わなかった。

 私はお茶を淹れた。カップを差し出すと、奥方様は震える手でそれを受け取った。

 沈黙が続いた。

 やがて、奥方様が静かに口を開いた。

「アンナ」

「はい」

「私は...外に出ることができません」

 その言葉は、ひどく静かだった。

「十年前、私はこの城で目覚めました。それ以前のことは、何も覚えていません。気がついたら、ここにいた。それだけなのです」

「...はい」

「外に出ようとすると、体が拒絶するのです。理由はわかりません。でも、城門が見えると、恐怖が来る。何かが起きるかもしれない。また記憶を失うかもしれない。今度は、戻れないかもしれない。そう思うと、足が止まってしまう」

 私は何も言えなかった。

 奥方様は十年前から、ずっとそんな恐怖を抱えていたのか。

「だから、お願いします」

 奥方様が私を見た。

「あなたが、私の目になってください。足になってください。あの剣について、調べてきてほしいのです」

「...どんなことを?」

「本物かどうか、確かめてほしいのです」

 奥方様の言葉に、私は息を呑んだ。

「あの剣は、偽物かもしれません」

---

 その夜、奥方様のお部屋に、私は一人残していただいた。

 アンナを調査に送り出した後、テレジアは一人で窓辺に座った。

 ランプの灯りの中、再び『東方諸国見聞録』を開く。日本刀の章をもう一度読む。そこから少しページを進めると、「東の国の風俗」という章があった。

 人々の服装のイラストが描かれていた。

 男性は、長い上着を重ね合わせて帯で締めている。女性は更に裾の長い衣をまとい、やはり帯で結んでいる。ゆったりとした、美しい衣装だ。

 テレジアはそのイラストを見つめた。

 そして立ち上がり、部屋の奥の箪笥へ歩いた。一番下の引き出し。十年間、一度も開けていない引き出しを、震える手でゆっくりと開けた。

 中には、布に包まれた何かがある。

 布を開く。

 中から現れたのは、服だった。

 ギュンターが保管してくれていた、十年前に自分が着ていた服。

 テレジアはそれを手に取った。見慣れているはずなのに、十年ぶりに触れるとまるで他人の物のようだった。

 不思議な布地。滑らかで、光沢があるが絹ではない。形は体にぴったりとフィットするように作られていて、小さな金属の留め具が縦に並んでいる。ボタンではない、歯が噛み合うような不思議な仕組みの留め具だ。上着の袖には、見慣れない文字が刺繍されている。

 テレジアは本を取り、服と見比べた。

 全然違う。

 本のイラストの、あの美しい衣と、この服は、何もかもが違う。素材も、形も、作りも。

 (この世界の東の国の服は、こういうものなのかもしれない)

 そう考えようとしたが、うまく収まらなかった。

 記憶が、断片的に浮かんでは消える。

 桜の木。淡いピンクの花びら。でも着ているのはこの服だ。この、丈の短い、体にぴったりした服だ。

 大きな建物。高く、高く積み重なるように伸びた、鉄とガラスの建物。

 空を飛ぶ、鉄の鳥。

 (これは...なに?)

 頭が痛い。

 (私は、どこから来たの?)

 記憶の断片が混乱して、像を結ばない。東の国から来たのかもしれないと思っていた。あの剣を見て、知っていると感じた。でも、この服は東の国の服ではない。では、いったい自分はどこの人間なのか。

 (私の知っている世界は、ここではないのかもしれない)

 その考えが浮かんだ途端、恐怖が体の奥から這い上がってきた。

 床に膝をついていた。いつからそうなっていたのか、わからない。服を両手で抱きしめて、体が震えていた。

 (どこにも、帰れない)

 (私は、誰なの)

 (どこから来たの)

 涙が出た。理由もわからず、ただ涙が出た。

 その時。扉が静かにノックされた。

「テレーゼ?」

 ギュンターの声だった。

「入っても良いか」

 答えられなかった。しかし扉は開いた。

 ギュンターが入ってきて、床に座り込んでいるテレジアを見て、一瞬顔を強張らせた。次の瞬間には膝をついて、テレジアを両腕で抱きしめていた。

「大丈夫だ。私がいる」

 低く、穏やかな声だった。

「ギュンター...」

「ああ、ここにいる」

「怖い...私は、誰なの。どこから来たの...」

「お前はテレジアだ」

 ギュンターは静かに言った。

「私の妻だ。それ以上のことは、今は何もわからなくて良い」

「でも...」

「どこから来ようと、関係ない。何を思い出しても、私はここにいる。お前の側に」

 テレジアは、ギュンターの胸に頭を預けた。

 しばらく、二人は静かにそのままでいた。テレジアの震えが少しずつおさまっていった。

 ギュンターが床に落ちている服に気づいた。

「これは...」

「十年前の、私の服」

「また、見ていたのか」

「東方の服装の本を読んでいたら...思い出しそうになって」

「そうか」

 ギュンターは服を拾い上げ、布に包み直してテレジアに渡した。

「いつか、思い出すかもしれない」

 ギュンターは立ち上がり、テレジアを助け起こしながら言った。

「でも、怖いことはない。私が一緒にいる。どんな過去でも、どんな真実でも、二人で向き合えばいい」

 テレジアは服を箪笥にしまい、引き出しを閉めた。

「ありがとう」

「礼はいらん」

 二人は窓辺に立った。夜の城下町の向こうに、海が暗く輝いている。月が出ていた。

「いつか、思い出す日が来るかもしれない」

 テレジアは月を見ながら呟いた。

「でも...不思議ね。怖いけれど、怖くない」

「お前がいるから?」

「ええ」

 ギュンターは何も言わずに、テレジアの手を握った。

 二人は静かに月を見ていた。

---

 翌朝、奥方様は私をお部屋に呼んだ。

「アンナ、お願いがあります」

 奥方様の顔は穏やかだったが、目の奥に真剣な光があった。昨夜何があったのか、私には知る由もなかったが、何かを決意したような落ち着きが奥方様にはあった。

「あの剣を調べてほしいのです。本物かどうか」

「...昨日もそうおっしゃっていましたが、なぜ偽物かもしれないと?」

「勘、と言えばいいでしょうか」

 奥方様はわずかに笑った。

「でも、根拠のない勘ではありません。大切なのは、証拠を集めること。あなたが城の外に出て、調べてきてください」

「何を調べればよいのですか?」

「まず、あの剣を仲介した商人に会ってください。ディートマールという方でしたね。剣の来歴について話を聞いてください。どこで手に入れたのか、誰が作ったのか。できる限り詳しく」

「はい」

「そして、わかったことを全部私に報告してください。どんな小さなことも」

 私は頷いた。

「お父様のため...ですか?」

「お父様のためでもありますし」

 奥方様は、静かに続けた。

「私自身のためでもあるのです」

 その言葉の意味は、その時はよくわからなかった。ただ、奥方様が「自分のために」と言う時の目の色が、いつもと少し違ったことは覚えている。

「わかりました」

 私は立ち上がった。

「必ず調べてきます」

 それが、私にとって初めての、本当の意味での「調査」だった。お父様を守るために。奥方様のために。自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の頭で考える。守られるだけではなく、守る側になる。

 そのことを、その時の私はまだ言葉にできていなかった。でも、胸の中に確かな何かが灯っていた。


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