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メーレスブルクの秘録  作者: ヒロセカズヒ
東の国の剣
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第三話「東の国の剣」 序章 名誉ある依頼

春の朝、私は城門をくぐった。

 メーレスブルク城は、高い城壁に囲まれている。広い敷地の中心に本館がそびえ、その周りに倉庫や厩舎、使用人たちの宿舎が建ち並ぶ。城門の外には城下町が広がり、市場や商店が軒を連ね、さらに北に歩けば港町がある。私の父の店は、城門からほど近い通りの角にある。

 毎朝、こうして城門をくぐり、本館へと向かう。もう五年も続けている、いつもの道だ。

 今日も、奥方様が待っていらっしゃる。

 本館に入ったところで、廊下を歩いてきた執事のフリードリヒが私を見つけた。

「アンナ、奥方様は倉庫においでだぞ」

「倉庫、ですか?」

「ああ。カイザー様のご機嫌を伺いに」

 カイザー。あの大きな白いペルシャ猫のことだ。数ヶ月前、クラウス船長が南の国から連れてきた。今は城内の倉庫でネズミ番をしている。もともとは外国の高貴な猫だということで、倉庫番のハインリヒが冗談交じりに「皇帝陛下」と呼びはじめ、いつのまにか皆がカイザーと呼ぶようになった。

「最近、奥方様はよく倉庫に行かれるな」

 フリードリヒが、目元を緩めて言った。

「以前は、ご自分のお部屋からほとんど出られなかったのに。カイザー様のおかげで、城内をお歩きになるようになられた。良いことだ」

 私は、なんとなく頷いた。フリードリヒが「良いことだ」と言う時の顔には、いつも何か深いものが宿っている。奥方様がお部屋から出ることが、なぜそんなに嬉しいのか、私にはまだよくわからなかった。

 倉庫へ向かうと、開けっ放しの扉の向こうに奥方様がいらした。白いカイザーが奥方様の足元に丸まって、喉をごろごろと鳴らしている。奥方様はしゃがんで、細長い指でカイザーの顎の下をそっと撫でていた。

「アンナ」

 私の足音に気づいて、奥方様が顔を上げた。

「おはようございます、奥方様。カイザーはご機嫌よさそうですね」

「ええ。昨夜もネズミを捕まえたそうよ」

 カイザーは奥方様の声を聞いて、にゃあ、と短く鳴いた。まるで「当然だ」と言っているようで、私は思わず笑った。

 倉庫を出て本館へ戻る道すがら、奥方様は静かに歩いていた。春の日差しが中庭に差し込んで、石畳を温かく染めている。こうして城内を一緒に歩くことも、最近はよくある。以前はほとんどなかったことなのに。

 いつか、奥方様と城の外も歩けたらいいな、と私はぼんやり思った。

---

 その日の夕方、私は家に帰った。

 父の店は小さいが、長年の商いで近隣の商人たちから信頼を得ている。店の奥が住まいになっていて、帰ると父がいつも夕餉の支度を待っていた。母は私が幼い頃に亡くなっているから、父と二人で暮らしている。

 店に入ったとたん、父の声が飛んできた。

「アンナ!帰ったか。ちょうど良かった、聞いてくれ!」

 父、ヨハンは興奮で顔を赤くしていた。五十近い年齢にしては子供のような笑顔で、テーブルの上に何かを置いている。近寄ってみると、布に包まれた長い物体だった。

「これはなんですか、お父様?」

「見てみろ!」

 父は嬉しそうに布をはがした。

 中から現れたのは、剣だった。

 細長く、緩やかに湾曲した刃を持つ、見たことのない形の剣。こちらで普段目にする真っ直ぐな剣とは全く違う。しかし、刃の部分はなぜか鞘に収まっておらず、むき出しのままだった。

「東の国の名刀だ!」

 父は誇らしげに言った。

「東の国...ですか?」

「ああ。エッカート男爵様が、ずっと探しておられたものだ。もう三年になる」

 エッカート男爵様。城下町からやや離れた邸宅に住む、五十がらみの貴族だ。東方の美術品を集めることで知られていて、珍しい品を見つけては買い求めているという話は聞いたことがあった。

「その中でも、特に『日本』という国の剣を探しておられた」

「に、ほん...?」

 聞き慣れない言葉だった。繰り返してみても、口の中でうまく転がらない。

「私も最近知ったんだ。男爵様から教えていただいた」と父は言った。「東の国の中に、『日本』という島国がある。そこで作られる剣は、世界で最も美しく、最も鋭いと言われているそうだ。それを『日本刀』と呼ぶ」

「日本...刀」

 私は父の言葉を繰り返した。なんとも不思議な響きだった。

「ディートマールという商人が持ってきたんだ。南の港で東方の商人から手に入れたとのことで、間違いなく本物だと言う。形も、重さも、男爵様の持っておられる書物の説明に合っているそうだ」

 父は剣をそっと持ち上げて、愛おしそうに眺めた。

「ただ、鞘がないのが残念だがな。運搬中に傷んでしまったとのことで」

「鞘がないんですか?」

「ああ。でも剣本体は完璧だ」

 私も改めて剣を見た。確かに美しいとは思う。しかし鞘がないというのは、少し奇妙ではないか。剣というものは鞘と一対ではないのだろうか。

「三年越しの依頼を、やっと果たせる」

 父の声は、じんわりと温かかった。

「男爵様にようやくお応えできる。それに、お前の将来のためにも少し貯金ができる。仲介料だけで金貨二十枚になるからな」

「二十枚!」

 普段の仕事の三倍以上だ。父の笑顔が、また一段と輝いた。

「良かったですね、お父様」

「ああ。本当に良かった」

 私も嬉しくなった。父が三年間、諦めずに探し続けていたことは知っていた。あちこちの商人に声をかけ、来る商人来る商人に訊ねても、なかなか手がかりすら掴めなかったと聞いていた。それがやっと実を結んだのだ。

 店の棚の上に、父の自慢の天秤が置いてある。真鍮製で、使い込まれた年月の分だけ磨かれて鈍く輝いている。父の祖父の代から使い続けてきた、この家の宝物だ。

「商人の命は、この天秤だ」と父はよく言う。「正確に測り、正直に商う。それが信頼を生む。この天秤が輝いている限り、私たちの商売は続く」

 私はそっと天秤を見上げた。

 お父様の天秤は、これからもずっと輝き続けるだろう。

 その時の私は、そう疑いもしなかった。

---

 翌朝、城に着くと私はすぐに奥方様のお部屋に向かった。

 テレジア・フォン・メーレスブルク伯爵夫人。ギュンター伯爵様の奥方様で、私が五年間お仕えしている方だ。漆黒の髪と深い黒の瞳を持ち、この地方では見かけない異国風の美しさがある。「東の国の方では?」と噂する人もいるが、奥方様ご自身は出自について語らない。いや、語れないのだと、私は薄々感じている。

 窓辺の椅子に座って本を読んでいた奥方様は、私が入ると顔を上げた。

「おはようございます、奥方様。昨日、嬉しいことがありまして」

「何かありましたか?」

「お父様が、東の国の名刀を手に入れたのです。『日本刀』というそうです。エッカート男爵様のご依頼で、三年越しにやっと見つかったと、昨夜とても喜んでいて」

 言い終わった瞬間、奥方様の様子が変わった。

 本を持つ手が、ぴたりと止まった。

「...日本刀?」

 その声は、かすかに震えていた。

「にほん、とう...」

 奥方様は、その言葉を口の中で繰り返した。まるで遠い記憶を手探りでたぐり寄せるように、ゆっくりと。その目が、どこか遠くを見ている。

「奥方様?」

 私が声をかけると、奥方様はようやく我に返ったように私を見た。

「...その剣を、見せていただけますか」

「は、はい。もちろんです」

 その言葉には、静かだが確かな熱がこもっていた。


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