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4.不便

 アファンタジアは一種の認知特性であり、障害ではない。これは現代におけるアファンタジアに対する事実である。しかし、アファンタジアの人の中には障害とすべきという声も聞いたことがある。

 私がどう考えるかと言われれば、障害とするべきではないという考えに幾分か傾く。いや、正確には障害とするほどではないのではと考えているというのが正しいだろう。明確な片方の意見ではないのだ。中立からやや傾いた状態である。

 とはいえ、現状の認識に対しては、いささか否を唱えたい部分もあるのだ。


「アファンタジアは、日常生活に直接的な問題を引き起こすことはあまりなく、言葉や概念的な思考を得意とする人も多い」


 アファンタジアはなぜ障害じゃないのだろうかと調べているときに見かけた言葉だ。前半は反論となる不便や、この不便は問題といえないのか、という出来事はいくつもあるのだが、まあ理解できなくもない。

 後半に関しては完全に別の話だ。副作用的に良い面があったとして、それは悪い面を無視する理由にはならない。とはいえ、私も言葉や概念的思考を幾分か得意と認識しているから、この点についてはあまり言わないでおこう。享受したメリットについては口を噤み、享受したデメリットは声を上げて叫ぶのが世の常だろう。もちろんジョークである。


 真面目な話、アファンタジアは直接的な問題は確認できずとも、間接的な問題は様々なところに起きているというのが私の認識である。職業選択についても、最初からなりたい職ではなかったため問題はなかったが、この職は不可能、あるいは非常に困難だろうというものは存在する。

 4話ではこの不便について、私の体験をベースにお話しさせていただく。


 家族の顔が分からない。

 家族の顔を認識できないわけではない。これは人の顔を記憶できないという、1話でも描かせていただいた不便と同種のものである。

 私が生まれてから一人暮らしを始めるまでの約20年。私は毎日家族と顔を合わせて生活してきた。生活リズムが完全に分かれているということもなく、ほぼ毎日欠かさず全員の顔を1回以上見ていただろう。しかし、私は今になっても、ふと外で家族の姿を見かけたとき、すれ違うほどにまで近づいても本人かどうか確証が持てない。

 もちろん逆もあって、というかこちらの方が多いのだが、家族ではないかと疑惑を持った人が、おそらく家族ではなかったというのは常である。不自然でない程度に相手の顔を見て、相手がこちらを見た時に何か反応を起こせば、後ろをちらりと見て後ろの人への反応でないことを確認すれば、おおよそその相手は自分が思った通りの相手である。

 一般的に人は、相手を見てこの人じゃないかと感じた時、記憶からその人の画像を持ち出し照合を行うだろう。私はそれができない。この人じゃないかと感じた時、照合するための画像が引き出せないのだ。代わりに、その人から過去に受けた印象や状況を文字として記憶し、それをもとに照合を行う。顔や姿に強い特徴があれば、照合の精度は上がる。身長がとても高いとか、ふくよかであるとか。珍しい形の眼鏡をかけているとか、特徴的な形のピアスをつけているとか。他には状況や環境。職場で会うとか、実家の近所で会うとかだと、わかりやすい。

 しかし、それが変わってくるとどうなるか。散歩中や電車の中で偶然見かけたときというのは、この状況、環境という要素が目の前の人物は想像する人物ではないと訴えてしまう。私の場合、本人の姿などの特徴要素よりも環境要素の方が強く働いてしまうこともあるのだ。であるからこそ、場所が変わるだけで家族であっても本人か確証が持てなくなるのだ。

 最近気づいたことがある。初対面の人と自己紹介し、その後度々あう環境にあったとき。名前と姿、どちらが先に記憶されるのだろうか。私は基本的に、姿から先に記憶する。心的イメージが存在せず、覚えるのに何度も顔を合わせる必要がある。そんな私でも姿から覚えるのだ。おそらくほとんどの人が同じだろう。

 私も名前を覚えようと努力することがある。職場の上司や取引先、同僚など。仕事なのだから当たり前だろう。そういったとき、私は名前を先に覚えることになる。まるで、名前だけ先に聞いて、初めて顔を見た時のように。想像してみてほしい、名前は覚えた。目の前にはAさんと、Bさんと、Cさんがある。何度か顔を合わせ、声も聴いている。しかし、だれがAさんかわからない。

 認知心理学において、人物認識の段階は、最初に視覚的情報。次にエピソードなど概念や属性的情報。そして、その次に名前など言語ラベル的情報が来るらしい。どうやら、この順番はアファンタジアであっても入れ替わることは無いか、稀なのかもしれない。私の体験に合わせれば、最初が弱いだけで、順番はこの通りとなっている。

 つまりだ、顔を覚えられない。頭の中に姿が無い私は、名前すら覚えられないのだ。そのくせ、だれかとこれを話したというエピソードの文字的記憶は残っているのだから、不思議なものである。

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