5.締め
ここまで、気づきや体験など様々なことを書かせていただいたが、大前提としてこれはエッセイであり、論文など学術的なものではないことを認識しておいていただきたい。
そもそも私はアファンタジアという診断を受けたことは無いし、アファンタジアであることを保証する診断というのは存在していないらしい。であるからこそ、本作は事実を並べるのではなく、私の体験を主軸に書かせていただいている。私は、私は、と自分語りをするのも本来は嫌いなのだが、保証もない体験についてアファンタジアは、と語るのも違うと思うのだ。あくまで、自分がアファンタジアだと思いこんだ人物のエッセイとして見ていただければよいと思う。
さて、結論として何が言いたいのか。助けてほしい、労わってほしいというのは違う。知ってほしいというのも、少し違う。誤解しないでほしいのだ。自分も、他人も。
私が人を覚えられないのは怠惰だからというだけではないだろう。映画の感動的ワンシーンを頭に描けないのは興味がなかったわけではないのだろう。他人と比べて、結論を安易に自分に向けて卑下してしまうのは、もったいない。
知人に顔が覚えられていないからと、昨日会ったのに名前を忘れられたからと、興味がない、嫌われていると避けてしまうのはもったいない。少なくとも私は人が好きだし、ついさっき名前を教えられて、名前どころか眼鏡をつけていたかすら覚えていないあなたに対し、興味と好感を抱いている。
私が中学で同じ部活だった、あまり接点のないとある先輩は稀に私に声をかけ、自分の名前を憶えているか聞いた。私は覚えられていなかったが、先輩は笑って次は、と言ってくれた。気まずさをごまかしただけかもしれないが、あれぐらいの雑さがちょうどいいのだ。
だから、難しく考えず。そういう認知特性があるのだと、自分に、他人に思うことが大切だと思うのだ。
認知というものは非常に面白い。私たちは認識と事実を同一だと思いたがるが、これらはかけ離れたものである。
となりに立って同じ方向を見たからと言って、同じものを見ているとは限らない。
同じ体験をしたからといって、同じものを記憶しているとは限らない。
私たちは、事実をそのまま知ることはできない。そこには必ず、主観や身体機能といったレンズを通り、いかようにも加工されて認知に至る。
一度その場に立ち止まり、自分の認知を見つめなおすと面白い体験をすることになるかもしれない。




