第2節 「絵を描かない日々」
新聞社の編集部は、地下にあった。
窓がない。天井は低い。蛍光灯の白い光が、部屋中のものを無機質に見せている。壁には締切の一覧が貼られ、机の上には原稿用紙とインク瓶と、どこからか調達してきた煙草の吸い殻が山積みだった。
トーベはそこに座っていた。
椅子は固い。背もたれはまっすぐで、長時間座っていると腰が痛くなる。しかし彼女は文句を言わなかった。言える立場ではなかった。まだ二十二歳。駆け出しのイラストレーター。ここに席を用意してもらえただけでも、ありがたいことだった。
「ヤンソン、次の締切は明日の朝だ」
編集長が机の向こうから声をかけた。彼は四十代半ば。いつも煙草をくわえている。目はいつも疲れているが、その鋭さは決して失われなかった。
「わかっています」
トーベはうなずいた。
彼女の仕事は風刺画だった。戦争に関する風刺画。ヒトラーを揶揄し、スターリンを嘲笑い、時の為政者たちの愚かさを紙の上に描く。それは彼女にとって、決して楽しい仕事ではなかった。しかし、やらなければならない仕事だった。
誰かが言わなければならない。
誰かが描かなければならない。
この戦争がどれほど馬鹿げているかを。
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彼女は鉛筆を手に取り、紙の上に線を引き始めた。
ヒトラーの横顔。特徴的な口ひげ。かち上げた前髪。彼女はそれらをわざと大げさに描いた。漫画のように。人々が笑えるように。恐怖ではなく、嘲笑の対象になるように。
それが風刺画の役割だった。
敵を笑いものにすること。それによって、敵の力を相対化すること。人は笑っている時、怖がっていられない。
トーベはそのことを知っていた。
彼女の父親も芸術家だった。ヴィクトル・ヤンソン。彫刻家。スウェーデン語を話すフィンランド人の家系に生まれた。気性は激しく、自分の意見をはっきりと言う男だった。トーベは子どもの頃から、父親の激しい議論を聞いて育った。政治のこと。芸術のこと。人生のこと。父親は何にでも意見を持ち、それを周囲に説いた。
母親は違った。
シグネ・ハンマ。グラフィックデザイナー。静かな人だった。しかし、その静かさの中に、父親にはない強さを持っていた。彼女は決して声を荒らげない。決して誰かを責めない。ただ、自分の仕事を黙々とこなす。
トーベはどちらの性質も受け継いでいた。
父親の情熱と、母親の忍耐。
それは時に彼女の中で衝突した。情熱が彼女を前に突き動かす。しかし忍耐がそれを制御する。そのバランスを取るのが、いつも難しかった。
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編集部の電話が鳴った。
誰かが出る。短い会話の後、受話器が置かれる。
「また市街地がやられたらしい」
誰かが言った。
「どこだ」
「南の方だ。港の近くらしい」
「またか」
それだけの会話。誰も驚かない。誰も騒がない。もう慣れてしまっていた。慣れてしまうことの恐ろしさを、トーベはその時感じた。
戦争に慣れる。
それはどんなことだろう。
最初は怖かった。爆撃の音を聞くたびに、体が震えた。しかし、何度も繰り返されるうちに、次第にその感覚は薄れていく。恐怖は麻痺し、驚きは失われ、ただ「またか」と呟くだけになる。
それは楽になることかもしれない。
しかし、それは同時に、人間として何かを失うことでもある。
トーベは鉛筆を走らせながら、ふと考えた。
自分はこの戦争に慣れてしまっているのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、ペンを持つ手だけが、規則正しく動き続けていた。
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風刺画を描くという仕事は、トーベにとって「責任」のようなものだった。
誰かがやらなければならない。
しかし、それは同時に彼女の内側にある何かをすり減らしてもいた。
描けば描くほど、彼女は戦争のことを考えなければならなかった。ヒトラーの顔を描けば描くほど、彼の存在を自分の脳裏に焼き付けなければならなかった。それは彼女にとって、かなりの精神的負担だった。
ある日、彼女は母親にそのことを打ち明けた。
「疲れたの」
「そう」
母親は静かにうなずいた。二人は台所に座っていた。母親は針仕事をしている。トーベはコーヒーカップを両手で包み込んでいる。
「あの顔を描き続けるのが、辛いの」
「じゃあ、描かなければいい」
母親の答えは簡潔だった。トーベは少し驚いて顔を上げた。
「でも、それが私の仕事よ」
「仕事だからやめられないの? それとも、誰かのためになるからやめられないの?」
母親は針を動かしながら、淡々と尋ねた。
トーベは答えられなかった。
母親は続けた。
「あなたは自分のことを『戦争に抵抗している』と思っているかもしれない。でもね、トーベ。抵抗って、自分をすり減らすことじゃないのよ。自分を守ることなの」
「どういう意味?」
「あなたが描き続けているのは、本当に誰かのため? それとも、『描かねばならない』という義務感から?」
トーベは考え込んだ。
確かに、彼女は「やらなければならない」と思って描いていた。誰かのために。正しいと思うから。しかし、その「誰か」は具体的な顔を持っていなかった。ただ漠然とした「大義」のようなもののために、自分を犠牲にしていたのかもしれない。
「私はあなたに、立派な人間になってほしいとは思っていない」と母親は言った。「ただ、幸せな人間になってほしいと思っている。あなたの絵を見る人が、少しでも優しい気持ちになれるのなら、それが一番の抵抗なんじゃないかしら」
トーベはその言葉を、長い間胸に留めた。
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その後、彼女は風刺画の仕事を減らすことにした。
編集長は不満そうだった。トーベの描く風刺画は人気があった。読者は彼女の辛辣なユーモアを好んだ。しかし、彼女はもう続けられなかった。
「描かなくちゃいけない」ではなく、「描きたい」と思えるものを描く。
それが彼女の新しいモットーだった。
けれど、「描きたい」と思えるものが、すぐに見つかるわけではなかった。
彼女はアトリエで、無為に時間を過ごすことが増えた。机の前に座っても、ペンが動かない。紙に向かっても、何を描けばいいのかわからない。ただ窓の外を見て、ぼんやりと時が過ぎるのを待つ。
それは彼女にとって、初めての経験だった。
子どもの頃から、彼女はいつも何かを描いていた。壁に。ノートに。手紙の裏に。描かずにはいられない。それが彼女の存在理由だった。しかし今、その「描かずにはいられない」という衝動が、彼女から消えかけていた。
戦争が、彼女から絵を奪っていた。
直接的にではなく、間接的に。
戦争は、彼女の心の中に「描くことの無力さ」を植え付けた。絵を描いたところで、誰かの命が救えるわけではない。爆弾が落ちるのを止められるわけでもない。ならば、描く意味は何なのか。
その問いに対する答えを、彼女はまだ見つけられずにいた。
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そんなある日、彼女は妹の家を訪ねた。
妹は二人いる。どちらもまだ若い。末っ子の妹は特に幼く、戦争のことをよく理解していなかった。トーベが訪ねると、彼女はいつも飛びついてきた。
「お姉ちゃん、絵を描いて!」
妹は紙とクレヨンを差し出す。
トーベは少し躊躇した。しかし、妹の無邪気な笑顔を見て、仕方なくクレヨンを手に取った。
「何を描いてほしいの?」
「動物! かわいい動物!」
トーベは考えた。動物。かわいい動物。
彼女の頭に浮かんだのは、あの白い生き物だった。小さなトロール。丸い鼻。太い眉毛。彼女はその姿を思い浮かべながら、紙に線を引き始めた。
妹はじっと見つめている。
やがて、白い生き物の輪郭が現れた。
「それ、何?」
妹が尋ねた。
「ムーミントロール」
「へえ」
妹はその絵を手に取り、しばらく眺めていた。そして、突然言った。
「これ、お話にしてよ」
「お話?」
「うん。この子が何かするお話。読んでみたい」
トーベは少し考えた。
お話。
そういえば、自分は物語を書いたことがなかった。絵は描く。しかし、文章はあまり書かない。日記さえ、時々しかつけない。
けれど、妹の言葉は彼女の心に何かを残した。
その夜、アトリエに戻った彼女は、一枚の紙を広げた。
そして、ペンを走らせた。
「むかしむかし、あるところに……」
それは、とても短い物語だった。たったの三ページ。主人公は、白い小さなトロール。彼は家を出て、冒険に出かける。途中でいろんな生き物に出会い、小さなトラブルを経験する。しかし最後には、無事に家に帰ってくる。
何の変哲もない話だった。
しかし、トーベはその話を書いている間、久しぶりに「楽しい」と感じた。
誰のためでもない。
義務でもない。
ただ、自分のために。
妹のために。
それが彼女にとって、どれほど貴重な時間だったか。
後年、彼女はこの時のことを振り返って言っている。
「あの夜、私は絵を取り戻したの。正確には、絵を描く『理由』を取り戻した」
戦争はまだ続いていた。
爆撃は毎晩のようにあった。
しかし、彼女の心の中に、また灯りがともった。
小さな、小さな灯りだった。
それは、あの白い生き物が持っていたのと同じ、不器用で、それでも確かな灯りだった。
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しばらくして、トーベは妹のために、その物語の続きを書き始めた。
毎晩、少しずつ。
妹が寝る前に、それを読んで聞かせるために。
物語は次第に長くなっていった。新しい登場人物が現れた。スナフキン。ミイ。スノークのおじょうさん。彼らはそれぞれ、癖のある性格を持っていた。完璧ではない。むしろ、面倒なことの方が多い。
しかし、それでよかった。
なぜなら、トーベ自身も完璧ではなかったから。
誰も完璧じゃない。
ただ、お互いの不完全さを認め合いながら、それでも一緒にいることを選ぶ。それが、彼女の考える「優しさ」だった。
妹は毎晩、その話を聞くのを楽しみにしていた。
「続きは?」と尋ねるたびに、目を輝かせる。
トーベはその笑顔を見るたびに、心が温かくなるのを感じた。
戦争はまだ終わらない。
しかし、彼女の心の中には、確実にムーミン谷が広がりつつあった。
そこには、誰も傷つけない、誰も傷つけられない、小さな優しい世界があった。
それは、現実には存在しない場所だった。
しかし、存在しなければならない場所だった。
特に、こんな時代だからこそ。
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