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ムーミンの生まれた冬—— トーベ・ヤンソンの静かなる生涯  作者: はまゆう


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第3節 「ムーミン、誕生」

一九四三年、十一月。


ヘルシンキの冬は、いつもの年よりも厳しかった。食べ物は底をつきかけていた。パンは配給制になり、コーヒーは代用品で代用されていた。砂糖は貴重品。バターはほとんど手に入らない。人々は痩せ細り、顔色は青白く、目の下にはくまができていた。


それでも、人々は生きていた。


トーベもその一人だった。


彼女のアトリエは、街の中心部から少し外れた場所にあった。古い石造りの建物。階段は軋み、廊下は薄暗い。しかし、家賃は安かった。彼女のような駆け出しの芸術家には、ありがたい場所だった。


その日も、彼女は机の前に座っていた。


外は雪。窓の黒い布は、朝になっても外されない。光を遮断する習慣が、もう体に染みついていた。彼女は電気スタンドの灯りだけを頼りに、ペンを動かしている。


描いているのは、またあの白い生き物だった。


妹のために書き始めた物語。主人公はムーミントロール。まだ名前は決まっていない。彼女はその生き物を「ムーミン」と略して呼ぶことにした。短くて、覚えやすい。


「ムーミン」


声に出して言ってみる。軽い響き。少し不思議な感じ。しかし、嫌いではなかった。


彼女は紙の上でムーミンを動かした。家を出て、冒険に出かける。川を渡り、森を抜け、広い海に出る。途中で出会うのは、変わった生き物ばかり。人間ではない。動物でもない。何かその中間のような、奇妙な存在。


彼女はそれらを次々に描いていった。


小さな小人のような生き物。

毛むくじゃらの怪物。

飛ぶことのできない鳥。

話す花。


どれも現実には存在しない。しかし、彼女の頭の中では、はっきりと形を持っていた。


──なぜ、こんな生き物を思いつくのだろう。


トーベは時々、自分でも不思議に思った。


彼女は子どもの頃から、空想が好きだった。目に見える世界よりも、目に見えない世界の方に興味があった。森の中に妖精がいるかもしれない。海の底に王国があるかもしれない。月には人が住んでいるかもしれない。


それは、普通の子どもが持つ空想と何ら変わりはない。


しかし、彼女の場合、それが大人になっても消えなかった。


むしろ、戦争という現実が、その空想をより強くした。


現実が残酷であればあるほど、人はその反対の世界を欲する。美しいもの。優しいもの。平和なもの。それがたとえ嘘っぱちでも、人はそれを必要とする。


トーベはそう思った。


ムーミンは、その「必要な嘘」だった。


---


その年の秋、トーベは初めてムーミンの絵を出版社に見せた。


彼女が行ったのは、ヘルシンキの小さな出版社だった。入り口は狭く、階段は急で、エレベーターなどなかった。彼女は三階まで歩き、ノックをしてドアを開けた。


中にいたのは、中年の男性編集者だった。眼鏡をかけ、髪は薄くなりかけている。彼はトーベを見ると、軽くうなずいた。


「ヤンソンさんですね。話は聞いています」


「これが、私の作品です」


トーベは原稿を差し出した。数枚の絵と、短い物語の文章。それはまだ完全な「本」という形ではなかった。ただのスケッチと、走り書きのメモに近い。


編集者はそれを受け取り、無言で眺め始めた。


トーベは固唾を飲んで見守った。


編集者の表情は変わらない。ページをめくる手つきも、一定の速さのまま。彼は何を考えているのか、まったく読み取れなかった。


やがて、編集者は顔を上げた。


「面白いですね」


「……本当ですか?」


「ええ。ただし、これでは本にはなりません」


「どういう意味ですか?」


「完成度の問題です。絵は魅力的だが、ストーリーが弱い。これでは子供たちは飽きてしまう」


編集者は淡々と言った。それは残酷な言葉だったが、トーベも認めざるを得なかった。確かに、この物語はまだ未完成だ。ムーミンというキャラクターは面白い。しかし、彼に何をさせるのか。どんな冒険をさせるのか。そこが決まっていない。


「書き直します」とトーベは言った。


「そうしてください」


編集者は原稿を返した。それだけだった。励ましの言葉もなければ、アドバイスもない。ただ、「書き直せ」という事実だけ。


トーベは出版社を出た。


外は冷たい風が吹いていた。彼女はコートの襟を立て、早足で歩き出した。


悔しかった。


しかし、それ以上に、彼女ははっきりと感じていた。


──これは、自分にしか書けない物語だ。


他の誰でもない。自分にしか。


その確信だけが、彼女を支えていた。


---


アトリエに戻ったトーベは、机の前に座り直した。


書き直す。


そうは言ったものの、どう直せばいいのか、すぐにはわからなかった。彼女はこれまで、物語を書いたことがない。絵は描く。しかし、物語は別の技術が必要だ。構成。プロット。キャラクターの一貫性。それらを学んだことはなかった。


彼女はペンを置き、両手で顔を覆った。


頭の中は、さまざまな考えでいっぱいだった。戦争のこと。家族のこと。自分の未来のこと。それらが絡み合い、重なり合い、一つにまとまらない。


その時、窓の外から音が聞こえた。


遠くのサイレン。爆撃機の低い唸り。


トーベは顔を上げた。


またか。


彼女は立ち上がり、窓の黒い布の隙間から外を見た。空は暗い。星一つ見えない。ただ、どこからか聞こえてくる規則的な轟音だけが、戦争の存在を教えている。


彼女は深く息を吸った。


そして、再び机の前に座った。


ペンを手に取り、紙の上に線を引き始めた。


まずは、ムーミンの家。


丸い、青い家。煙突からは煙が出ている。窓からはオレンジの灯り。周りには木々と花と、小さな橋。


そこから、物語は始まる。


ムーミンは朝、目を覚ます。外は晴れている。彼はベッドから飛び出し、階段を駆け下りる。キッチンでは、ムーミンママがスープを作っている。いい匂い。彼は「おはよう」と言い、ママは「おはよう」と返す。それだけの会話。しかし、そこには確かな温かさがある。


トーベは書いた。


書いているうちに、自然とペンが進んだ。


ムーミンは外に出る。川辺に行く。そこには小さなボートがある。彼はボートに乗り込み、川を下り始める。どこへ行くのか、自分でもわからない。ただ、流れに身を任せる。


途中で、彼はスナフキンに出会う。


緑の服を着た、細身の男。口元にはパイプ。彼は川辺に座って、何かを考え込んでいる。


「どこへ行くんだ」とスナフキンが尋ねる。


「わからない」とムーミンは答える。


「そうか。それなら、一緒に行ってやってもいい」


スナフキンはボートに乗り込んだ。二人は黙って、川を下っていく。


会話は少ない。しかし、それがかえって心地よかった。


トーベはそのシーンを描きながら、自分自身のことを考えていた。


スナフキンは、誰かをモデルにしたわけではなかった。しかし、彼の中には自分自身の一部が確かにあった。孤独を愛し、自由を求め、束縛を嫌う。誰かと一緒にいることを選べるのに、それをあえて選ばない。


それは、戦後の自分かもしれない。


あるいは、戦争の中で変わってしまった自分の姿かもしれない。


トーベにはわからなかった。


ただ、ペンだけが動き続けた。


---


その夜、彼女は書き上げた。


十六ページの物語。まだ短い。しかし、最初に見せた時よりは、はるかに肉付けされていた。ムーミンは旅をし、スナフキンと出会い、ミイという小さな女の子と喧嘩し、最後には家に帰ってくる。


帰る場所があるということ。


それが、この物語のテーマだった。


戦争で家を失った人が大勢いる。帰る場所がない人が大勢いる。しかし、ムーミンには帰る場所がある。青い家と、優しいママと、温かいスープ。


それは、多くの人が失ったものだった。


だからこそ、トーベはそれを描きたかった。


あるべき場所を。失われてしまった場所を。


物語の最後に、彼女はこう書いた。


ムーミンはベッドに入り、天井を見つめた。窓の外では星が輝いている。遠くで誰かが歌っている。彼は目を閉じた。そして、思った。――明日も、きっといい日になる。


トーベはその文章を読み返し、小さくうなずいた。


これでいい。


そう思った。


戦争はまだ終わらない。しかし、彼女は自分のできることをやった。誰かのために。妹のために。そして、自分のために。


---


翌日、彼女は再び出版社を訪れた。


編集者は同じだった。眼鏡をかけ、髪は薄くなりかけている。彼は原稿を受け取り、読み始めた。


前回よりも、時間は長かった。


編集者はページをめくる手を時々止め、何かを考え込む。そしてまた、次のページに進む。


トーベはじっと待った。


五分。十分。十五分。


やがて、編集者は顔を上げた。


「出版しましょう」


トーベは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……え?」


「出版します。この物語を本にしましょう」


編集者の口調は、前回とはまったく違っていた。確信に満ちていた。彼は原稿を机の上に置き、トーベを見つめた。


「この物語には、必要な何かがあります。それは単なる娯楽じゃない。読む人の心に残る何かだ」


「それは……」


「あなたにしか描けない世界です。これを大切に育ててください」


トーベはうなずいた。


感謝の言葉が出てこなかった。ただ、何度もうなずいた。


その日、ヘルシンキは雪だった。


しかし、彼女の心の中には、小さな春が来ていた。


---


一九四五年、終戦の年。


『小さなトロールと大洪水』が出版された。


それは薄い本だった。ページ数はわずか五十そこそこ。表紙はモノクロ。値段は安く、誰でも買える価格だった。


売れ行きは、決して良くなかった。


批評家たちは無視した。書店でも、目立つ場所には置かれなかった。むしろ、戦後の混乱の中で、この小さな本はほとんど話題にならなかった。


しかし、トーベは気にしなかった。


なぜなら、この本は売れるために書いたわけではないからだ。


彼女はただ、描きたかったものを描いた。書きたいものを書いた。それだけのこと。


誰かに評価されることではなく、自分が納得すること。それが彼女にとっての「成功」だった。


出版から数週間後、彼女は母から一通の手紙を受け取った。


内容は短い。


「読みました。とても素敵な本です。あなたは、自分だけの言葉を持っている」


トーベはその手紙を、何度も読み返した。


そして、机の引き出しにしまった。


戦争が終わった。


外では、人々が通りに溢れていた。笑い声が聞こえる。音楽が流れている。ヘルシンキに、ようやく春が来た。


トーベは窓辺に立ち、黒い布を外した。


久しぶりの陽射しが、部屋に差し込む。埃が舞い、光の中でキラキラと輝く。


彼女は深く息を吸った。


新しい時代が始まる。


ムーミンも、新しい旅に出る。


それは、彼女自身の新しい旅でもあった。


---


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