序幕 「窓辺の灯り」
ストーブの火が、小さな部屋をじんわりと温めている。
外はもう真っ暗だった。バルト海は、風がない夜には珍しく凪いでいる。波の音はある。しかしそれは、なだめるような、規則正しい呼吸のようだ。灯台の窓からは何も見えない。漆黒の向こうに、水平線があることだけを知っている。
トーベ・ヤンソンは窓辺の椅子に座っていた。
膝の上には分厚い毛布。手元のテーブルには、半分だけ飲まれたコーヒーカップ。コーヒーはもう冷めている。彼女はそれを気にせず、カップの縁を指先でなぞっている。
八十七歳の手は、ところどころに茶色のシミがあり、関節が少し腫れていた。けれど指はまだ長く、かつてペンを握っていた頃の面影を残している。
ストーブの中で薪が崩れる音がした。
ぱちん、と小さな火花が散り、その後、炎が少し強くなった。そのオレンジ色の光が、部屋の壁に影を動かす。壁には何枚かの絵が掛かっていた。どれも小さなものだ。風景画。人物画。そして、あの白い生き物。
トーベは顔を上げて、それらをぼんやりと見つめた。
――随分、長い間、描いてきたものだ。
彼女はそう思った。声には出さなかった。この部屋で誰かと話す習慣は、もう何年も前に身についていない。いや、正確に言えば、最初からあまり話す習慣はなかった。彼女がいつも一緒にいた人は、黙っていることを了解していた人だったから。
トゥーリッキ。
その名前が頭に浮かんで、彼女はそっと目を閉じた。
彼女は今、ヘルシンキのアトリエにいる。島には一緒に来なかった。それぞれが自分の場所を持つのが、二人の長年の習慣だった。それが心地よい距離感だった。
会えなくなってから、どれくらい経つだろう。
いや、まだ会おうと思えば会える。ただ、最近はお互いの体が思うように動かなくなってきただけだ。
そう考えると、胸の奥が少しだけ締め付けられた。
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彼女は若い頃、自分がどこに住みたいのか、よくわからなかった。
ヘルシンキのアパートは便利だった。水道も電気もある。暖房も効く。近所にはパン屋も酒場もある。人通りは多いが、それがかえって安心だった。誰かが隣にいるという感覚は、孤独を和らげてくれた。
けれど同時に、あの街はうるさかった。
戦争が終わっても、うるささは戻ってきた。というより、戦争中は「うるささ」の種類が違っていた。爆撃機の音、サイレン、避難所に詰め込まれた人々のざわめき。それはそれで耐え難かった。しかし平和になると、別の種類のうるささがやってきた。
成功。
名声。
期待。
それらは音ではない。けれど、音よりも強く、彼女の部屋に侵入してきた。電話のベル。ドアを叩く音。手紙の山。インタビューの依頼。講演のオファー。すべてが彼女の名前を呼んでいた。トーベ、トーベ、トーベ。
ムーミンの作者。
あの白い生き物を作った女。
彼女はある時、気づいた。
――自分は、自分の名前で呼ばれているのではなく、「ムーミンの所有者」として呼ばれているのだ、と。
それは彼女にとって、かなり衝撃的な発見だった。なぜなら、ムーミンは彼女だったから。彼女が描かなければ、ムーミンはどこにもいない。しかし世間は、トーベ・ヤンソンという人間をすっ飛ばして、ムーミンだけを欲しがった。それはあたかも、卵を産んだ鶏を無視して、卵だけを大事にするようなものだった。
もちろん、彼女はムーミンを愛している。
自分の子供のように愛している。いや、自分の子供以上かもしれない。子供は勝手に成長し、親から離れていく。しかしムーミンは、彼女がペンを置くまで、彼女の手の中にいた。
それなのに、ある時から、ムーミンは彼女の手を離れた。
グッズになり、アニメになり、テーマパークになり、誰かの部屋のぬいぐるみになった。それは決して悪いことではない。自分の創造したものがこれほど多くの人に愛されることは、作家としてこの上ない幸せだ。
けれど、トーベは時々、息苦しくなった。
ムーミンが大きくなればなるほど、彼女自身の部屋は狭くなっていく。そんな感覚があった。
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ストーブの火がまた一つ、崩れた。
トーベは目を開けた。さっきまで閉じていたのか、自分でもよくわからない。瞼の裏には、過去の景色がぼんやりと焼き付いている。戦争中のヘルシンキ。黒い布を張った窓。インクの匂い。冷えたコーヒー。そして、描きかけの小さなトロール。
あの頃は、何もかもが単純だった。
ただ、描きたかったから描いた。
誰のためでもない。自分のために。
見返りなんて何も考えていなかった。売れるかどうかも、評価されるかどうかも、すべて後からついてきたものだ。最初にあったのは、ただの衝動だった。
紙の上に、白い生き物を描きたい。
それはなぜか。
トーベは長い間、その理由を自分でも説明できなかった。ただ、無性に描きたかった。戦争のニュースを聞きながら、爆撃機の音を聞きながら、鉛筆を走らせていた。
ある時、妹が言った。
「それ、かわいいね」
トーベは首を傾げた。かわいい。そう言われると、少し違う気がした。確かに、丸い鼻や、ぽってりとした体は愛らしい。しかし、その目には何か違うものが宿っている。不安。孤独。そして、それらを受け入れているような諦観。
それは、自分自身の目だったのかもしれない。
二十代のトーベは、戦争の中で生きていた。誰もが不安で、誰もが未来を信じられなかった。そんな時代に、自分の内側だけは守りたかった。外の世界がどんなに残酷でも、心の中だけは優しい場所でありたい。
ムーミンは、そのために生まれた。
戦争に対する反抗ではなく、戦争とは別の場所を存在させるための、小さな灯りだった。
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灯台の中は静かだ。
風のない夜は、特に静かだ。波の音さえも、遠くから聞こえてくるかすかな囁きのよう。時折、どこかの板が軋む。灯台は古い。木造部分は何度も修繕しているが、それでも経年劣化は避けられない。床はところどころ傾き、窓枠は少し歪んでいる。
それでも、ここが一番落ち着く。
トーベはそう思う。
世界中を旅した。パリにも行った。ロンドンにも行った。ニューヨークにも行った。どの街も魅力的だった。美術館は素晴らしいし、レストランの食事は美味しい。しかし、どの街も「彼女の場所」ではなかった。
彼女の場所は、海の真ん中の小さな島にある。
水道もない。トイレも外だ。冬はストーブがなければ凍える。嵐の日には、外に出ることさえできない。不便この上ない。けれど、そこには「余計なもの」がない。
余計な音がない。
余計な視線がない。
余計な期待がない。
ただ、海と空と、時々訪れる友人たちと、そして自分の内側から湧き上がる物語だけがある。
それで十分だった。
いや、それ以上は必要なかった。
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彼女はゆっくりと立ち上がった。
膝が少し痛む。年には勝てない。毛布を椅子の背にかけ、テーブルの上のカップを手に取った。冷めたコーヒーをシンクに捨てる。水道はないから、雨水をためたタンクから汲む。蛇口をひねると、冷たい水が出た。カップを洗い、棚に戻す。
もう一杯飲もうかと思ったが、やめた。
夜更けにコーヒーを飲むと眠れなくなる。最近は特にそうだ。若い頃は、朝まで絵を描いていても平気だった。しかし今は、規則正しい生活を心がけている。医者にそう言われたからではない。自分がそうしたいからだ。静かな時間を、少しでも長く続けるために。
彼女は窓辺に戻った。
椅子に座り直す。毛布を膝にかける。ストーブの火は、もうほとんど消えかけていた。オレンジの光がゆらゆらと揺れ、やがて暗い赤になり、そして灰の中に沈んでいく。
部屋が暗くなる。
しかし、トーベは灯りをつけなかった。
暗闇は彼女にとって怖いものではなかった。むしろ、暗闇の中でこそ、よく見えるものがあった。若い頃、ヘルシンキのアトリエで黒い布を張った夜を思い出す。外の灯りを完全に遮断した部屋の中で、彼女はキャンドルの灯りだけを頼りに絵を描いていた。
その時、彼女が見ていたのは、インクの黒と、紙の白だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
単純だった。
世界がどんなに複雑でも、紙と鉛筆さえあれば、彼女は自分の世界を作ることができた。
そのことに、彼女は今、あらためて感謝している。
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長い人生だった。
八十七年。
その間に、たくさんのことがあった。
戦争。愛。別れ。成功。失敗。称賛。批判。孤独。そして、穏やかな日々。
彼女は多くのことを経験したが、最後に残ったのは「静けさ」だった。
誰かに認められることではなく。
誰かに愛されることではなく。
誰かに必要とされることでもない。
ただ、自分が自分でいられること。
それがどれほど貴重なことか、若い頃の彼女は知らなかった。若者はみんな、何かを追いかけている。名声、お金、恋愛、何かしらの「証」。自分が価値のある人間だと証明したくて、がむしゃらに何かをしている。
トーベもそうだった。
ムーミンを世界中に広めたかった。自分の作品を認めてほしかった。それは悪いことではない。創作をする者にとって、それは当然の欲求だ。
しかし、ある時から、彼女はその欲求が自分を少しずつすり減らしていることに気づいた。
認められれば認められるほど、彼女は「認められる自分」を演じなければならなくなった。
それは意外なほど疲れることだった。
だから彼女は、ある時、きっぱりとやめた。
もういい。
私は私でいい。
ムーミンの作者としてではなく、トーベ・ヤンソンとして、ここにいる。
それが、彼女が島に移り住んだ本当の理由だった。
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遠くで、何かの鳥が鳴いた。
夜明けにはまだ早い。おそらく、何かの拍子に目を覚ましただけだろう。鳥も人間も、年老いれば眠りが浅くなるものだ。
トーベはそっと笑った。
自分が「年老いた」と言うのが、まだ少し照れくさい。心の中では、彼女はまだ三十代のままだ。いや、もしかしたら二十代かもしれない。あのアトリエで、初めてムーミンを描いた時のまま。
しかし体は正直だ。
腰が痛い。指が思うように動かない。階段を上るだけで息が切れる。鏡を見れば、知らない老人がいる。皺くちゃの顔。白髪混じりの髪。それは確かに自分なのだが、どこか他人のようにも思える。
時の経つのは早い。
本当にあっという間だった。
トーベはふと、机の上に置いてあるノートに目をやった。最後に何かを書いたのは、三日前だった。新しい物語の断片。まだたったの三ページ。登場人物は、小さなトロールと、彼の友達の女の子。題名はまだない。
書き続けなければ。
そう思う。
しかし同時に、もう書かなくてもいいのかもしれない、とも思う。
彼女はもう十分に書いた。多くの人に読まれた。多くの人に愛された。それで十分ではないか。
いや、違う。
彼女が書くのは、誰かに読んでもらうためではない。自分が書かずにはいられないから書くのだ。それは呼吸と同じだ。必要だからする。それ以上でも、それ以下でもない。
トーベは再び立ち上がった。
今度は机の前に歩いていく。椅子に座り、ノートを開く。ペンケースから万年筆を取り出す。インクはまだある。彼女はためらうことなく、書き始めた。
ムーミン谷の秋は、いつも静かに始まった。
書いていて、ふと思う。
――この物語は、誰のための物語だろう。
ムーミンのための物語?
子供たちのための物語?
それとも、自分のための物語?
どれも正しくて、どれも正しくない。
この物語は、これから読む誰かのための物語だ。誰かが読んで、少しでも優しい気持ちになれたら。誰かが読んで、自分もこの谷に住んでみたいと思えたら。それで十分だ。
彼女はペンを走らせ続けた。
窓の外では、東の空が少しずつ白み始めている。
夜が明けようとしている。
長い夜が終わり、新しい一日が始まる。
トーベは顔を上げて、窓の外を見た。まだ暗いが、水平線のあたりがほんのりと明るい。それはまるで、誰かが遠くで小さな灯りを灯したかのようだった。
彼女は微笑んだ。
そして、再びペンを握りしめた。
ストーブの火は完全に消えていた。部屋は冷え始めている。しかし彼女は寒さを感じなかった。なぜなら、彼女の内側には、ずっと灯り続けているものがあるからだ。
それは、七十年前の冬の夜に、ヘルシンキの暗いアトリエで彼女が灯した、小さな炎だった。
それは決して消えることがない。
誰が何と言おうと、決して。




