第三章 人気者になりすぎたムうーミン 第1節 「ムーミン現象」
一九五四年、春。
トーベがヘルシンキの出版社を訪ねると、編集者が原稿の束を放り出すようにして駆け寄ってきた。
「トーベさん! ロンドンの『イブニング・ニュース』が、ムーミンの連載を希望してきています!」
「……ロンドン?」
「イギリス最大の新聞のひとつです。世界中に配信されている」
編集者の声は上ずっていた。トーベは相槌を打ちながら、頭のどこかで別のことを考えていた。毎日、と彼は言った。連載というのは、そういうものだ。
「毎日、ですか」
「そうです。それが新聞連載というものです」
トーベは黙って、机の上に置かれた契約書らしき紙の束を見た。
「……考えさせてください」
「断る理由なんてありますか、これは」
「私には、私のペースがあるので」
彼女はそう言って、原稿の束を鞄にしまい、出版社を出た。
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アトリエに戻ると、トーベは机の前に座ったまま、しばらく手を動かさなかった。
多くの人に読んでもらいたい。それは本心だった。だが、誰かに急かされて描くことには、覚えがなかった。これまでずっと、自分の速度で描いてきた。
ペンを取り、白紙に一本、線を引いてみる。消しゴムでそれを消す。また引く。
彼女は結局、その日のうちに手紙を書いた。連載を引き受ける。ただし、締切に融通をきかせてもらうこと。それが条件だった。
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一九五四年、九月。連載が始まった。
反応は早かった。手紙の束が毎週届くようになり、二ヶ月で連載延長が決まった。
秋の終わりには、机の上の風景が変わっていた。契約書、翻訳の依頼状、グッズのデザイン見本、講演依頼の電報。それらが原稿用紙の上に積み重なっていく。
「トーベさん、明後日までにお願いします」
「トーベさん、アメリカから返事が来ています」
「トーベさん、こちらのぬいぐるみの色味、確認いただけますか」
電話が鳴るたびに、彼女は手を止めた。一日に何度も、その音で筆が止まった。
ある夜、原稿用紙に向かったまま、ペン先が紙に触れていないことに気づいた。もう三十分、同じ一コマを描けずにいた。
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トーベは島に戻ると、荷物も下ろさずに椅子に座り込んだ。
「疲れたよ」
トゥーリッキは彫刻刀を置いて、彼女の向かいに座った。何も言わずに、しばらく待った。
「みんな、ムーミンを求めてくる。私じゃなくて」
トゥーリッキは少し考えてから言った。
「島には電話がない」
「……そうだね」
「明日の予定もない」
トーベは顔を上げた。
「今日は、何も描かなくていい」
トゥーリッキはそう言うと立ち上がり、外套を羽織った。
「散歩、行こう」
二人は無言で防波堤まで歩いた。海は暗く、波の音だけがあった。トーベはポケットに手を入れたまま、何も言わなかった。トゥーリッキも黙って隣を歩いていた。
家に戻る頃には、肩の強張りが少しだけ抜けていた。
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その年、トーベは島で『ムーミン谷の夏まつり』を書き上げた。
締切のない原稿だった。書き直しても、誰にも急かされない。嵐と劇場と、ムーミンたちの大騒動。書いている間、ペンの動きが久しぶりに軽かった。
出版後、読者からの手紙がまた届いた。中の一通に、こう書かれていた。
「ムーミン谷に、休みの日だけ行っています」
トーベはその一文を、何度か読み返した。
自分が作った谷が、いつのまにか誰かの避難場所になっている。それは、彼女がグッズの見本や講演依頼の電報からは得られなかった種類の重さだった。
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年末、トーベは島に戻った。
灯台の窓に灯りがついているのが、船から見えた。
「おかえり」
「ただいま」
トゥーリッキの手には、まだ薪の破片がついていた。二人は玄関先で、その手をそのまま合わせた。
「今年は、いろいろあったね」
「うん。ほとんど電話の音だった気がする」
トゥーリッキは笑った。
「ここには電話がない」
「うん。知ってる」
二人は窓辺に並んで立った。冬の海は暗く、静かだった。
「来年も、きっとまた鳴るんだろうね、電話」とトーベが言った。
「鳴らせておけばいい。ここには届かない」
トーベは小さく笑って、トゥーリッキの肩に頭を預けた。
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窓の外で、雪が降り始めていた。
トーベは目を閉じて、その静けさだけを聞いていた。
明日の予定は、まだ何も決まっていなかった。




