第2節 「商品になるキャラクター」
一九五四年九月二十日。
イギリスの新聞『イブニング・ニュース』で、ムーミンの漫画連載が始まった。
それまでムーミンは、本屋で一冊を選び取る読者だけのものだった。しかし新聞漫画は違う。仕事へ向かう人が電車の中で開く。昼休みの会社員が広げる。夕食後、家族の誰かがページをめくる。選ばれてすらいないのに、毎朝そこに現れる。
配信はイギリスだけにとどまらなかった。数か月のうちに、ムーミンという小さな生き物は各国の新聞に載るようになった。フィンランドの児童文学の主人公が、国境を持たないキャラクターに変わっていく速度は、トーベ自身の予想を超えていた。
戦争中、家賃と画材の値段を天秤にかけながら絵を描いていた頃を思えば、これは間違いなく成功だった。トーベは商業の仕事を嫌う人間ではなかった。広告の絵も、雑誌の表紙も描いてきた。だから人形になることにも、最初から抵抗はなかった。
一九五〇年代半ば、フィンランドのFauni社がムーミン人形を作り始めた。一体ずつ手で仕上げられ、目の位置も口の角度も少しずつ違う。トーベはその不揃いさを気に入り、姿かたちについて自分で細かく指示を出した。ムーミンパパにはパパの体つきがあり、スノークのおじょうさんの髪飾りは、ただ丸い頭につければいいというものではなかった。
一九五六年、アラビア社からムーミンの陶器が出た。翌年、ファッツェル社からムーミン・キャラメルが出た。トーベの机の上には、試作品の写真と承認待ちの図面が、原稿用紙と同じ高さまで積まれていった。
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新聞連載は、週に六本だった。
物語を考える。台詞を書く。構図を決める。ペンを入れる。そして次の朝には、もう次の一本の締切が来ている。
最初、この仕事は自由を運んでくるはずのものだった。安定した収入があれば、生活の心配をせずに絵が描ける、小説も書ける──そのつもりで引き受けた。
だが、描けば描くほど次を求められた。人形が人気になれば、色見本の確認が来た。確認すれば、次の商品の相談が来た。取材、手紙、契約書、宣伝用の写真撮影。ムーミンが一歩大きくなるたび、トーベの仕事も一歩大きくなった。
朝、目覚める前から、頭の中で明日の締切のコマ割りが始まっている。そんな日が続いた。
彼女は仕事の速い人だった。子どもの頃から絵筆を持ち、挿絵も風刺画も油絵も装丁もこなしてきた。求められれば応えられる技術があった。
だからこそ、できてしまった。できる人間には、さらに仕事が積まれる。
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一九五五年の暮れ、トーベはあるクリスマスの集まりで、トゥーリッキ・ピエティラと再会した。
版画家で、グラフィック・アーティストでもある。以前から互いの名前は知っていたが、その夜、二人は部屋の隅で立ち話をした。トゥーリッキは自分の版画の話を、誰かに聞かせるためというより、ただ事実として話した。ムーミンの話は、一度も出なかった。
「あなたは、何を作ってるの?」とトーベが訊いた。
「版画。あなたは?」
「……ムーミン、じゃない答え方を、探してる」
トゥーリッキは笑わなかった。ただ、少しだけ首を傾げた。
翌一九五六年、二人の距離は急速に縮まっていった。トゥーリッキはトーベの名声に用がなかった。彼女を「ムーミンを描く人」としてではなく、一人の芸術家として見ていた。世界中がトーベをその一色に塗り替えようとしているさなか、それは小さくない意味を持っていた。
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商品化は止まらなかった。人形、カップ、キャラメル、ゲーム。子どもたちはムーミンを読むだけでなく、抱き、飲み、食べ、遊ぶようになった。
会ったこともない国の子どもが、ムーミンの名前を知っている。それによって家族を助けることもできる。成功に間違いはなかった。
ただ、値段はあった。金ではなく、時間だった。
机の電話が鳴る。トーベは受話器を取る前に、一拍だけ間を置くようになっていた。
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一九五八年、トーベは弟ラルスとともに、権利を管理する会社を設立した。
Moomin Characters。
英語に強いラルスは、以前から新聞連載の英訳を手伝い、物語作りにも関わっていた。彼が仕事を少しずつ引き受けていく。
一九五九年、トーベは新聞社との七年契約を、最後まで果たした。途中で投げ出したのではない。約束の期限まで描き切って、そこで手を離した。
漫画そのものは終わらなかった。ラルスが引き継いだ。ムーミンは生き続け、トーベは少しずつ、自分の時間を取り戻していった。
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その年の冬、トーベは久しぶりに島へ渡った。
灯台に灯りがついていた。トゥーリッキが先に来ていた。
「電話、鳴らなかった?」とトーベが訊いた。
「ここにはないから」
トーベは荷物を下ろし、窓辺に立った。海の向こうのどこかで、今もムーミンは新聞の片隅に載り、人形は誰かの棚に並び、カップは誰かの手の中で温かい飲み物を注がれているだろう。
それでいい、と彼女は思った。
ここには、届かない。




