義兄弟としての道
長恭は、男の文叔に惹かれていく自分を意識して、青蘭に皮肉な言葉を掛けてしまう。青蘭は気まぐれな長恭に戸惑いながらもしだいに惹かれていくのだった。
★ 人生で一番幸せなとき ★
啓蟄も過ぎ梨の白い花が開いて、四阿の周りの躑躅も紅色に色づく季節になった。学堂に持参した昼食をすませた長恭と青蘭は、四阿に座り書冊を取り出した。
長恭は卓の上で『史記』を開く。そして、向かいに座る文叔を伏し目がちにちらりと見た。僅かに伏せられた文叔の瞳と形よく閉じられた唇が可憐だ。長恭は小さく溜息をつくと、気付かれぬように直ぐに書冊に目を落とした。
王文叔について、もっと知りたい。敬徳が助けた少年が文叔であると知って、長恭は文叔の出自がひどく気になりだした。長恭は侍衛の遼然に命じて、ひそかに文叔の帰る屋敷を探らせた。探索によると、文叔は、賈商の鄭家に住んでいるという。姓が王氏であることを考えると、鄭家の親戚筋の者で居候しているのだろうか。
遼然によると、鄴の鄭家の賈主には一男一女がいるらしい。しかし、鄭家の令息が王氏と言うのは、何とも釈然としない。他人には言えない何か深い訳があるのか。文叔は明るい笑顔の陰に、人生の辛さを隠しているのだろうか。長恭は書冊の間から文叔を覗き見た。
静かな時が、躑躅に囲まれた四阿に流れた。
青蘭が『史記』から目を上げると、うつむきかげんの長恭の端正な眉目が見える。料紙の上を走るサラサラという長恭の筆の音だけが風の音に混じって聞こえてくる。目をつぶると沈香の香りだけが感じられた。
『人生の一番幸せな時は、このようにして静かに通り過ぎていくのかも知れない』
何もいらない。師兄の側で学問ができる事以上に何を望もうか。青蘭は、なぜか涙が滲んだ。
「眠くなったか?」
長恭は身を乗り出して、文叔の頬に触った。
「やめろよ・・・」
文叔は驚いて、長恭の手を払った。
「本当に、女子に見紛う南朝の若君だな」
長恭は、文叔への好意を紛らすように笑った。候景の乱の時の梁の貴公子たちの馬にも乗れず、騎射もできなかった無様な有様が、北斉にも伝わって来ている。
「ひどい、女子だなんて・・・」
青蘭は、拳で長恭の胸をたたこうとした。
何と言うことだ。私は自分が一番望まぬ言葉を、文叔に言っている。
「すまぬ、文叔・・・戯れ言だ」
長恭は卓に頬杖をつくと、清澄な微笑みを浮かべている。そうだ、全ては戯れ言だ。・・・師兄が微笑むと、何も責められなくなる。
長恭は文叔の隣に座ると墨を擦りだした。何気なく文叔の肩に目をやった。細い身体だ。これでよく江陵から鄴都へ脱出してきたものだ。途中では盗賊に襲われ、敬徳の助けがなかったら命を落としていたかも知れない。なぜそのときに助けたのが、自分ではなかったのか。今更ながら敬徳に嫉妬するのは、道理に反する。
「お前は、私の弟弟子だ。・・・これからは、お前を私が守る」
いきなりの長恭の言葉に、青蘭は吹き出した。
「師兄、その言葉は、好きな女子に言うものだろう?・・・自分の身は自分で守るさ」
青蘭は、揶揄うように片眉を上げた。お前を守るなんて、自分には相応しくない言葉だ。
「好きな女子なんて、いないさ」
長恭ほどの男子に女子のいないはずは無い。
「冗談だろう?師兄が歩けば、女子が列をなすのに・・・」
「容貌や身分に寄ってくる女子は嫌いだ。そいつらは、私の苦悩や努力を知らない。それで心が通じると思うのか?私は、本当に理解し合える女人しか好きにならない」
長恭は、不機嫌に唇を歪めた。
兄弟子たちの噂では、長恭は人付き合いが嫌いだと聞いている。特に寄ってくる女子を毛嫌いしてるらしい。その長恭が、自分を守ると言ってくれる。自分が柔弱で弟のように感じるからか。それとも、何かの秘密があるのか。
「そう言えば、阮籍の手績の礼がまだだった。何がいい?」
長恭は、小首をかしげた。うかつなことを望めば、女子であることを見抜かれそうだ。長恭は女子嫌いらしい。本当は女子で、男の振りをして近づいたと分かれば、酷く軽蔑されるだろう。
男らしい要望で、長恭から疑われないようにしなくては・・・。
「師兄、剣術の稽古を付けてくれ」
女人に勝る美貌の長恭は、それほどの腕前には見えない。剣術なら、少しは覚えがある。稽古の相手としては、丁度いいかもしれない。
「よし分かった。・・・鄴は物騒なところだ。お前も弱いままでは、自分を守れない。剣の稽古を付けてやろう」
長恭はパンと手を打つと、満面の笑みを浮かべた。
★ 剣術の稽古 ★
長恭と青蘭は、午前の講義を済ませると、馬を走らせ漳水の辺に来ていた。
二月も十日を過ぎると、草原の草花が一斉に咲き始める。建康から遙か北にある鄴都は、冬の寒さに耐えた草花の色が鮮やかだ。
馬を降り槐の木の立つ丘に登ると、長恭と青蘭は、漳水越しに遠く太行山脈を見た。山脈の峰峰には未だ雪が消え残っている。
「あの太行山脈の雪が、我が鄴都の水源だ。荒れ果てた鄴の地を豊かな農地に変えたのが西門豹だ。鄴の県令になった西門豹は、民の非難を物ともせず灌漑工事を行ったのだ」
青蘭は、鄴都の北に広がる小麦の畑を思い出した。
「同僚に誣告されて、西門豹は左遷されたが、豊かな穀倉となった鄴の民からは今でも崇拝されている。西門豹は、私の理想の政治家だ」
「西門豹?」
南朝では、耳にしない政治家の名前である。
「ああ、西門豹を祭ったのが西門豹廟だ。いろいろの大きさの物が鄴都の周辺に無数にある。・・・今度連れて行ってやるぞ」
長恭は、ふざけて文叔の頬をつまんだ。
瞼の向こうには光り輝く漳水が流れ、辺りには躑躅や藤が咲き乱れている。
「目をつぶってみよ」
若草の香りに混じって、となりにいる長恭の沈香の甘い香りが文叔をつつむ。大地は何と輝きに満ちているのだろう。ずっとこのまま長恭のそばにいられたらどれほどいいだろう。
「痛い」
鼻を摘ままれた。目を開けると、長恭が覗き込んでいる。思わぬ顔の近さに、心臓がドキリとした。
「眠ったのかと、思ったぞ」
麗しい眼差しに、女心がチクンと痛む。
夢のようなひと時は、あっという間に逃げていく。
「さあ、始めようか」
裾を払って長恭が立ち上がると、美しい唇から無情な声が飛び出てきた。そうだ、今日は武術の鍛錬のために来ていたのだった。長恭は馬のところに戻ると、鞍に付けていた二本の木剣を差し出した。
「それでは、約束の稽古を始めよう」
手にした樫の木剣は、思いの外重い。斛律家で鍛錬したと言う言葉が、脳裏をよぎった。間違ったかも知れない。長恭は克己心に溢れ、狎れると言うことを知らないらしい。青蘭は、長恭から渡された木剣を恨めしげに見た。
『ほら、剣の稽古をやるんだろう?』
長恭は、眼で促した。鮮卑族の国である斉で生きていくなら、武術の心得は必須のものだ。優雅で柔弱そうな長恭なら良い稽古の相手だと、あなどって自分から鍛錬を希望したのだ。しかし剣を構えてみると、長恭の強さが迫ってきた。打ち込もうとしても、どこにも隙が無い。美しいだけの貴公子だと思っていた長恭は、剣の遣い手だったのだ。
剣を交える前から、青蘭はすでに後悔していた。
「ほら、文叔かかってこい」
しぶしぶ、青蘭は長恭に剣を向けた。南朝では兄と稽古をしたこともあった。その時は、そこそこ打ち合えたのに・・・。妹相手では、本気を出していなかったのだろう。
鮮卑族の武将である長恭は、一見軟弱そうに見えて無類の強さを持っていた。清雅な長恭が鬼の形相で鋭く睨むと、むしろ凄みが出る。
かつて、候景の乱の時、梁の貴公子たちが馬にもまともに乗れず建康があっけなく陥落してしまったことは、今でも語り草である。
「南朝の貴公子は、剣もまともに持てないくらい軟弱だとか・・さあ、お前はどうかな?」
木剣を片手で握った長恭は、挑発するように剣先を揺らした。あまり弱気になると、女子であると悟られてしまう。青蘭は重い木剣を両手で支えると、間合いを取るように横に動いた。
「さあ悔しかったら掛かってこい。南朝の若君、お前は腰抜けか?」
長恭は文叔への恋情を断ち切るように、あえて過激な言葉で文叔を挑発した。
「え、えい、ええい」
掛け声だけを盛んに挙げていた青蘭は、嘲りの言葉に耐えかねて、藪から棒に上段から打ちかかっていった。
「たあっ」
長恭が軽く体をかわすと、勢いのついた青蘭の木剣が地面を打ち、前のめりに倒れそうになった。青蘭は、よろけながら辛うじて木剣で身体を支えた。力量の違いは、一目瞭然だ。
「それで終わりか?文叔、まったく全く弱いな。もっと掛かってこい。南朝の貴公子が情けないのは、聞いたとおりだな・・・」
それは、北魏の武将の梁軍に対する嘲りの言葉だ。罵りの言葉に、青蘭は荒い呼吸で振り向いた。
「まだ、まだだあ」
青蘭は荒い息をはくと、再び剣を構えた。
力を振り絞り、必死に木剣を構える文叔は美しい。清琬な眉目にほんのり赤く上気した頬、固く結ばれた桃色の唇。できるなら、木剣を投げ捨てて抱きしめたい。恋情に引きずり込まれそうな己を打ち払うように、長恭は大声で文叔を挑発した。
「打ちかかってこい、どんな剣も受け止めてやる」
青蘭が振り下ろした剣先を長恭が横に払うと、翻った剣先が青蘭の剣を跳ね上げた。ガンと大きな音をあげると、青蘭の木剣は弧を描いて飛んでいった。
木剣が槐にぶつかる乾いた音で、長恭は我に返った。やり過ぎた。長恭はあわてて文叔の元に駆けていった。
「文叔、もう疲れたか?・・あきれた奴。仕方が無い、少し休もう」
長恭は、わざと突き放したように言った。
「師兄、・・感謝し・・」
青蘭は、草叢まで歩くといきなり仰向けに倒れた。辺りが暗くなり、景色の色彩が失われた。それから、何があったか青蘭は、何も覚えていなかった。
★ 青蘭は体力不足 ★
次の日、文叔の様子が気になった長恭は、早めに学堂に出掛けた。
昨日の稽古のあとの文叔は、草地に倒れてしばらく動かなかった。あわてて長恭が抱え上げて水を飲ませると、しばらくして文叔はうつろな目を開けた。
「こんなに弱くては、師弟と言えないな」
文叔は申し訳なさげに、長恭の腕の中で首をすくめた。
「文叔、そんなことない。お前は立派な男だ」
春の太陽が西に傾いたころ、長恭と青蘭はやっと鄴城に戻ったのだ。
昨日の稽古はやり過ぎた。
文叔への道ならぬ恋情を断ち切りたい長恭は、感情的になり厳しい稽古を付けすぎた。身体が細く、明らかに発育不全だと思われる文叔に、長恭は鮮卑族の武将と同じような稽古を付けてしまったのだ。
顔氏の学堂についた高長恭は、足早に書庫に入った。いつもの書見台に、文叔の姿がない。どこへ行ったのか。
「王文叔を見なかったか?」
書冊をめくっていた学士を捕まえて、訊いてみた。
「あの王文叔か?さあな、今日は顔を見てないな」
文叔が、学堂を休んでいる?文叔は精勤で、今までは毎日のように学堂に来ていた。何かあったのだろうか。
長恭は、馬車を鄭家のある坊に向かって急がせた。屋敷の場所を調べさせておいてよかった。西市の北に位置する商賈の屋敷が建ち並ぶ一角に鄭家はあった。
文叔の質素な身なりから、小さな商賈だと思っていた鄭家は、思いの外大きな屋敷であった。そう言えば、自分は文叔について、鄭家の一族である以外何も知らなかった。もっと、文叔について知らなければ・・・。長恭は馬車の中で唇を噛んだ。
とにかく門を叩いてみよう。鄭家の大門に立った長恭は、門衛に来意を告げた。
「顔氏門下の高長恭と申す。王文叔殿にお目に掛かりたい」
中に入った門衛はなかなか戻ってこない。しびれを切らした長恭が、門内に声を掛けようと扉をたたく。すると、先ほどの門衛に代わって、家宰らしき中年の男が現れた。
男は長恭が皇族であることを知っているのか、慇懃に拱手をした。
「若様は、・・・伏せっておられます」
「文叔は、病気なのか?」
家宰の慇懃な様子から、文叔は鄭家の賈主の息子らしい。
「見舞いたい。同門の高長恭と言ってもらえばわかる」
「あいにく、・・・お休みになったところです」
大賈の家宰ともなれば、無理押しはできない。長恭は中に駆け入りたい気持ちを抑えて、宣訓宮に戻った。
毎日のように学堂で机を並べて学びながら、迂闊にも王文叔については、ほとんど知らなかったのだ。
宣訓宮にもどった長恭は、側仕えの宦官である張吉良を呼んだ。
「鄭家の王文叔について、至急詳しく調べてくれ。・・・ただし御祖母様には内密にな」
以前、侍衛の遼然に調べさせたが、鄭家の内情までは分からなかった。側仕えの宦官である張吉良は優秀だ。宦官は独自の情報収集の伝を持っているのである。
次の日の夜には、王文叔についての情報を調べてきた。普通の商賈だと思っていた鄭家は、鄴都を中心として晋陽、大梁、洛陽などに商賈を構える豪商であった。主に絹織物や薬草、宝飾品などを商っている。最近は手を広げて朝廷にも食い込んでおり、皇太后府にも出入りしているという。
鄴の商賈を采配しているのは、鄭本家の主人の姪である鄭桂瑛である。
鄭桂瑛は、かつて梁の将軍王琳の夫人であった。二人の間には一男一女がいるが、およそ十年前に王琳と離別した鄭桂瑛は、鄴都に戻って鄴の商賈を実質的に采配しているという。王文叔とは、王琳と鄭桂瑛の子息だということだ。
母の鄭氏が王琳と離縁したとは言え、王文叔は、りっぱな南朝の貴族の子息であることには変わりはない。
王琳将軍は、今は亡き梁の元帝の寵臣であった。現在の南朝では最も輿望を集める勇猛な将軍である。その子息となれば、学問を修めれば斉の朝廷での仕官も望めるであろう。
王琳の息子であれば自分と師兄弟になってもおかしくない身分である。しかし、文叔は、なぜ出自を自分に隠していたのであろうか。
★ 病の青蘭 ★
必死の剣先で打ちかかる青蘭を、長恭がうろんな笑みで打ち返す。
妖麗で残酷な瞳と桃色の愛らしい唇。
破壊的な衝撃と罵声。
「お前の力は、これっぽっちか」
自分は、何と非力でちっぽけな存在なのだ。
発せられる言葉が、残酷に青蘭の心を切り刻む。
「弱いお前が、この鄴でやった行けると思うのか」
長恭の美しい顔が、青蘭を嘲るように笑った。
目が覚めると、地面に沈み込むような疲労感が青蘭の心を縛った。臥内はすでに暗く、蝋燭が灯っている。
「あっ、お嬢様、お目覚めになりましたか?・・・熱を出されて、心配しました」
榻牀にかけよった晴児は、目に涙を溜めて喜んだ。
「薬湯でございます」
晴児が、薬湯の椀を持って椅に腰を下ろした。
「お帰りになるなり、寝込まれてびっくりしました」
青蘭は薬の椀を受け取ると、苦いのを我慢して、口に運んだ。
枕元の小几の上を見ると、駕籠に入れられた柑子とたたまれた料紙が置かれている。
「高長恭様とおっしゃる若様がお見舞いにいらして、柑子の篭を持ってこられました」
柑子に挟まれた料紙を開くと、李陵の詩賦が端正な長恭の手跡で記されていた。
嘉会 再びは遇い難く
三載 千秋と為らん
会える喜びの時は、
再びは訪れないのか
君に会えないと
三年が千秋に感じられる
李陵が、親友の蘓武に贈った詩賦である。
『師兄は私を心配して、見舞いに来てくれたのだ』
たとえ男同志の友情でも、長恭が心配してくれたことが嬉しかった。
「お嬢様、召し上がりませ」
柑子は、貴族しか口にできない贅沢品だ。柑子の皮をむくと、青蘭は口の中に入れた。甘酸っぱい果汁が溢れて薬の苦さを洗い流してくれた。
★ 長恭の後悔 ★
青蘭は、鏡台の鏡を覗いた。地味な鉄紺色の長衣に黒い皮の帯を締めた。病が癒えた文叔は、今日から学堂に通うことになったのだ。
「大変です。お嬢様、いえ若様、高長恭様が馬車で迎えに来ています」
白家宰が慌てて走り込んできた。剣術の鍛錬で打ち据えた自分を、馬車で迎えに来るなんて、どれほど柔弱な男だと思われているのだろう。
「白爺、断って、・・・自分で歩いて行くわ」
稽古で長恭に散々打ち据えられた悔しさがよみがえる。
「若様、高長恭様は、皇太后の秘蔵っ子だとか。ご厚意を断っては、皇太后のご機嫌を損ねて、商賈にも支障が・・・」
白家宰は、眉を潜めた。鮮卑族の国で、皇族にたてつくことはできない。
「わかった。直ぐ行く」
青蘭が垂花門(中門)に行ってみると、馬車は凝った黒漆塗りの女物の馬車である。青蘭が門から顔を出すと、象牙色の長衣と中藍色の背子を着た長恭が大門の前で待っていた。愁いを含んだ瞳が青蘭を捉えると、一気に輝いた。
「文叔、元気になったか?」
青蘭は長恭の瞳を見られず目を逸らした。
「師兄、すっかり元気だ。だから、こんな・・馬車は、こまる」
青蘭が慌てて大門を出ようとすると、長恭は腕を掴んだ。
「怒っているのか?」
「怒っていない。私の力不足だ」
青蘭は、唇を歪めた。
「お前の身体を考えずに、無理な稽古を・・・」
「弱い自分が悪いのだ。師兄のせいじゃない」
長恭は青蘭の袖を掴むと、下を向いた。
「病み上がりのお前を、歩かせるわけにはいかない。しばらく馬車で迎えに来る」
「結構だ。自分で行ける」
歩いて出て行こうとする青蘭の嚢を長恭は突然奪った。
「師兄、もう・・・」
二人の言い争いに、人の輪ができている。これ以上門前で争うわけにはいかない。
「わかった、今日は馬車を使わせてもらう」
青蘭は急いで馬車に乗り込んだ。
御者が馬鞭を振るうと、馬車はゆっくりと大路を動き出した。二人で乗り込むと、馬車の中は意外に狭い。席の端に体を寄せても、長恭と袖が重なってしまう。長恭の衣の沈香が、青蘭の心を切なくさせる。
「手を出してみよ」
長恭は、いきなり青蘭の手を捉えると脈を取り出した。長い睫が、顔の間近に迫り胸が苦しくなる。
「脈が速いぞ。まだ全快していないのでは?」
長恭は、心配げに青蘭を見詰めた。
『脈が速いのは、師兄が手を握っているからだ』
そう言いたかったが、できるだけ無邪気を装った。
「心配ない。・・・熱も下がり、すっかり治った」
すると、長恭はいきなり青蘭の額に手を当てた。師弟を心配する自然な仕草だ。
「確かに、熱は引いたようだ。・・安心した」
馬車の窓の外を、物売りの声が通り過ぎていく。とその時、馬車が左に曲がり、青蘭の体が大きく右に傾いた。
長恭は肩を抱くようにしてその肢体を受け止めた。柔らかい身体の重さが、長恭の胸に乗りかかった。
長恭の沈香の香が襟元から立ち昇る。
「あっ、・・師兄、申し訳ない」
青蘭は慌てて体を立て直し、左に寄って座った。長恭も青蘭の肩を抱いていた腕を慌てて離した。
『何を慌てているんだ。男同士なのに』
長恭は腕に残った文叔の柔らかい感覚に戸惑って、いつのまにか額に汗をかいていた。
「長旅の疲れが癒えていないのに、無理な鍛錬を強いたのは、私が悪かった。謝る」
「師兄は悪くない。自分の体力の無さが悪いのだ」
青蘭は、情けなさに肩を落とした。しょげていると、文叔はますます女子のように見える。慌てて長恭は、文叔の背中をたたいた。
「しょげている文叔は、文叔らしくないぞ」
「文叔らしくないって、何だよ・・・」
青蘭は男らしく、胸を反らして睨んだ。
「文叔って、一生懸命で、生意気で、理屈っぽくて・・・しつこい、無鉄砲で」
女子のようだと思ったことが気取られないように、長恭は出来るだけ男らしい言葉を探した。いつまでも、文叔と学問をしていたい。そして、生涯この友情を守っていきたい。
「しつこく、無鉄砲だなんて・・粘り強いと言うべきだろう?」
長恭は、自分の言葉に憤慨している文叔の可愛い姿に、笑みを漏らした。
文叔への恋心を抑えるために、文叔に皮肉を言ったり辛い鍛錬を課したりしたことを後悔した長恭は、文叔を守る義兄弟として接しようと決心する。




