青蘭の命の恩人
高長恭に贈る手蹟がなかなか仕上がらない王青蘭は、長恭を避けるようになった。
★ 顔氏学堂での学問 ★
この頃の顔之推の学堂は、弟子も少なく毎日決まった講義が行われるわけではなかった。顔之推の講義の他は、南朝から鄴都を訪れた学者が、偏殿で七、八人の弟子に『史記』や『文選』の講義を行なっていた。遅く入門した青蘭は、顔之推に出された課題を書房の書籍をみながらこなさなければならない。王文叔は、喉の乾いた馬が水を飲むように、二日と空けず学堂に通うようになった。
高長恭は、毎日学堂に来るわけではない。しかし、思うような手蹟がなかなか完成しない青蘭は、内院で長恭を見かけると、後苑の四阿や書庫に隠れ長恭を避けるようになった。
たぐいまれな容麗の高長恭とは、何者なのだろうか。講義で隣り合った兄弟弟子に探りを入れてみた。
「あの美丈夫だろう?さあな、・・・あの美貌だから、一時は女子だという噂も立ったのだ」
元宵節で最初に見たときに、青蘭も同じように感じた。
「女子だと?」
「ああ、男装した女子だと思い、言い寄った学生がいたが、手を出そうとして、・・・散々殴られた。痛い目に遭ったらしい」
清雅な容貌と近寄りがたい雰囲気のためか、高長恭はほとんど誰とも親交がなく、高長恭という字さえ弟子たちは知らないようだ。しかも、女子のような美貌に似ず、武術の腕は確からしい。
他の弟子たちと距離を取っているのにもかかわらず、何故、長恭は自分に詩賦を所望するのか。清河王の配下として何か探っているのだろうか。それとも、彼自身に何か秘密があるのだろうか。
『荀子』の講義を終えた青蘭は、筆硯を入れた嚢を抱えて急ぎ足で書庫に向かった。師父の講義の内容をいち早く復習したかったからである。
書見台に座ると、料紙を広げた青蘭は筆を取った。
『学は、已むべからず。青はこれを藍よりとれども藍よりも青く、冰は水これを為せども水より寒たし』
「学ぶことは、中絶してはならない・・・」
君子は、広く学べば智も明晰になり、行いも過失がなくなる。人間性は生まれつきのものではなく、学問に専心することによっていかようにも成長できるのだ。
人の一生は身分と天命により定められていると多くの人間が信じていた時代に、荀子の考えはむしろ斬新であった。女子の私でも、学ぶことにより成長して有為な人物になれるということであろうか。己の将来に絶望していた青蘭は、一筋の光を見いだした気がした。
そのとき、書庫の扉が開いて春の風が入ってきた。
書架の向こうで春らしい縹色の衣がひるがえり、沈香の香りが風に乗って書庫内に吹き込んできた。
長恭師兄だ。
高価な沈香を燻らせている弟子はそういない。長恭とは顔を合わせたくない。青蘭は書見台の前から這い出すと、書庫の北の端に身を潜ませた。
長恭は中に入ると、しばらく書架の竹簡を検めていたが、書冊の間から書見台の方を眺めた。長恭は手にしていた竹簡を戻すと、書見台に近づいた。
ああ、書見台には料紙と筆が置きっぱなしだった。自分の迂闊さに青蘭は思わず目をつぶった。諦めて早く出て行ってほしい。
青蘭が身体を縮めて願ったとき、突然視界が青空のような縹色になった。青蘭は、いきなり強い力に押されて横様に倒れた。
「うわあ」
青蘭は声にならない悲鳴を上げた。倒された驚きと沈香の香りに気が遠くなりそうになったとき、目の前に長恭の顔が現れたのだ。
「文叔、ここにいたんだ。逃がさないぞ」
妖麗な瞳が、悪戯っぽく青蘭を見下ろした。長恭に抱きしめられていると気付いた青蘭の心臓は跳ね上がった。
「師兄、何をするんだよ。ひどいぞ」
狼狽を気取られたくない青蘭は、身体をバタつかせて縹色の衣と長恭の身体を押しのけた。
「文叔、すまない、すまない」
立ち上がらせると、長恭は青蘭の両肩をこだわりなくたたいた。女子である事を気取られてはならない。
「いきなり、頭から衣を掛けて倒すなんてひどいよ」
大げさに唇を歪めると、青蘭は長恭の胸を拳で押した。
「すまない。でも・・お前が私を避けていたからさ・・」
長恭は切なげに青蘭を観た。遠くに文叔を見かけても、何故か避けているようにどこかに行ってしまう。
「内院で、私に会ったのに・・・逃げただろう?・・・私が、何か気に障ることをしたか?」
青蘭は、うなだれて書見台に戻った。
「その・・・、阮籍の詩賦がうまく書写できなくて・・師兄に合わす顔が無いかと・・・」
青蘭は、書見台の料紙を見た。
「そうか・・そんなことを気にして・・・手跡はそんなに急がなくてもいいのだ・・・」
青蘭の横に座った長恭は、青蘭の手を取った。胸の鼓動が高鳴る。
「それに、・・・師兄は高貴な身分だろう?私は一介の庶民だ。身分が違うのに付き合うのは問題があるかと・・」
清河王と友達付き合いできるほど、高貴な身分に違いない。文叔は当てずっぽで言ってみた。
「身分なんて、・・・何の意味もない」
長恭はやや投げやりに横を向いた。
「学問をする上で、身分は関係ない。貴族と庶民だって平等に論じ合えるのが学問の良さではないか?」
秀麗な面差しが、何故かはかなげに潤んで見えた。
「私は幼くして両親を亡くし、祖母の元で育てられた。心を許せる家族がいないのだ。・・・文叔、君に心の弟になってほしい」
気品のある容貌と衣から立ち上る沈香の芳香は、決して庶民には手の届かないものだ。長恭は無位無官であるが、権門の子弟に違いない。貴族は多くの兄弟がありながら、互いを競争相手とし、決して心の内は見せないものだ。両親がいないという長恭は、どれほど孤独な少年時代を送ってきたのだろう。
「私の様な者が、師兄の兄弟などとは、恐れ多い」
長恭は正面から青蘭の両肩を捉えると、両手に力を込めた。
「文叔、頼む・・・」
清雅な長恭の願いを断れる女子がこの世にいるだろうか。青蘭は魅入られたように、いつの間にかうなずいた。
★ 敬徳との再会 ★
青蘭が鄭家の大門を出ると、青空が黄砂のために黄色みを帯び、淡い陽光が大路を明るく照らしている。大路に出る。両側には、野菜や餅を商う露店が並んでいた。青蘭は深呼吸をして、焼餅の香ばしい香りとサンザシ飴の甘酸っぱい匂いを吸い込んだ。
青蘭は、男子の姿で、料紙を買いに紙問屋へ出掛けた。学問のために男子の装束に慣れてみると、その自由さがむしろ嬉しかった。外出時も侍女を連れて歩くこともなく、難癖を付けられる心配も無い。店で高値を吹っ掛けられたら、大声で値引き交渉をすれば良いのである。
鄴都の中央を貫く門街を渡ると、左側に都で一番の茶房である香麗房が見えた。茶房の前を通ると、爽やかな銘茶の香が漂ってくる。香麗房が鄴で一番の茶房だと敬徳が言っていた。銘茶好きの青蘭は、ゴクンと唾を飲み込んだ。しかし、香麗房は、高敬徳の贔屓の茶房だ。うっかり近寄ると、敬徳に出会ってしまうかも知れない。
警戒心が青蘭の足を速めさせた。
香麗房の前をそそくさと通り過ぎようとすると、人混みの中から青蘭を呼ぶ声が聞こえた。
「子靖、王子靖」
しだいに声が大きくなる。私を子靖と呼ぶのは敬徳だけ。青蘭は振り切るように足を速めた。
「待てよ、王子靖。待ってくれ」
雑踏の中で、青蘭はいきなり力強く腕を掴まれた。
「やっぱり、子靖だ。ほら、俺だよ高敬徳だ」
敬徳は青蘭の前に回り込むと、笑顔を見せた。清河王とここで顔を合わせるわけにはいかない。青蘭は顔を背けた。
「王子靖、忘れたのか?魯陽で出会った高敬徳だ」
いつの間にか、敬徳と青蘭の周りに人の輪ができていた。がっちり腕を掴んだ敬徳から、逃げることはできない。
観念した青蘭は、顔を上げた。
「こ、これは、高敬徳様でしたか。お久しぶりです」
青蘭は、慌てて取り繕うように笑顔を作ると拱手をした。
「子靖、無事に鄴にたどり着いていたか。心配していたのだぞ」
敬徳は、拘りなく青蘭の肩を叩いた。
「困ったら清河王府を訪ねて来るように言ったのに、なぜ、・・・王府を訪ねてこない」
「そ、それは・・」
青蘭が言葉に詰まっていると、敬徳はいきなり青蘭の手を掴んで歩き出した。青蘭の書生のような質素な衣を見た敬徳は、困窮した生活を想像したのだろう。
「ど、ど、・・・何処へ?」
「腹が減っているだろう?昼餉を馳走する」
敬徳は笑顔になると、酒楼へ入っていった。
敬徳は酒楼の二階に席を取ると、料理を注文した。
この聘珍樓は、下級の官吏が直ぐに席が取れるような酒楼ではない。さすが、権門の家柄である。
「王子靖、鄴では、どうしていた?」
清河王に対して、正直に話すわけにはいかない。青蘭は促されるまま渋々と席に着いた。
「親戚の家に世話になっています」
敬徳は、注文した酒を杯に注ぐと、青蘭に差し出した。
「なぜ、王府に来なかった?待っていたのだぞ」
弟を労るような優しい目の色が眩しい。
「親戚の家では良くしてもらっているので、・・お世話にならなくても・・」
青蘭は無邪気を装って笑顔を作ると酒杯に手を伸ばした。
「無理するな、・・・居候では何かと肩身が狭かろう。・・・さあ飲むがいい」
敬徳は、居候した親戚の家での苦労をねぎらった。道中で命を助けただけの見ず知らずの少年を、これほど心配してくれる人はいるだろうか。
「そなたは学問を志していたな。・・・どこかの、学堂に入門できたのか?」
「はあ、・・探しているが、なかなか無くて」
顔之推に入門したと話せば、学堂まで訪ねてきて長恭と鉢合わせしかねない。自分の出自を明かしたくない青蘭は曖昧に答えた。
「そうか、学問は師が大切だ。ゆっくり考えるがよい」
敬徳は温顔でうなずいた。
鮮卑族の武将は残虐だと聞いていた。しかし、この男は何て優しいのだろう。
青蘭は敬徳が取り分けた料理を急いで頬張った。
「もう少し、落ち着いて食べよ」
敬徳は笑いながら羹の椀を差し出して、咳き込んだ青蘭の背中をさすった。
兄のような優しさだ。自分が縁談を壊した相手だとも知らず、鄴での生活を心配してくれる敬徳に申し訳なくて青蘭の目頭が熱くなった。
敬徳の力を持ってすれば王子靖の素性を調べることは難しくない。しかし、南朝から斉に来朝する漢人には、他人には言えない事情を抱えている者が少なくないのだ。そのため、高敬徳は、王子靖と名乗る少年の出自を詳しく調べることに躊躇していた。
「腹が一杯になりました」
卓上の料理を平らげると、青蘭は男子らしく豪快に笑いながら腹をなでた。
★ 師兄の長恭 ★
春の明るい陽光が差し込み、書見台を照らしている。
「修身篇を書写した物だ。そなたにやる」
書見台に座る青蘭に、長恭が書冊を差し出した。書冊を開くと、長恭の端正な文字が並んでいる。
「師兄が、私のために書写を?」
「自分の書法の稽古だ。別に師弟のためでは・・・」
長恭が照れくさそうに顔を逸らした。
「文叔、学士は学問に専心しなければならない。講義を受けて内容を書き留めておくだけではだめだ。講義前の予習と復習が大切だ。前もって師父に問いたいことを、余白に書き込んでおくのだ。せっかく私が稽古したのだ。無駄にするな」
長恭は横暴に見えながら、さりげなく青蘭の学問を助けてくれる。
「師兄、心に刻みます」
「文叔、分からない事があったら、この師兄に訊くがよい」
長恭が書冊を開いて説明しようと振り向くと、青蘭の顔が思わぬ近さにある。
清澄な瞳に、心臓がドクンと音を立てた。
『男子が男子の顔を見て赤面するなんて・・・どうかしている』
ドギマギした長恭は内心の狼狽を悟られまいと顔を逸らした。
「君子の学は無窮を追わず、ただ努力するのみだ」
長恭は、書架の前まで行くと収蔵されている書冊を手で触った。
「文叔、君はどんな学問に興味があるのだ」
文叔は、書架の方を見た。
「『荀子』は、生きる道を教えてくれる。武人を目指すなら『孫子』や『呉子』だ。でも、民の役に立つのはやはり医術だと思う」
青蘭は、書架を回って『黄帝内経』を見つけた。『黄帝内経』は、鄭家の財力でも買いそろえることができない貴重な書冊である。青蘭は、読もうとするいくつかの竹簡を腕に抱えた。
「感心だな。しかし、任官するなら『論語』が重要だ」
長恭は『論語』の竹簡を、青蘭の抱える竹簡の上に重ねた。竹簡の重さに耐え切れず、青蘭はよろめいて竹簡を取り落とした。
「文叔、・・・竹簡が重いとは、学問をする者として情けないぞ」
長恭は、ひ弱な青蘭の腕を指で押した。
「師兄、・・・ちょっと意地悪だ」
文叔は、頬を膨らませながら床に散らばる竹簡を拾った。
長恭は気まぐれだ。優しいと思うと、急に意地悪になる。
「いきなり、竹簡を載せるなんて・・・だれだって・・・」
散らばった竹簡を拾い集めた青蘭は、長恭を睨むと書見台に座った。
長恭はきれいな鼻に筋を立てて睨む文叔が、堪らなく可愛い。文叔のそばにいると、その愛らしさに思わず抱きしめたくなってしまう。
何と言うことだ。男子の仕草を可愛いと感じるなんて・・・。どうしたというのだ。自分への苛立ちが、理不尽な行動に駆り立てるのだ。
★ 阮籍の手跡 ★
顔氏邸の垂花門を入ると、白梅が散り始めている。
「やっと、出来上がった」
青蘭は、書見台の上に囊から竹の筒を取り出した。
阮籍の手蹟を所望されておよそ十日間、苦心して書き上げた阮籍の詩賦である。
長恭は喜んでくれるだろうか。
だめだ、やっぱりやめよう。
青蘭が書見台の前から立ち上がったとき、書庫の扉が開き、長恭が入ってきた。
「おお、文叔来ていたのか」
書見台に置かれた料紙を見つけた長恭が、思わず清雅な微笑をもらした。
「文叔、阮籍の詩賦ができたのか?」
「その、自信がなくて・・・」
長恭は素早く奪うと、目の前で広げた。
上質な料紙に、黒々とした流麗な手跡が美しい。瑞々しい筆趣が、青蘭の純粋な心の在り方を示している。
「文叔、とても素晴らしい。・・・嬉しいよ」
長恭は微笑むと、青蘭の手を握り深い瞳の色でのぞき込んできた。
「師兄、そんな手蹟で大げさだ」
青蘭は長恭に見つめられると、たまらず目線を落とした。
「師弟に、礼をしたい。何がいい?」
長恭は料紙を手早く筒のように丸めると、青蘭に訊いてきた。
長恭にとって、私は単なる同門の師弟なのだ。肩を抱いたり手を握ったりする親しげな仕草は、むしろ長恭が男としての青蘭を何ら疑問に思っていない証拠だ。
青蘭は安堵するとともに何故か切なく心が痛んだ。
★ 贈られた詩賦 ★
長恭は清輝閣に帰ると、文叔から贈られた料紙をさっそく拡げた。
夕方の書房は、日が落ちる前からほの暗い。長恭は燭台を近づけた。
文叔は自信がないと言っていたが、文叔の楷書の文字が明るい灯火の下で、その人柄のように清華に輝いている。長恭は顔を寄せると、指先でその筆跡の行間をなぞってみた。
美しい筆致だ。文叔の大きな瞳、桃色の唇、繊細な顎。青蘭の華奢な身体を指でなぞっているようで、なぜか清冽な感覚が、身体の中を流れた。
何気なく手や肩が触れるとき、聖賢の言葉を発する唇を見るとき、長恭は、胸の内から湧き出てくる熱い感情を抑えることができなかった。
これは情欲だろうか。
『男同士なのに邪な欲望を感じるなんて、なんということだ。・・・私はどうかしている』
長恭は、己の不可思議な感情に拳を作ると、こめかみを叩いた。
十二歳で加冠の儀を迎えた。童形から髷を結うようになって以来、女人の粘り着くような視線を感じるようになった。
しかし、何より肝を寒からしめたのは、時より感じる暴力的な男の視線だった。
女人よりも美しいと評される長恭の美貌は、初陣以来、勇蛮な男たちにとっても注目の的であった。『女子のようだ』と迫って来る男の欲望ほど長恭の誇りを打ち砕き苦しめるものはない。
皇子の身分ゆえ、平生では身の危険を感じることはなかったが、酒が入り宴が乱れると、卑猥な目線や言葉を掛けられることがあった。
特に女子のいない陣中では、将兵の視線が長恭に集まり調練に支漳がでることもあった。夜の幕内では、常に身の危険を感じるほどであった。
武術の鍛錬の必要を感じた長恭は、皇太后に願い出て斛律家に通い、斛律家の息子たちとともに、激しい武術の鍛錬に励んだ。戦で武功を挙げ、兄達を見返したい気持ちもあったが、人一倍の武芸の稽古は、自身の男としての尊厳を守るためでもあったのだ。
逞しく成長した長恭は、武勇を誇る斛律家の息子たちを凌ぐほどになった。
何より男からの欲望を嫌っていた自分が、男の文叔には邪な恋情をいだいている。それを知ったら、文叔はどれほど自分を軽蔑するだろう。
何とこの長恭は、口では荀子や孔子の教えを説きながら、心では文叔の手や肩に触れたいと願っているのだ。
『私の穢らわしい感情で、文叔を悩ませてはならない』
長恭は己を戒めるように、両頬を掌で打った。
文叔の無辜な手蹟を、留めておきたい。
長恭は筆を取ると、詩文の余白に詩文に合わせて名月と琴を書き加えた。
『これを、表装して、書房に飾っておこう』
文叔を穢してはならない。長恭は料紙を指でなぞると、静かに溜息をついた。
★ 長恭と敬徳 ★
啓蟄が過ぎ、若葉が芽吹く春になった。清河王府では、白い杏の花が咲き、後苑の池の周囲を連翹の黄色い花が低く囲んでいた。
長恭は、太陽が西に傾きかけた頃、清河王府を訪ねた。
幼い頃からよく訪ねているので、清河王府は、勝手知ったる場所である。門衛に声を掛けると案内を請わず広い後苑に入って行った。
父親の高岳が亡くなり、母親が後を追うように亡くなって以来、広大な清河王府は人影も少なく寂寥感に満ちている。
水仙に縁取られた小径をたどり灌木を回っていくと、ビシッと矢が空を切る音が聞こえた。
敬徳が美しい後ろ姿で矢を番え、後ろに引く姿が杏の木の間から見える。舞を舞うように敬徳が矢を放つと、矢は正確に的の中心を正確に射貫いた。
「さすが、敬徳。素晴らしい腕前だ」
長恭は、手を叩きながら矢場に近づいていった。
「なんだ長恭、来ていたのか」
敬徳は笑顔で振り向いたが、再び前を向くとまた的に神経を集中させた。敬徳が太い眉と晴朗な瞳を歪ませると、鋭い矢筋が的の中央を再び射貫いた。
長恭が傍により手巾を渡すと、敬徳は手巾で汗を拭った。
矢を抜きに行く家人の背中に一瞥を投げると、敬徳は満足した笑みを浮かべて四阿に入ってきた。
「長恭、久し振りだな。元宵節以来ではないか。・・最近は、とんと清河王府に顔を出さない」
長恭は、海棠の花に囲まれた四阿の椅に座った。
「顔氏門下での学問が厳しくて、顔を出す間がないのだ。許せ」
文叔から贈られた書蹟は、もうすぐ表装をすませて手元に届くはずだ。長恭は密かに笑みを浮かべた。
「学問は、楽しそうだな」
敬徳は笑顔の長恭を見て、弓を置いた。
「そうだ、学堂では、身分など関係ない。同じ志を持つ友と、身分を越えて忌憚なく論じ合える。・・・初めて学友を得たのだ」
「共に学問について語り合える友ができたのか?・・・それはよかった」
皇太后の屋敷で暮らす長恭に、友は多くない。父母のいない長恭は、兄弟との縁も薄いのだ。一族の中でも親しく付き合っているのは、五弟の延宗と族兄の敬徳ぐらいのものであった。
そんな長恭に、学友ができたらしい。
「お前の学友とは、どんな者なのだ」
「南朝から来た王文叔という若者だ。南朝の者にしては、なかなか気概がある」
王という姓は、南朝では最も一般的な姓である。そして、文叔という字も三番目の嫡子につける字としては普通の名前であったのだ。
この時期、南朝の戦乱を逃れて北朝の斉に逃れてきた士大夫の子弟は、名のある学者に弟子入りして学問を学び、朝廷への出仕の機会を窺うのが普通であった。
南朝の若者という言葉に、敬徳は一緒に旅をしてきた子靖を思い出した。
『そう言えば、子靖は親戚の家で苦労をしているようだ。子靖に相応しい学堂を紹介したい』
「顔之推殿は、どのような学者だ」
敬徳は兵法などにも通じているが、儒学者には「腐れ儒者」などと痛烈な批判をしていた。急に自分の師父に興味を持った敬徳を、長恭は不思議なものを見るように眺めた。
「顔之推か?・・・中原で随一の学者ということで、高齢かと思っていたが、何と三十歳をいくつか出たぐらいの若さなのだ。驚いたよ。・・・豪放磊落で型にはまらない方だ。梁では君主を評価せねば皇帝の招聘にだって応じなかったそうだ」
長恭は、尊敬する師父について熱っぽく語った。
「三十代前半で、中原一の学者なのか?それはおもしろいな」
「顔師父は、冷遇する西魏を善とせず、黄河の洪水に乗じて斉に脱出をしてきた傑物だ」
江陵の落城後、長安に連行された顔之推は西魏に冷遇された。それを善としない顔氏は、黃河の増水に乗じ、筏に乗って脱出してきたのだ。その武勇伝は鄴城でも有名であった。
王子靖を顔氏学堂に入門させたい。顔之推の推薦を受ければ、斉の朝廷への出仕の道も拓けるはずだ。
★ 三人の遭遇 ★
魯陽で別れて以来、一月の下旬に敬徳に出会った青蘭は、酒楼で昼餉を馳走になった。
青蘭が早々に帰ろうとしたとき、いきなり高敬徳に呼び止められた。
「今度、一緒に嬌香楼で行こう」
一緒に嬌香楼に行く?嬌香楼は、鄴都で一番の妓楼である。妓楼での会うとは、女子の色を買うということだ。
この私が、女を買う?青蘭は、言葉もなく立ちすくんだ。しかし、断れば女子である事が、知られてしまう。
「そなた・・・男子なのに、妓楼は行ったことがないのか?」
と、敬徳はにやっと笑った。少年だとみて経験がないのだろうと馬鹿にしているのだ。
「そんな、・・・事ない。行ったことはあるさ」
弱みを見せて女子だと悟られてはならない。青蘭は男らしく見えるように、頬を膨らませて肩をそびやかせた。
「じゃっ、二月の朔日に待っているから、絶対来い」
敬徳はそう言うと、青蘭の傍らをすり抜け、階段を駆け下りていった。
妓楼なんて絶対行くもんか。直後はそう思った。しかし、この先男子として生活していくなら、行ってみるのも悪くないかもしれない。
何と言っても敬徳は命の恩人である。受けた恩は返さねばならない。鄴都一の妓楼にわざわざ招待してくれた敬徳に、申し訳ない気持ちもあった。
色を売る妓楼は、ある意味、社交の場でもある。これから、男子として生きていくなら、鄴都一の妓楼に一度は行ってみるのも良い体験かも知れない。
もし女子をあてがわれたら、逃げ出せば良いのだ。女子の青蘭は、妓女を買うわけにはいかない。
あのとき、断っておけば良かった。
きっと場違いだ。青蘭は、堅く拳を握りながら中陽門街を南に歩いた。
青蘭が嬌香楼の門前に立って見上げていると、訳知り顔の従人が声を掛ける。
「若様、いい娘がいますぜ」
背中を押されるようにして登楼した青蘭は、従人の案内で二階奥の客房の前に立った。
耳を澄ましたが、中からは妓女の嬌声などは漏れてこない。従人が扉を開けると、予想に反して広い客房には敬徳の姿しかなかった。
「王子靖、よく来てくれたな」
敬徳は素早く立ち上がると、青蘭を席に導いた。
「妓楼は、社交の場だ。江陵でも行ったことがある」
妓女がいないことにほっとした青蘭は、胸を張って客房の四方を見回した。赤い壁には扇情的な絵が掛かり、飾り棚にはいかにも高そうな磁器の壺が置かれていた。
他に客人がいるのだろうか。卓の上には、酒瓶と三つの青磁の酒杯が出されている。
「子靖は、入門できる学堂を探しているのだろう?族弟が、入っている学堂を紹介したい」
敬徳は、温順な笑顔で青蘭を見遣った。
いやな予感がした。敬徳の親しい族弟と言えば長恭にちがいない。敬徳の族弟が通う学堂と言えば顔之推のところだ。このままでは、困ったことになる。
「あっ、その、先日、学堂に通い始めたのだ」
青蘭は、あわてて先に報告した。
「子靖が、学堂を見つけて通い始めたのか。しかしだ、学問は師匠が大切だ。そこら辺の学堂に通っても、仕官の役に立たないぞ」
親戚に居候している王子靖の境遇であれば、どのような学堂に通っているか心配だった。
「子靖、どこの学堂に通っているのだ」
「それが、・・・漢人の、学堂です」
青蘭は、言葉を濁した。長恭と同じ学堂だと知られれば、いつか身分を知られてしまう。
「厚意に感謝する」
青蘭が拱手して立ち上がろうとしたとき、扉が開いて男が入ってきた。
長恭だ、なぜ?・・ああ、万事窮すだ。三人が顔を合わせることは何としても避けたかったのに。早くここから逃げなければ・・・。
「用事がありますので、ここで失礼します」
青蘭が走り出ようとしたときに、長恭に腕を捕まれた。
「文叔、お前が何故ここにいるのだ?」
青蘭が力強い長恭の腕を振り払おうとしたが、無駄な抵抗であった。ああ、どうしよう。
「長恭、この者を知っているのか?」
ああ、全ての秘密は明らかになってしまう。
「ええ、同じ顔之推学堂の弟弟子です」
長恭と子靖は、同じ学堂に通っていたのか。学堂を紹介しようと思っていた敬徳は、がっかりして溜息をついた。顔之推に弟子入りしてたということは、子靖はそれほど惨めな暮らしではないということだろうか。
「何と敬徳と子靖が兄弟弟子とはな。まあ、顔之推の弟子になれば、心配ないか」
こうなれば、この場を逃げるわけにはいかない。三人が席に着くと、料理が運ばれた。
「長恭、前に話しただろう?この若者が江陵から戻るときに助けた少年だ」
敬徳が、魯陽で助けた少年は、文叔だったのか。妓楼に招くとは、どのような関係なのだろう。長恭は、二人の顔を代わる代わる見比べた。
「文叔の話していた命の恩人は、敬徳だったのか」
「ああ、山賊が跋扈する江北をたった一人で旅するなんて、命を捨てるようなものだろう?案の定途中で山賊の襲われて、もし俺がいなかったら命を落としていたぞ」
敬徳は、困った奴だというように苦笑いをした。
「本当に、敬徳のお蔭で、鄴までたどり着けたのだ。まさしく命の恩人だ」
青蘭は、敬徳に向かって小さく拱手した。
運ばれた料理が旨そうな湯気をあげるが、青蘭は生きた心地もしなかった。縁談の顔合わせの話が出たら、全ては白日の下にさらされるのだ。
敬徳は、上機嫌で料理を取り分けると、長恭に顔を向けた。
「長恭と子靖が同門だったとはな、・・・これは好都合だ。子靖は、親戚のところに居候して、肩身の狭い思いをしている身の上だ。長恭、子靖の学問に協力してやってくれ」
同族の楽安公主にさえ冷淡なのに、文叔のためにこれほど親切にするなんて。いったい、文叔と敬徳はどのような関係なのだろう。
長恭は腕を組むと、口を歪めて青蘭の方を見た。
「私はかまわないけれど・・南朝の若君が私の忠告を受け付けるかな?」
長恭なぜか不機嫌に、青蘭を睨んだ。師兄ともめるわけにはいかない。
「師兄の教えを、守ります。よろしくご指導ください」
青蘭は立ち上がると、大げさに拱手をして恭敬の姿勢を示した。
多忙な敬徳は酒を数杯飲むと、ほどなく帰って行った。
青蘭はなぜか不機嫌な長恭と昼餉を摂り、妓楼を出た。長恭と文叔は、交わす言葉も無く門街を歩いた。先を歩く長恭は、青蘭が取り付く島も無い。
「師兄、何を怒っているの?」
青蘭が袖を掴んだが、乱暴に振り払われた。
「長恭師兄、私が何か気に障ることを言ったら、謝るから・・」
青蘭がなおも追いすがると、長恭が腕をつかんで引き寄せた。
「江陵から来るときに、助けられた恩人が敬徳だと何故言わなかったのだ。敬徳とそれほど親しいのか?」
「二人が知り合いだと知らなくて・・・。皇族との関係をむやみに話すべきではないと思って黙っていたのだ」
皇族との付き合いをひけらかす輩は多いが、文叔が権門との関係をむやみに話さないのは、見識だと言える。しかし、自分の知らないうちに、文叔と敬徳がこれほど親しくなっていたなんて・・・。ざらざらとした焦燥感が、長恭の胸を騒がせた。
「敬徳と親しいなら、秘密にせず、師兄に話すのが自然であろう?」
「師兄に隠すつもりはなかったのだ。ただ・・」
青蘭は長恭の顔を正視できず、下を向いた。
文叔には、何か言えない秘密があるのだろうか。
「文叔、・・もういい。・・・ただ、敬徳は、お前を子靖と呼んでいた。お前は文叔なのか、子靖なのか」
長恭は文叔の顔をのぞき込んだ。何か感づいているのか?
「文叔は、師父からもらった学堂での字だ」
「そうか、学堂の名か・・・」
士大夫は、本名である諱の他に、加冠を済ませると字を持つようになる。文叔と子靖を使うことも何ら不自然ではない。
女子である事は、決して長恭にも敬徳にも悟られてはならない。青蘭はあえて胸を張ると、男子のような仕草で長恭の胸を押した。
「南朝から来た自分のような者は、いつ何時命を狙われるか分からない。だから、黙っていた」
青蘭は、申し訳なさに肩を落とした。
「お前は腕っ節が弱いから、弱気なんだな。いざとなったらこの師兄が守ってやろう」
長恭は、横に立つ青蘭の背中を乱暴にたたいた。敬徳への嫉妬心に気付かれてはならない。長恭は文叔の両肩に手を遣ると、顔をのぞき込んだ。
「師兄・・・?」
何で長恭はこんなに優しいのだろう。
「文叔、これからは何でもこの師兄を頼ってくれ。困ったことは、二人で乗り越えていこう」
疚しさに目を瞬かせながら、青蘭は笑顔を作った。
★ 四阿での勉学 ★
水が温み、蒼空が黄砂の色を帯びてきた。山野の叢生も青味を増した。顔之推の学堂では、少しずつ弟子も増え、師父の他に名のある学者による講義が行われるようになってきた。
顔氏邸の後苑、白梅の林に囲まれた四阿で、長恭と青蘭は、顔之推から受ける講義の予習に余念がなかった。
長恭が目を上げると、うつむいている文叔の長い睫が目に入った。
『文叔は、敬徳とどれほど親しいのだ』
文叔と自分は、特別親しい兄弟弟子だと思っていた。ところが文叔は敬徳が命の恩人だと自分に話してくれなかったのだ。
自分と文叔は、学堂の兄弟弟子に過ぎないのか。単なるそれだけの関係なのか。文叔は情に厚い男だ。自分に秘密にするとは、よほど敬徳が大切な存在なのだろう。
「ねえ、師兄」
文叔が読んでいた『荀子』から、突然顔を上げた。長恭の顔が、思わぬ近さにある。
「勧学篇には、『我を非として当たる者は吾が師なり』とある。これは、どのような意味なのだろう?」
長恭にとっては、すでに師父に個人的に学んでいるところである。
「そうだな、我を非として当たるとは、自分を悪として向かってくる者と言う意味だ。そういう者こそ自分の師と考え、自分を磨くと荀子は言っているのだ。もちろん、自分を善として向き合ってくれる者は、自分の友であるというのは当たり前だろう?」
文叔が読んでいる文面を、指でなぞりながら長恭は答えた。
「師兄、自分を認めてくれる者を友とするのは分かる。しかし、普通の人間が、自分を悪として向かってくる者を、師と思えるだろうか?」
人間の度量は、それほど大きくない。青蘭は、江南で他人を陥れる者を何人も見てきた。
「他人の足らぬ所を指摘することは、なかなかできぬ事だ。時に恨みを買う。・・・ゆえに、指摘を受けた人はそれを教えと思い、己を向上させよということだ」
長恭は、諭すように微笑んだ。
「耳に痛い諫言を受け入れられる人物こそが、進歩すると言うことか。・・・素晴らしい考えだが、自分には難しいな」
青蘭は、額を押さえながら溜息をついた。
「私だって難しいさ。しかし、母上を早くに亡くした自分には、かばってくれる者などいなかった。だから、他の者に揶揄されたときは、それを奮起の材料にしたのだ。やけになったら、今の私はいなかった」
青蘭は、先日の晴児の話を思い出した。
高長恭は、今上帝の甥に当たり皇子の身分を有する皇族だった。しかし、両親を幼くして亡くした長恭は、皇太后に引き取られた。後ろ盾を持たない幼い皇子が、どの様に生きてきたのか想像もできない。
両親を幼くして失った長恭は、常にそのような思いで人生の荒波をくぐり抜けてきたのか。長恭は、ただ美しいだけの我が儘な若君ではなかったのだ。
『鮮卑族は、何よりも武勇を重んじる。もしかすると、師兄は、武術が苦手で、それを学問で補おうとして学堂に入ったのかも知れない』
青蘭は武門の御曹司にしては美麗な長恭の顔を見上げた。
「我が師父が厳しいということは、よい師であるということなのだね」
青蘭は、納得したように頷いた。
顔之推の講義は、厳しい。第一巻の勧学篇であっても、他の学者のような単なる文言の解釈に終わることはない。常に学士自身の考えを問うものであった。解釈を問うた後は、現在の政の問題点を論じるなど若い青蘭にも分かりやすい教え方であった。
「顔師父は、周より黃河を下って斉に脱出してきた。いわば英雄だ。その胆力は、武将にも劣らない」
長恭は、師父が住まう正房の方を望むようにして呟いた。
顔氏門下に入門して師兄に出会っていなかったら、どれほど、希望のない生活を送っていただろう。青蘭は、女子でありながら入門を許してくれた顔之推の度量の大きさに感謝した。
高敬徳が文叔の命の恩人であることを知った高長恭は、いつの間にか嫉妬している自分に苦しむのだった。




