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麗人と兄弟弟子に

元宵節が終わって数日、王青蘭は顔氏学堂に通い始める。そこで、高敬徳の想い人である麗人に出会った。男装の麗人だと思っていたのは、実は美麗な男子だった。

        ★     初めての学堂     ★  


 元宵節の三日後、顔之推の学堂に正式に入門を許された青蘭は、顔氏邸を訪れた。

 豪商として有名な鄭家の子弟である事を知られたくない王青蘭は、質素な馬車を仕立てて学堂を訪れた。

 青蘭は胸に白絹を厚く巻き、内衣を重ねて男らしい体格に見えるように工夫をした。琥珀色の長衣に地味な藍鼠色の外衣を着け、高く結った髷には漆塗りの冠を付けていた。

 青蘭は、表門から少し離れたところに馬車を停めた。御者の朱栄から束脩(入学の礼物)を受け取ると、顔家の表門を見上げた。

 表門をくぐり垂花門に至ると、青蘭は出てきた門衛に来訪を告げた。ほどなく、一人の家僕が脇から出てきた。痩せた体の三十歳ぐらいの男である。

「王文叔と申します。顔師父に入門のお許しを戴き、本日学堂に参りました」

 小さく拱手した青蘭は、顔氏への案内を請うた。

「伺っております。旦那様が、お待ちでございます」


「通せ」

 正房の前に立つと、ほどなく中から声が掛かった。

 青蘭は、内院(中庭)から、蝋燭の灯りがない正房に入ると目が慣れず薄暗く感じられた。目をこらしてみると、正面の几案に、顔氏が座っている。

「王文叔、顔師父に入門をお許しいただき、感謝いたします」

 真っ直ぐに進んだ青蘭は、朱漆塗りの小櫃と囊を床に置き、顔氏に三拝礼し師匠への礼を示した。

「立つがよい」

 文叔の名は、青蘭がこの学堂で学ぶために顔之推より授けられたあざなである。青蘭が、束脩の玉を贈呈すると、顔氏は蓋を僅かに開けて中を確認した。

「上質な玉だ。鄭殿に礼を言ってくれ」


 顔之推は小櫃を几案の上に置くと、青蘭の方に向き直った。

 女子である事を知られてはならないとの命の通り、王文叔は清雅な眉目に男子の髷を結い質素な装束に身を包んでいる。鄭家の令嬢となれば、結婚の相手に不自由はしないだろうに、なぜ王青蘭はこれほど学問に執着するのだろう。

「文叔、女子のそなたは、何のために学ぶのだ?」

 文叔は突然の問いに言葉に詰まった。

「私は、兄や父の目を盗んで独学で学んで参りました。『女戒』では、他家に嫁ぎ、夫に仕え、子を産む、それが女人の道であると記されています。しかし、女子の道はそれしかないのでしょうか」

「文叔よ、女子は学問をしても、官吏に登用されぬ。知っておらぬのか?」

師匠の言葉に、青蘭は眉を寄せた。

「女子は、官途に就くことはできないと知っています。しかし、学問は官途のためだけに学ぶのでしょうか。道を見つけ道を究めることこそ、学問であると信じています。女子であっても、人としてどう生きるべきかを、学ぶことは無意味ではありません」

 青蘭は、顔を上げて顔之推を観た。

「私は、南朝で戦乱にあえぐ女子を多く観てきました。誰かを頼りにして生きていくのではなく、女子も自分の力で生きて行くべきだと思うのです」

 青蘭の青臭い言葉は、師匠から一蹴されるのではないかと思っていた。しかし、顔氏は温順な目で文叔を見遣ると、身振りで椅子を勧めた。

 椅子を勧めるのは、青蘭の言葉を無下にしていない証拠である。青蘭は師匠の近くの椅子に座った。


 淮南の父親と一緒に暮らしていた文叔は、多くの困難を越えて鄴都に来たという。文叔に江陵から鄴都への出奔を駆り立てた思いは何だったのだろうか。

「そなたは、面白い女子だ。自分の力で生きていくなら、思う存分学び、己が行く道を探すがいい」

 目を細めて青蘭を見た顔之推は、腕を組むとしばらく瞑目した。

「文叔、そなたは、なぜ梁が滅んだと思う」

 顔氏は、急に話題を変えた。顔之推は、梁出身の儒学の大家である。梁の再興のために戦っている王琳将軍の娘である青蘭は、返答に窮した。

「寡聞な私は、分かりません」

顔之推は、元帝が殺され江陵が陥落した後、長安に連行された十万人の一人である。顔之推は、射貫くような鋭い眼差しで青蘭を見た。

「南朝では、清談と称して桃下に集い、意味も無い人物談義に時を忘れていた。国の危急存亡の時にだ。『常に無欲にして似て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る』だ。何ぞ老子、何ぞ荘子だ」

 意味のない清談に時を費やす学問では、意味がない。顔氏は現実社会で実践することこそ学問の目標なのだと言った。経書の文言の解釈に終始している他の学者とは違っている、顔之推の熱い言葉に青蘭は胸を打たれた。

「有為なることを望むそなたは、ここで学ぶ資格が十分ある」


 顔氏は立ち上がると書架から書冊を取り、青蘭に手渡した。書冊の表紙には蒼い料紙に『荀子』と墨で記されている。

「荀子の第一章から載っている。まず、これで学ぶがよい」

「ありがとうございます。熟読致します」

 顔氏は、多くの書冊が並べられている書架の側に立つと、青蘭の方を振り向いた。

「文言を暗記するなど愚の骨頂。問い、かつ答える。それが学問を極める道ぞ」

「はい、肝に銘じます」

 青蘭は、『荀子』を懐に仕舞って拱手した。


「東廂房に書庫がある。中で閲覧することを許す」

 学者にとって蔵書は財産であり誇りであった。顔氏は貴重な書冊や竹簡が収蔵されている書庫への出入りを許してくれるという。何という恩恵か。

「ありがとうございます。師父に感謝致します。」

 青蘭は深く拱手をすると、正房から内院に出た。


    ★     麗人との出会い     ★


 気がつくと、内院の紅梅は既に散って白梅が咲きだした。梅の甘い香りが青蘭の鼻孔をくすぐった。

「ああ、ついに顔師父の元で学問ができるのだ」

 ここには自分の進むべき道がある。青蘭の心に、顔之推の温情が春光のようにじんわりと広がっていった。江陵からの続いてきた険しい山道は、顔之推の内院につながっていたのだ。


 青蘭は、橘の根元に咲く水仙のそばを通って東廂房の書庫に向かった。青蘭は、書庫の扉の前に立った。書庫の鍵はすでに開けられている。青蘭は呼吸を整えると音を立てて重い扉を押した。

 入り口の左右には、書架が数列並んでいる。書架には袋に入れられた竹簡や巻子本・帖装本などが整然と置かれていた。中に踏み入ると薄絹が貼られた東側の窓から陽光が薄く入り、南側の書見台では書巻を閲覧できるようになっていた。


学士たちが来るのには、まだ早い。中に入り書庫内を見回すと、だれもいない。

「ここで、毎日好きなだけ書籍を読むことが出来るのだわ」

 青蘭は、肩に掛けていた囊を書見台に置くと軽い足取りで横の書架に向った。梁では、兄の目を盗んで読んでいた書冊が、目の前の書架には体系的に収蔵されているのだ。夢のようだ。

 『文選』の書冊が目の前にずらっと並んでいる。青蘭は震える指でその一冊を手にした。全部あるなんて・・・。懐かしい友に再会したようだ。


 『文選』は、梁の昭明太子が、周の時代から梁までの優れた詩賦を選編した三十巻の書物である。南北朝時代の貴族や士大夫にとっては必読の教養書とされていた。青蘭も長沙の屋敷に居たときには、兄の書架から借りて詩賦を暗唱したり、書写したりして楽しんだものだった。

 阮籍の『詠歌懐詩』の章を開いた。自然に言葉に出して詠じた。


夜中 寐ぬる能わず

起坐して 鳴琴を弾ず

薄帷 明月に鑑らされ

清風 我が衿を吹く・・


 阮籍は竹林の七賢人の一人であるが、政治的な逆境の中、奇行や飲酒に韜晦しながら人生を全うした人物である。志を遂げられない阮籍の懊悩が、青蘭の心に迫った。顔氏門下に入門した記念として、阮籍の詩賦を書写して持ち帰りたい。

 青蘭は囊から書具を出し、墨を擦った。静かだ。ここでは、だれに遠慮をすることもなく学問に打ち込める。青蘭は、清涼な墨香を深く吸い込んだ。

 持参した料紙をの上に筆先を置くと、一文字一行ずつ運筆を考え、流れを生かしながら書き上げた。筆を置いた青蘭は顎に手を当てて眉を潜めた。思うようではない。落ち着いて筆を持ったのは久しぶりだ。

 青蘭は、声に出してもう一度詠じた。


夜中 寐ぬる能わず

起坐して 鳴琴を弾ず

薄帷 明月に・・・


 そこまで詠んだとき、青蘭の声にもう一つの声が重ねられていることに気付いた。


薄帷 明月に鑑らされ

清風 我が衿を吹く


 青蘭が、声のする方向に顔を向けると、何者かが、詠懐詩を詠いながら書架の向こうを歩いてくる。


孤鴻は 外野に号び

朔鳥は 北林に鳴く


 書架の尽きたところから、麗人が顔を出した。秀麗な眉目、桃花のような唇。何と、元宵節で目撃した高敬徳の想い人ではないか。なぜあの人がここに?

「お邪魔したかな?」

 麗人が低い声でしゃべった。麗人は、笑顔になって近づいてくる。敬徳の想い人だと思った美麗な男装の佳人は、何と男であったのだ。


何という麗容だろう。青蘭は書見台の前で身動きすることができなかった。

「勝手に詠歌に入ってしまったね」

 書架から書巻きを手にすると、青年は青蘭に笑いかけながら小首をかしげた。美しすぎる。窓からの初春の光に照らされ、青年は優美な仕草で拱手した。青年からふわっと香る沈香が、青蘭の心を怪しいまでにかき乱した。

「気分を害したかな?」

 その人は、固まっている青蘭に戸惑うような微笑で書見台に目線を落とすと、青蘭の書いた手跡に長い指を置いた。

「そなたも、阮籍が好きなのか?」

 清雅な笑顔を正視できずに、青蘭は顔を赤くしてうつむいた。

「私もだ。・・・志を遂げられぬ思いが身につまされて・・・」

遠目には女子のような華奢な麗人だと思ったが、近くで見ると肢体は逞しい長身の若者であった。

「おお、そなたの手蹟か?」

 若者は、青蘭が書写した詩賦の書蹟を観ると、驚いたように目を見開いた。

「私に譲ってくれぬか」

 いきなりの要望に、青蘭はとまどった。この書写が欲しい?

「それは、・・・それは、できません」

 青蘭は頭を振った。初めて学堂に来た記念に、詩賦を心の赴くままに書写したものなのだ。他人には渡せない。

「ねえ、・・いいだろう?」

 その麗人は、子どものように唇をとがらせて頭を傾けた。上等な縹色の上衣の青年は、斉の貴公子だろうか。潤んだ瞳と甘えるような仕草が、何の憂いもなく生きてきた査証に思える。


青蘭が困って眉を潜めると、青年は急に真顔になり姿勢を正した。

「あっ、突然の事で驚かせたな。君子はまず、自分から名乗るのが筋であったな」

 青年は、急に生真面目な顔になった。

「私は高長恭と申す。顔師父の弟子だ」

「私は、王文叔と申します。先日、顔之推師父に弟子入りしました」

 青蘭は威儀を正して、男子に見えるよう力強く拱手した。

 青蘭が顔を上げると、長恭は嬉しそうに青蘭の顔をのぞき込んだ。

「ほう、一月に弟子入りしたとなれば、・・・十一月に入った私は、そなたの兄弟子だな。師兄(兄上)と呼んでもいいぞ」

 長恭と名乗った青年は、得意げに胸を張った。

「はっ?たった二ヶ月の違いではありませんか。それだけで、師兄と呼べと?あまりにも横暴な」

 言われるままに従順に弟弟子になっては、女子であることを見破られてしまう。見ず知らずの北斉の貴公子に、兄弟子面をされたくない。

「そなたは知らぬのか?学堂では、弟子になった順番が大切だ。しかも、そなたは私より年下であろう?弟弟子は当然だ」

上品だと思った第一印象とは打って変わって、長恭は横暴な若様の顔を見せた。屋敷では我が儘一杯に暮らしているのだろう。

「分かりました。師兄、よろしくご指導ください」

 青蘭が、渋々と拱手すると、長恭は満面の笑みになった。

「分かった。弟弟子の王文叔、一緒に学問に励もう」


青蘭が、詩賦を記した料紙を仕舞おうとすると、長恭がすばやく料紙を奪い取った。

「返してください」

青蘭は必死に取り返そうとしたが、長恭は料紙を高く差し上げて届かない。南朝から来た若造だと思ってからかっているのか。

「ひどい。師弟にはどんな横暴なことをしてもいいと?・・あんまりだ」

青蘭が常ならぬ剣幕で叫ぶと、長恭は慌てて料紙を返した。せっかくの料紙がくちゃくちゃになってしまった。

「まったく・・何たる幼稚」

 青蘭がふてくされて文具を片付け始めると、長恭が袖を捉えた。

「ま、待ってくれ。・・・無理を言って悪かった。私は筆法には自信が無いのだ。だから上達したくて、よい手本を探していた」

長恭は、青蘭の肩に手を置くと向き直らせた。間近で花顔を見上げると、その麗容に息もできない。

「すまん、すまん。怒ったなら、許して欲しい」

 長恭は、手を合わせると懇願するように青蘭を覗き込んだ。何と端華な瞳だ。桃花のような唇は、何と魅惑的だ。

「ぜひ、そなたの手跡がほしい」

 元宵節での様子からすると、この長恭と名のる青年は、敬徳と親しい関係らしい。長恭と関われば、婚姻から逃げてきた王青蘭が王文叔だと知られてしまう。それは危険なことだ。しかし、兄弟弟子となった長恭と完全に関わりを絶ってしまう事も難しい。

「師兄、もう少し時間が欲しい。・・・自信の持てる書ができたら、お譲りします」

 長恭は、愁眉を開いた。


 書見台に置いた嚢を取り上げようとしたとき、青蘭の懐から『荀子』が滑り落ちた。青蘭より一瞬早く長恭が拾い上げた。

「脩身篇か・・・」

 長恭は、『荀子』をパラパラとめくりながら、文叔を盗み見た。官吏の子息を義理で弟子入りさせたのかと思ったが、顔師父は、この少年を本気で育てる気らしい。

「私も、同じ『荀子』を読んでいる。・・・今まで誰の元で学問をしてきた?」

「その、・・・独学で」

南朝では、女子が書籍をめくることさえ憚れるのだ。建康や長沙にいたときは、学堂への弟子入りなど考えられなかった。

「お前は、今まで学堂にいたことは無いのか。ふん・・初めての師匠が顔師父とは、お前は恵まれている。しかし、学問の道は厳しいぞ。分からないところがあったら、この兄弟子に訊くが良い」

 長恭は、書冊を閉じると青蘭に返した。先ほどとは打って変わって、師兄らしい心遣いだ。美貌の貴公子は気まぐれだが、思いの外温柔な人柄のようだ。しかし、ここで気を許してはならない。南朝では、鮮卑族の残虐さが広く知れ渡っている。斉の貴公子との付き合いは、思わぬ災難を招きかねない。言動に気を付けねば・・・。

「師兄の教えを心に刻みます」

 警戒心の拭えない青蘭は、取り繕うような笑顔を浮かべると丁寧に拱手した。


       ★    学堂と朋友      ★


「夜中 寐ぬる能わず、起坐して鳴琴を弾ず」

 帰りの馬車の中で、長恭は阮籍の詠壊詩を口ずさんだ。

 『文選』は、母がよく読んでいた。皇太后府に引き取られたものの進む道が分からなくなったとき、『文選』の詩賦を口ずさみ先達の言葉に自分の嘆きを重ねたものだ。

 文叔の阮籍を詠ずる透き通った声が美しかった。声を聞いたときは、一瞬女子かと思ったが、声の主の文叔は大きく澄んだ瞳をした少年であった。南朝から来たと言っていたが、ただの少年とは思えない。

 女人のような細い肩、柔らかい頬。噂通り南朝の貴公子は、軟弱で馬にも乗れず剣も振るえないのだろうか。しかし、精美な詩賦の筆蹟と詩経の教養の高さは、さすが南朝の貴公子である。 

 南朝は、書聖の王羲之を始め多くの名筆を輩出している。王文叔のような若輩の少年でも、あの様な流麗な筆遣いができるのか。


長恭は、手文庫の中から自分の『荀子』を手に取ると、自然と唇が緩んだ。漢人の門弟たちに皇族である事が知れ渡ることは、鮮卑族としての身分にかかわる。しかし、文叔は純粋に学問を欲している。文叔を思い出すだけでなぜか頬が緩んでしまう。だれとも付き合うことがなかった自分に、顔氏学堂で初めて弟弟子ができたのだ。

 文叔の前では、なぜか感情を素直に出すことができる。

「王文叔か」

 その名前を口に出してみて、思わず微笑が漏れた。


 皇族は孤独である。兄弟でも母が違えば顔を合わせることはまれである。しかも、何にかに付けて比較されるために、親しみよりも敵愾心が先に立つのだ。

 父高澄と母荀芙蓉を早くに失った長恭は、祖母の元で養育された。他の兄弟たちは母親の一族の元で育てられた。しかし、後ろ盾となる一族を持たない皇子である長恭は、皇太后府以外に居場所がなかったのである。

 宮女や宦官に囲まれて暮らす長恭にとって、親身になってくれたのは、幼い頃から仕えてくれた乳母の劉氏ぐらいであり、本心をいつも隠して生きてきたのだ。

 婁皇太后は長恭を愛育してくれたが、祖母と言うよりは主君であった。祖母に愛されるためには、他の孫たちより優秀でなければならない。祖母の期待の中で、長恭は幼き頃より常に緊張しながら生活してきたのだ。

 しかし、王文叔の前では皇子としての身分や出自の引け目を忘れ、純粋な学士として自由に学問のはなしができる。


 漢人の顔之推は、斉に来朝して以来何人かの弟子を取っていた。朝廷に多くの官吏を送り込みたい思惑のある顔之推は、皇太后の依頼により長恭の入門を特別に許したのだ。長恭は、皇族であることを学堂内では内密にしていたので、自ずと兄弟弟子との交流は、少ないものとなった。しかし、皇子という身分を離れ、学友と交流しながら学ぶことは長恭の憧れであった。


「王文叔」

 もう一度、その名を呼んでみた。南朝の戦乱の中で十分成長できなかったのか。女子のように美しいが、身体が軟弱なままで成長しきっていない。

 きっと『女子のようだ』という言葉に王文叔は傷ついてきたに違いない。長恭も、これまで『女子のようだ』という言葉にどれほど悔しい思いをしただろう。

 文叔には自分と同じような思いはさせたくない。

 馬車の窓を開けて、通りの様子を覗いてみる。明るい早春の陽光が、長恭の花顔に刺してきた。


      ★    待ち人来たらず     ★


 高敬徳は、几から矢を取ると、矢継ぎ早に五本の矢を放った。

 清河王府の広大な後苑である。水仙の植えられている道を辿って的のある所に行くと、的の中央を僅かに外れている。

『ああ、私の気持ちが乱れている』

 敬徳は、溜息をつくと五本の矢を引き抜いた。


 一月の始めに清河王府に戻ると、敬徳は王子靖の訪れを心待ちするようになった。魯陽で王子靖を助けながら、西魏との国境の汝水方面を偵察するため、洛陽への道中で王子靖主従と別れなければならなかった。斉領内ではあるが、黄河を渡り鄴都までの道は危険に満ちている。はたして、主従は鄴城へ無事たどり着いたのであろうか。

 敬徳は、別れに際して、『何か困ったことがあったなら、清河王府に来るように』と曖昧に言ったことを、後悔した。道中の安全が心配だから必ず王府に来るようにと厳命すれば良かった。身分を明かして家人として雇い学問を続けさせると言えばよかった。

『清河王府に姿を現さないのは、むしろ、鄴都で、うまく暮らしていると言うことなのかも知れない』

敬徳は、そんなことを思って、己を慰めた。


 父親の不幸な死のために、明朗だった敬徳は、何事に寄らず他人を疑うようになった。父高岳が不幸に見舞われていたとき、敬徳は出征中だった。

 一族の重鎮として多くの廷臣を助けてきたにもかかわらず、だれも父を擁護する者はいなかったという。妃嬪との密通などあるはずもないのに。高一族は、何という薄情者の集まりだ。

 敬徳が戦場から凱旋してきたときには、慌ただしく葬儀が済んだ後だったのだ。身体の弱い母と他家に嫁いだ姉を責めることはできない。心痛の余り、母は半年後にみまかった。

 必ず父の敵を討つ。父の死以来、敬徳は高帰彦への殺意を悟られまいと、妓楼の馴染みとなり放蕩息子をよそおった。誰もが信じられず、他人と関わるのを避けるようになっていた。

 人々は敬徳の性格が変わったと噂をし合った。


 敬徳は、魯陽で出会った清雅な少年がなぜか気に掛かった。男にしては虚弱とも言える線の細さのせいであろうか。純粋すぎる志のためであろうか。客桟に戻って賊に遭遇したのも、もう一度顔を見たかったからだ。自分が失ってしまった、無辜な魂がそこにあるような気がした。

「王子靖・・・か」

 言葉に出して、その名前を言ってみた。甘やかな疼きが、心に掛かって消えた。

『なぜこんなに、気に掛かる?まるで女子に恋するようだ」

 敬徳は、子靖に茶房の『香麗房』を紹介していた。子靖は、酒を飲むよりむしろ茶を飲むのが南朝では当世風であると言っていた。

 鄴都に来ていたら、子靖は茶を求めて香麗房に来るに違いない。

『明日、香麗房に行ってみよう』

 香麗房で待っていれば、いつか王子靖に会えるかも知れない。


       ★     青蘭と阮籍     ★


 浅い春の陽光が、絹張りの窓から差し込んでいる。青蘭は几案を窓際に移動させて料紙を広げていた。


 詠懐詩を視写し終えた紙墨を見て、青蘭は溜息をついた。

「何で、譲るなんて言ってしまったのだろう」

 高敬徳の知り合いとは、高官の子弟かもしれない。学堂に入門しても朝堂にある者には近付いてはならないと、母からきつく言われていた。

『君の手跡がほしい』

 しかし、あの清澄な瞳で頼まれると、むげに断ることができなかったのだ。無心で紙に向き合おうとするが、長恭の秀麗な面影が去らない。男子とは思えない滑らかな頬に陰をつくる長い睫と桃の花のような唇が、優しくも傲慢に青蘭に懇願したのだ。


「お嬢様、書法の稽古でございますか」

 晴児は、几案の端に茶杯を置くと、散らばっている料紙を拾い集めた。青蘭は、頬杖を突いて口を尖らせたた。

「入門して、さっそく師兄に手跡を所望されたのだけれど、思うようにできなくて・・・」

「もう、朋友ができたのですか?・・・私には、どれも素晴らしいお手に見えますけれど」

 晴児は、横に座ると墨を摺り始めた。青蘭は、茶杯を手に取った。口に含むと馥郁たる香りが鼻孔をくすぐる。

「昨日、江南より届いたお茶でございますよ」

 それは懐かしい建康の香りだ。

 青蘭は、自分の手跡を眺めた。長恭の手元に長く残る手跡が劣った物だったら、どれほど悔しいだろう。長恭の、時に傲慢で時に幼稚にかがやく清澄な瞳・・・。詩賦を語るときの熱っぽい言葉を吐く花弁のような唇を思い出すと、なぜか胸が熱くなる。

 長恭に褒められたいという欲が微妙に筆流を歪めている。ああ、学びに専一であれという荀子の教えを自分はすでに逸脱している。


『もう少し、書法に向き合ってみよう』

 青蘭は、茶杯を晴児に返すと筆を執った。

やっと出来上がった手蹟を手にして青蘭は、顔家学堂に出かけていった。

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