元宵節での出会い
男装して顔之推に弟子入りすることが決まった王青蘭は、女子としての最後の元宵節に出掛けた。灯籠見物をしているとき、命の恩人である高敬徳を見かけた。
★ 元宵節の夜 ★
元宵節は、新年最初の満月を祝う祭りである。
人々は道教の神である上元天官を祭るために灯籠を飾ったり天灯を上げたりして、華やかな雰囲気で邪気を払う。戦乱に荒れた建康では掲げられる灯籠も少ないが、北斉の都である鄴都では、櫓に掲げられた灯籠で昼に見紛う明るさだ。
望月が高く登る頃には、鄴城内に引き込んだ漳水溝の辺で、多くの人々が思い思いの願いを書いた天灯を飛ばし始めていた。
中陽門街に面した香麗房の二階から夜空を望む。いまだ宵の明るさを残した薄藍色の空に、天灯の明るさがゆらゆらと昇っていくのが見える。
窓際にいた敬徳は振り向くと、長恭に声を掛けた。
「鄴都の元宵節は久しぶりだな。南朝からの帰還が遅れていたら、この美しい灯籠見物もできなかった」
いつもは落日と同時に城門を閉め、夜間の外出が制限される鄴城も、元宵節の今夜は灯籠見物のために多くの士大夫や民が自由にそぞろ歩いている。敬徳と長恭は、鄴で一番の茶房である香麗房に席を取り、日が落ちるのを待っていた。
「そうだな、我々は、昨年の元宵節のときは汾州に出陣していた」
一昨年の冬から次の年の春にかけて、敬徳と長恭は斛律光の指揮のもと、汾州に出陣し西魏と対峙していたのだ。中原(黄河流域を中心とした中国の中心)で最強を誇る斛律光は、北周の三鎮(天柱・新安・牛頭)を陥落させる戦果を挙げて、昨年の春の半ばに凱旋したのだ。
「その間に、父上があのようなことになるなんて・・・」
敬徳が、眉を潜めて唇を震わせた。二人が汾州に出陣している間に、敬徳の父である高岳は、高帰彦の誣告を受けて毒酒を下されたのだ。
高洋の後宮に入宮した薛妃と高岳が、かつて男女の関係だったと高帰彦が訴えたのである。妻と娘の命を盾に脅迫された高岳は、やむなく毒を仰いだのだ。
「高帰彦の訴えが讒言だったと分かっても、陛下は高帰彦を罰しなかった」
そうつぶやくと、敬徳は卓の上で拳を作った。
高岳の無実を知った高洋は、汾州から凱旋してきた敬徳に、清河王の爵位を継がせると、申し訳程度に開府儀同三司を贈り祠部尚書の職に就任させたのである。
「父上は長江に出陣して、斉と梁との会盟を実現させるなど、手柄を挙げていた。高帰彦は、父上の栄達を妬んで陥れたのだ。幼き頃は我が家に寄宿して、母上に面倒を掛けたのに・・・」
敬徳は、苦い物を吐き出すように低い声で言った。皇族の力を削ぎたい皇帝の意向を読んだ高帰彦が、無実を承知で罪に落としたのだ。
高帰彦は幼少時に高岳夫婦に預けられた。そのとき、十分な世話をされなかったと、恨んでいたという。
「父上の名誉を回復し、敵を討つ。必ず高帰彦を後悔させてやる」
敬徳の端正な瞳が、今日は恨みの炎に燃えている。祠部尚書は、礼部尚書とも言われ、礼楽祭喪などを司る役職であり、尚書といっても武功に優れた敬徳に相応しい官職ではない。そんな中でも、敬徳は祠部尚書の権限を利用して高帰彦の不正を探索していた。
「敬徳兄上、・・・」
長恭は、敬徳の拳に手を重ねた。温順な敬徳が、憎悪を口にするのは高帰彦だけだ。
「高帰彦を憎む気持ちは、私も同じだ。心ある廷臣は、みな高帰彦の不正に憤っている・・でも焦ってはいけない」
長恭は茶杯に清明茶を満たすと、気持ちを静めるように敬徳に勧めた。
「長恭、敵討ちなど無理だと思うのか?」
「敬徳兄上、・・・私も思いは同じだ。・・・でも、高帰彦は寵臣だ。焦ったら、返り討ちに遭う。叔敏姉上の命さえ危ないのだぞ」
夫高岳の死に寝込んだ敬徳の母親は、看病のかいもなく夫の後を追った。他家に嫁いだ姉の高叔敏は、父母の死に負けず気丈に振る舞っていた。
敬徳は茶杯を手に持つと、口にした。
「自分に力が不足しているのは分かっている。だから、朝政での力を付けるべく、段韶叔父上の助言に沿って、梁や陳、西魏に配下を送り、自ら出向いて情勢を探っている」
敬徳は、梁の情勢を探るために縁談の顔合わせを口実に江陵に出掛けた。しかし、詳しくは長恭には話せないことだった。
「敬徳、最近は江南からの亡命者が増えている。各国の情勢は?」
いまだ仕官していない長恭にあっても、諸国の情勢は関心がある。
「長恭聞いたか?この一月、宇文覚が禅譲を受けてついに、周を立てたのだ」
西魏は恭帝を戴いていたものの、すでに宇文泰が長らく実権を握っていた。そしてこの年の一月、正式に宇文泰の息子である宇文覚が皇帝になり、北周が成立したのである。
「ついに、宇文泰の息子が皇位を簒奪したか、体制を整えたら、斉への攻勢が激しくなろう」
「ああ、実権を握っている宇文護は、鮮卑族を中心とする武断政権を作っている。斉は本気になって国を立て直さないと大変なことになるぞ」
敬徳は国境近くまで行って、周の内情を探ってきたらしい。
「江陵の陥落以来・・・」
敬徳が北周の情勢を説明しようとしたとき、客房の扉が開いて楽安公主が侍女を伴って入ってきた。警戒した敬徳は、途端に口をつぐんだ。
「兄上たち、待った?」
薄紅色の長裙に躑躅色の外衣を身につけた楽安公主は、金の歩遙を揺らしながら椅子に座った。敬徳が楽安公主に声を掛けたのである。
楽安公主は、高澄と正妃である馮翊公主の間に生まれた長恭の異腹の妹である。字を瑟瑗と言い瑗児と呼ばれていた。父高澄の生前、高家屋敷に住んでいたときは、兄である高長恭に辛く当たった楽安であったが、長恭が祖母の寵孫になり、その美貌が評判になると何かとおもねるようになってきたのだ。
「瑗児よ、三兄が、外出をよく許してくれたな」
「義姉上と灯籠見物に出たの。唯品閣での買い物の途中で抜け出してきた」
息を弾ませながら、楽安は差し出された茶を飲み干した。
「族兄上、・・・敬徳兄上にお願いがあるの」
楽安公主は、隣にすわる敬徳の肩に甘えるように身を寄せた。
「崔達拏との婚姻の聖旨を、取り下げるように陛下にお願いしてほしいの」
以前、婁皇太后への働きかけを長恭に頼んだが、結局は梨のつぶてだった。一応諸相の一人である祠部尚書になった清河王高敬徳は、無官の四兄(長恭)より力があるに違いない。
「瑗児、頼む者を間違えていないか?まず第一に兄の孝琬であろう?」
三兄の孝琬は、何と言っても楽安公主の同母兄である。
「兄上は、けんもほろろよ。冷たいの、取り合ってもくれない」
瑗児は、唇を噛んだ。
「楽安よ、そなたは斉の公主だ。市井の女子のように、好きな男子に嫁ぐことはできぬのだ。崔達拏は知っているが、附馬(公主の婿)に相応しいよい男だ。お前を幸せにしてくれる」
笑顔を作りながら敬徳が言った。
「敬徳兄上、あんな真面目なばかりで、面白みのない唐変木、好きになれない。不細工な顔を毎日見なければならないなんて、真っ平よ」
公主は、口をとがらせた。
「楽安・・・崔達拏は信頼に足る男だが、お前がそこまで言うのなら、陛下に頼まないでもない」
敬徳は瑗児にそう言うと、一口酥を勧めた。
「ありがとう、さすが敬徳兄上だわ。きっとよ、きっと陛下を説得してね」
公主は笑みを浮かべると、敬徳に抱きついた。楽安公主は、本当の苦難という者を経験したことのない明るさで敬徳の顔を見上げた。
「敬徳兄上には、陛下も借りがあるもの、きっと聞いてくださるわ」
冤罪で父親を死罪にしている今上帝は、敬徳の願いを拒めないであろうと楽安は踏んでいるのだ。公主は一口蘇を摘まむと、口に入れた。
「お願いよ」
楽安は、そう言い置くとそそくさと客房を出て行った。
「敬徳、偉いことを引き受けたな」
長恭は、清澄な瞳で敬徳を見ると茶杯を持った。
「聖旨が出たことを、覆すのは容易ではないぞ」
敬徳は、腕を組んだ。
「もちろん、聖旨を覆すことはできない。・・・崔達拏の父親の崔暹は、謹厳実直な能臣で陛下の懐刀だ。今度、尚書右僕射(宰相)になることが決まっている。崔暹の息子と楽安公主の婚儀はだれにも止められないさ」
皇族の台頭を懸念している高洋は、漢人官吏の力を利用して勲貴(鮮卑族の将軍)の権力を削ぐことを狙っていた。
「なら、どうして、できぬことを引き受けたのだ」
「無理なのは分かっている。でも女子の瑗児にとって婚儀は人生の一大事だ。陛下に願ってもだめだったと納得して、・・・受け入れるのも悪くない」
敬徳は、皮肉な笑いを浮かべてかぶりを振った。最初から説得する気などなかったのだ。
「敬徳、お前というやつは・・」
最近、今上帝高洋は精神的な混沌の度合を増している。下手な諫言は、命を失いかねない。
「公主が我が儘をいえるのは、最期には政略に利用されると決まっているからさ」
敬徳は冷酷なまなざしで、長恭を見やった。
長恭と敬徳は、茶楼を出ると灯籠飾りが列をなす門街を南に向かった。夕暮れが迫ると昼間のように明るくなった大路を、灯籠見物の人並みが埋め尽くしていた。
「長恭、この先に、猜灯謎の櫓があるのだ。行ってみよう」
敬徳が猜灯謎に誘うと、長恭は目を輝かせた。猜灯謎は、漢字の意味や言葉の成り立ちから解くなぞなぞの文字遊びである。
「猜灯謎かあ、すぐに行こう」
猜灯謎の櫓の所まで来ると。二人は赤い灯籠を見上げた。灯籠には、短冊が下がっておりそこに謎解きの文言が書いてある。長恭が手を伸ばしてその中の一つを取った。
★ 元宵節の麗人 ★
夕闇が迫っていた。鄭家の邸内からも灯籠見物に出掛けようという家人のざわめきが聞こえてきた。
青蘭は、顔家学堂への入門の支度をしていた。几案の上には、家宰が用意した硯・筆・墨、そして料紙が並べられている。青蘭は、それらを書箱に入れて布で包むと嚢に収めた。
青蘭は書架から『文選』を取り出すと、蝋燭の灯りの中で開いた。
日夕 陰雲起こり
城に登りて洪河を望む
川気 山嶺を冒し
驚湍 厳阿に激す
日の暮れに暗い雲がわき起こり
城郭に登って大河を望みやる
河の靄は山の峰を覆い隠し
早瀬の流れは、岩の奥にぶつかる
潘岳の詩賦である。
潘岳は、魏晋南北朝時代の初期、西晋の政治家にして詩人である。河陽県の長官に赴任した潘岳が、日暮れの城郭に登り、洛陽への帰郷を願う詩賦である。官職への仕官も思うようにならず、潘岳は、自分と同じように進むべき道に迷っていたのだ。
侍女の香華が盆に男子の衣を載せて居房に入ってきた。
「お嬢様、衣をお持ちしました。・・・こんな地味な男子の衣でよろしいのですか」
香華が、けげんな面持ちで衣を差し出した。青蘭は質素な藍鼠色の外衣と琥珀色の長衣を衣桁に掛け、女子の帯や背子を大きな櫃に収めた。男子として学堂で学ぶためには、日常でも男子の生活をしなければならない。
南朝で戦場に出るときは、男子の髷を結い甲冑をまとって剣を振るった。江陵から出奔したときも、道中は男装で、だれも疑うことはなかった。青蘭は、まとっている外衣の袖を撫でた。きっと大丈夫だ。この珊瑚色の外衣も、これから纏うことも無いだろう。青蘭は愛おしむように中紅色の長裙の裾を摘まんだ。
一月の夕暮れは早い。酉の刻(午後六時)が過ぎると、灯火が夕焼けのごとく空を照らしている。青蘭は、居房の扉口に立ち南の空を見上げた。通りを行き交う人々のざわめきが聞こえる。忘れていたけれど、今夜は元宵節の宵なのだ。
子供の頃は、母と一緒に建康の灯籠見物にいったものだった。鄴都は、荒れ果てた南朝とは比べ物にならないぐらい華やかな灯籠飾りだろう。
青蘭は、元宵節の時に出される『謎面』(なぞなぞ)が好きで、よく挑戦したのだ。明日からは男子の装束で、女子の格好は今日を限りだ。女子の姿で最後の灯籠見物をしてみたい。
青蘭は白い狐の縁飾りが付いた披風をまとうと、灯籠の灯りに誘われるように垂花門を出た。
鄭家から大路にでると、通りには灯火の櫓が林立し、昼を思わせる明るさであった。灯籠の外側には、四季の緻密な花が描かれている。太平坊に至ると、そこは妓楼や酒楼が多い一角である。商賈の前の灯火は一段と華麗さをまし、五色の布飾りが美しく周りを取り囲んでいた。
青蘭は、『謎面』を見つけると櫓の下に行き、下げられている灯籠の迷面の短冊を掴もうと手を伸ばした。とその時大柄な男の一団が来て、青蘭は人波に押されて転びそうになった。痛い。櫓の柱に身体を打ち付けられた青蘭は、痛さに肩をおさえた。
何という人の多さだ。
青蘭は櫓の裏側の暗がりに入ると、ぼんやりと通り過ぎる人を見ていた。あれは?猜灯謎の灯篭の灯りの下に、見覚えのある青年が現れた。
青年は、手を伸ばして灯篭から下がっている短冊を返した。高敬徳だ。孔雀青の外衣に見事な銀の冠を付けた貴公子は、まさしく命の恩人の高敬徳ではないか。困ったことがあったら、訪ねてこいと親切に言ってくれた敬徳は、清河王その人であったのか。清河王の怒りを買えば、父上にも累が及ぶ。
自分が縁談から逃げ出した張本人だと知られてはならない。青蘭は、柱の陰に身を固くした。
敬徳は迷面の短冊を返して灯りにかざして見る。敬徳は花のような笑顔になると、隣にいる美しい男装の佳人に話しかけた。滑らかな頬に精美な眉目の佳人は、親しげに敬徳の耳元に顔を寄せた。
男装した女人であろうか。青蘭は、花のような佳人から目を離すことができなかった。敬徳の恋人であろうか。
よほど親密なのだろう。敬徳が人前も憚らず佳人の肩を抱き寄せると、後ろに垂らした髪をなでた。麗人は破顔すると、澄明な笑顔で敬徳の胸を拳でつついた。
妖しいほど美しい。笑顔になると佳人の瞳は、妖から陽となり晴朗な温かさに包まれた。
敬徳と顔を会わせるわけにはいかない。青蘭は、隠れていなければと思いながらも、美しい男装の女人から目を離すことができなかった。
突然、大柄な男の影が右側からやってきて、迷面の短冊を選んでいると、王敬徳と佳人の姿は跡形もなく消えてしまった。あの美麗な佳人は、幻だったのだろうか。清澄な佳人の面影がちらついて、青蘭はしばらくその場から動くことができなかった。
この時代、鮮卑族の王朝である北斉では、活動的な女人が多く、男装をして鄴都を闊歩する女子は珍しくなかった。あの男装の佳人は、清河王の恋人であろうか。あれほどの秀麗な恋人がいたら、江陵で青蘭と顔合わせをしたとしても婚儀には至らなかったにちがいない。
平凡な小娘に過ぎない自分なんて、あの麗人に比べれば、物の数ではないのだ。深い溜息をつきながら青蘭は、足を引きずるように鄭家に戻った。
元宵節が終わった次の日、王青蘭は、顔家学堂に通いはじめた。




